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小説

桃色の殻

作者: ちりあくた

 卒業式を目前にした教室はなんとも不思議だった。誰もが現実を見ていながら、誰もが日常を装っている。私はなぜか、黒板上の鮮やかな祝辞から目をそらしてしまった。

 たとえ高校生の一歩手前にいようと、私はまだまだ、制服の袖から手首が出たばっかりの子供だった。他のみんなも同じだ。やんちゃな男子たちは遊園地みたいな騒がしさを奏で、私を含めた女子たちはハイトーンで騒ぎ立て、その流れに逆らって口を閉じるクラスメートすら、かえって幼稚っぽいように思われる。

 私はなんだかこんがらがってしまい、会話中の女子グループを「ちょっとトイレ」と脱け出して、お手洗い横の通路から窓の外を見つめていた。校庭の四隅にはしだれ桜が繁っている。青天の中に桃色の紙吹雪をパラパラと散らして、まるで私たちの門出を祝福しているようだった。

 ……急に、さみしさが湧く。


 私だけが過去の問題にじっと居て、いつまでも未来へ進めないように思えた。


「すずちゃん、どうしたの? 寂しくなっちゃった?」


 背後から突然、綿のような声に襲われる。私はその声を知っていた。そこには見慣れたあどけない顔が、短いツインテールをそよそよと揺らしながら、きょとんと私を覗いていた。

 彼女は羊子といった。初対面では「ようこ」と聞いて、陽やら葉やら洋やら色んな漢字を連想したけれど、まさかヒツジだなんて予想もつかなかった。彼女を知る人は皆、口を揃えて「羊子ちゃんは天使だ」と言う。どこかふわふわした覚束ない雰囲気は、まさに羊の毛並みのようだ、とも。


 私だったら天使の前に「堕」をつける。そして、羊子の「羊」は「羊頭狗肉」のそれだとも言うだろう。

 私だけが彼女のおぞましい本性を知っていた。彼女の表面には、何層もの桃色の殻がかぶさっていて、何度も何度もそれを引っぺがしていくと、最後には弱々しい赤ん坊だけが残る。その子は金切り声でぎゃあぎゃあ欲望を叫んでは、狡猾にもみんなを騙し続ける。

 それを悟ることができたのは、ひとえに持ち前の観察眼ゆえだった。別に「天性の才能」なんかじゃない。お母さんの愛が欠けていること、それを確かめるために得た力だ。使ったところでなんら嬉しくもない。


 当然、彼女に対する思いを明かしたことはなかった。周囲に言えばたちまち私の立場が危うくなるだろう。ましてや本人に言うのはバカな行為だ。気の強い同級生に告げ口されて、あっという間にゲームオーバーになる。

 気を取り直して、私はいつものように「薄暗い凡少女」を装いながら笑った。


「ううん、なんでもない。寂しいと言えば……ちょっとそうだけど」


 だがその寂しさは、彼女へ向けるような代物じゃない。


「ふうん。でも、いつでも連絡取れるもん。大丈夫だよ」


 その声色に湿度はない。単に声帯を震わせた、ただそれだけの言葉だったが、途端、彼女の表情に微かな光が差した。


「すずちゃん、高校はどこに行くんだっけ。鳴田高?」

「竜胆高、かな」

「あれ、そうなの。じゃあなっちゃんとか紗千子とか、離れ離れになっちゃうんだ」


 ありふれているはずの会話だった。彼女の顔面には一切の毒気もない。ただただ、春と冬の境目の温い空気が、穏やかに流れているだけだ。

 それでいて私は、静かに傷をつけられていた。


 県立鳴田高校。県内有数の進学校であり、全国上位の大学を目指す者が必ずと言っていいほど目指す場所である。

 私もここを第一志望校としていた。というのは、別にエリート街道を歩いてやろうだなんて大した思惑ではなく、単に、立ち寄った文化祭が最高に楽しかったからである。そんなバカらしい理由であっても、「第一志望に落ちた」という事実は私を落胆させた。

 結局、進学先は滑り止めの私立竜胆学院高等学校。お先真っ暗というほどの絶望は抱えずとも、現在の私の視界は少しグレーがかっていた。


 羊子はそんな私の憂鬱を突っついているのだ。装った表情に浮かんだわずかな悔しさや悲しさ、それらを覗き見に来るのだ。

 別の女子に同じセリフを言われても、私はほんのちょっぴり気まずくなるだけだったろう。でも、彼女だから。「羊子は絶対に私を傷つけようとする」という負の信頼があったから、私は傷ついてしまっていた。


 いつもなら鬱陶しいだけの苛立ちも、今日で終わりなのかと思うと、訳もなく寂しかった。

 私は気まぐれに対応の仕方を変えた。それとなしに会話を終わらせるのではなく、一発だけ、カウンターもどきをかましてみたくなったのだ。


「羊子ちゃんは?」

「……え?」

「羊子ちゃんは、どこの高校なの?」


 仮に「鳴田高」と言われても、他の有名高校の名が返って来ても、遠回しに「あなたと離れられてせいせいする」と言ってやろう。

 私はそんな卑しい気持ちのまま返答を待っていた。


「決まってないの」

「えっ」

「私、高校に行かないって決めてたから」


 そう話す彼女の表情は、見慣れたハリボテの笑顔だった。

 私は焦ってしまった。相手の地雷を踏んでしまったことはもちろん、羊子が私より上に立とうとする雰囲気を全く感じ取れなかったからだ。

 あぜんとする私を見ながら、彼女は話し続けた。


「お母さんが許してくれなかったの。お母さんの味方は私だけだから、私を手放したくなかったんだろうね」

「そっ、か」

「ふふっ」


 分からない。

 初めて、彼女のことを分からなかった。

 普段なら「この発言にはこういう意図があって、こういう風に私を貶めに来てるんだ」と考えることができた。でも、今目の前にいるのは自分の弱点をひけらかした彼女だ。母親にがんじがらめにされ、高校へ行かない現実を露わにした彼女だ。


「私、トイレへ行く用事はなかったの」

「……じゃあ、なんでここに来たの?」

「すずちゃんにお礼を言うためかな」

「お礼?」


 解かれていた警戒心を拾い集めて構える。私は彼女に対して何も貢献していない。むしろ一方的に本性を見出して、嫌っては、避け続けていたのに、なんでお礼を?


