ここは、私の居場所じゃないと思いました
目を覚ましたとき、最初に感じたのは、あたたかさだった。
雪の夜に奪われていた感覚が、ゆっくりと身体に戻ってくる。柔らかな寝台。何枚も重ねられた毛布。寒さで強張っていた指先まで、じんわりと熱が行き渡っていた。
——生きている。
そう思ったのに、すぐには身体が動かなかった。
視界に入ったのは、見慣れない天井だった。
白く、高く、余計な装飾はないのに、どこか落ち着いた気配がある。
身体を起こそうとして、はっとする。
白いシーツが、あまりにも綺麗だった。
反射的に、自分の腕を見る。
細く、骨ばっていて、ところどころに薄い汚れが残っている。雪と埃と、長い間落としきれなかった汚れ。
——汚してしまっている。
胸の奥が、きゅっと縮んだ。
こんなに白くて、清潔な場所に、こんな薄汚れた身体で横になっていていいはずがない。
慌てて身を縮めたとき、扉が静かに開いた。
「お目覚めですね」
入ってきたのは、若い女性だった。
着ている服は仕立てがよく、布の質も一目で分かるほど上等だ。
その後ろに続く使用人たちも、同じだった。
皆、顔立ちは整っていて、動きに無駄がない。
——ここは、どこだろう。
疑問より先に、不安が胸を満たす。
貧困街で、こんな服を着た人間を見ることはない。
ましてや、子どもの私が連れてこられる理由など、ひとつしか思い浮かばなかった。
——売られた、のかもしれない。
貧困街では、珍しい話ではない。
子どもは、簡単に価値として扱われる。
働けるか。
どれくらい言うことを聞くか。
どんな目で見られるか。
大人たちが交わす言葉の意味を、全部理解していたわけじゃない。それでも、夜に連れていかれた子が戻ってこなかったことを、何度も知っている。
思い出すだけで、喉の奥がひりつく。
私は思わず、白いシーツの端を強く握りしめた。
「無理に動かなくて大丈夫ですよ」
使用人の女性は、私の様子に気づいたのか、やわらかく微笑んだ。
「……主人様がお呼びです」
その一言で、心臓が大きく跳ねた。
——主人。
その言葉は、貧困街では、あまり良い意味で使われない。私は、何も言えないまま、頷くことしかできなかった。
寝台から降りようとしたとき、足裏にひやりとした感覚が伝わった。
——裸足だ。
慌てて足元を見る。
指先は細いけれど、爪の間には黒ずみが残っていて、どれだけ歩いてきたのか、自分でも分かるほど汚れていた。こんな足で、この場所を歩いていいはずがない。
「こちらを」
差し出されたのは、柔らかそうな靴だった。
ふかふかで、形も整っていて、貧困街では見たこともない。
「……いいんですか」
思わずそう聞くと、使用人の女性は、少しも迷わず頷いた。
「ええ。履いてください」
私は自分で履こうとして、うまくいかなかった。
指先が震えて、力が入らない。
次の瞬間、女性が私の前にしゃがんだ。
——え?
綺麗で、細い指先が、私の足に触れた。
びくりと、身体が跳ねる。
——こんなに、汚れているのに。
それでも、その手は迷わなかった。
黒ずんだ爪。
埃の残る皮膚。
触れられるなんて、思っていなかった。
思わず足を引こうとして、でも、できなかった。
足に触れる手が、あたたかい。
指先は迷いなく、丁寧に靴を履かせていく。
まるで、汚れなんて見えていないみたいに。
——世話、されている。
その事実に、胸の奥がざわついた。
こんなこと、されたことがない。
誰かが、私のためにしゃがみこんで、
当たり前のように触れてくるなんて。
靴を履かせ終えると、女性は何事もなかったように立ち上がった。
「行きましょう」
床の冷たさは、もう感じなかった。
促されるまま、私は廊下を歩き出す。
長い廊下。磨き上げられた床。
壁に掛けられた装飾や絵画も、派手ではないのに、どれも高価だと分かる。
——やっぱり、私が来る場所じゃない。
そう思えば思うほど、足取りが重くなった。
やがて、扉の前で立ち止まる。
中から、二人分の気配がした。
ゆっくりと扉が開く。
そこに立っていた瞬間、息を呑んだ。
黒髪の男性は、落ち着いた色合いの上着を身に纏っていた。装飾はほとんどない。けれど、生地の張りと仕立ての良さが、一目で分かる。
顔を上げたとき、赤い瞳が、静かにこちらを見た。
その視線には威圧感はない。
それでも、目を逸らしたくなるほど、はっきりとした存在感があった。
隣に立つ女性は、深い紫色のドレスを着ていた。
光沢は控えめで、宝石もほとんど身につけていない。けれど、布が動くたびに、重みと柔らかさが伝わってくる。——良いものだ。
飾らなくても、価値が隠しきれない。
そんな服だった。
白金の髪。そして、赤い瞳。
微笑みは優しいのに、その場に立っているだけで、空気が引き締まる。——この人たちは高貴な人だ。
一目で、そう分かった。
私は、無意識に自分の腕を見下ろした。
細すぎる腕。
痩せっぽっちで、貧相な身体。
——私、場違いかも。
胸の奥に、はっきりとした居心地の悪さが生まれる。
「怖がらなくていい」
黒髪の男性が、落ち着いた声で言った。
「ここは、君が休むための家だ」
その言葉が本当か嘘かなんて。
その時の私には判断することができなかった。