「すずちゃんだけが私に気づいてたの。でしょ? だから『ありがとう』って」

「気づく……って」

「本当はなっちゃんも、さっちゃんも、ゆいまるも、そしてすずちゃんのことだって、どうだっていいんだ。お母さんのこともね。私が今考えてること、すずちゃんは分かるよね?」


 じっと、彼女のまん丸い瞳を見つめる。その明るい茶色はのっぺりとしていながら、全ての光を反射したかのようにキラキラと輝いている。

 私の中には、一つだけ候補があった。それをぶつけてみることにした。大はずれで彼女の期待に応えられなくとも、大した問題はない。元々苦手な人種なんだから。


「……本当は、高校に行きたい」

「うん。やっぱり、分かってたね」


 正解だったらしい。

 私の中にはなぜか、安堵の息を吐く自分がいた。


「私、お母さんの顔色ばっかり見てきたから、色んな気持ちを分かっちゃうんだ。さっちゃんがゆうなちゃんのこと嫌いとか、はるかちゃんが隣のクラスのけんたくんと付き合ってることとか、るみちゃんがクラスのみんなを陰でバカにしてることとか」


 彼女も私と一緒だった。

 彼女が述べたことは全て、私もとっくに気づいていた。


「私、目も耳もふさぎたかったの。何にも気づかないで、自分の世界だけふわふわしてる、天然っ子になりたかった。誰かの気持ちに気づくのが怖かったんだよ」


 彼女の声色からは、次第に掴みどころのない柔らかさが除かれていった。桃色の殻が一枚一枚、空気に溶けて消えていく。


「すずちゃんも私と同じなんでしょ? お母さんの顔色ばっかり伺って、みんなの気持ちに気づいちゃう。でも、すずちゃんは目を逸らさなかった。私、羨ましかったの。だから、自分勝手に気持ちを晴らそうとして、何回も何回も、気持ちをつつきに行っちゃったの。すずちゃん、本当にごめんね」


 彼女はそう言うと少し俯いて、窓の外を眺めた。

 風が吹いているようだ。柔らかな温風に乗せられて、花びらたちは校庭の砂の上を無邪気に走っている。

 その様子を見ているうちに、私の中の嫌悪感は溶けていった。なんで羊子を嫌いになったんだろう。そう思ううちに、一つの言葉が脳裏に浮かんだ。


 同族嫌悪。


 気づけば、私の口からは自然と言葉が漏れ出ていた。


「私だって……羊子ちゃんが羨ましかった」

「ふふっ、そうなの?」

「私も苦しかったの。何も見ていたくなかったのに、全部目に入っちゃって、みんなのことなんて何でもいいのに、考えさせられちゃって……ほっといてって思ってたの」


 自分でも知らなかった本音が口をつく。色んなもやもやが晴れていくようで、寂しいような、怖いような、ほっとしたような、数多の気持ちが大きな鍋でぐるぐるとかき混ぜられたかのように混乱していた。


「お母さんだって、なんでもいい、なんでもよくないけれど、なんでもいいの。本当は卒業式にだって来て欲しくて、寂しいのに。でも、いないんだからなんだっていいの」


 話すたびに目の前がぼやけていく。目の下があったかい、そう認識した瞬間、私は泣いていることに気づいた。

 羊子は私の方へ歩み寄ると、そっと手を差し出した。細くて白い、それでいてつやのある、きれいな手だった。私はそれをひしと握って、涙をごまかすように、窓の外の桜へ目を向けた。


 私も羊子みたいに生きたかった。

 羊子は私みたいに生きたかった。


 沈黙が流れる。私たちは、行き場のない切なさを追いやるように手を繋いでいた。

 廊下の静けさが心地よかった。喧騒が遠くで小さく響いていて、私たちを煩わす何もかもがここにはなかった。風に吹かれて右往左往する、可憐な桜の花びら。それだけが、今の視界の全てだった。


 そのうち、友達の一人がトイレに来た。私たちは「そろそろ入場の時間だよ」という言葉に現実へと引き戻される。

 友人はこの二人が揃っていることに少し驚いているようだった。私は腫れかけた目元を隠すように、ちょっとだけ俯いて、騒がしい教室へと向かった。羊子の表情は伺えなかった。けれど、握り続けられた手の感触が、確かに彼女の温かさを伝え続けていた。




 ***




 卒業後、彼女と再会したのは二十歳の同窓会にて。どうやらあの後家を出て、高校へ通い、奨学金を得て、自分だけの力で大学まで通っているらしい。

 授業にバイトに大変だよ、と彼女は笑っていた。お母さんがどうなったのかは分からない。ただその顔には、満ち足りたものがあった。

 もちろん、彼女はふわふわし続けていた。私が今でも色んな問題をじっと見つめざるを得ないように、彼女の桃色の殻も健在だった。

 私は少し背の伸びた彼女の姿を目にすると、そっと手を差し出した。


「ふふっ、すずちゃんは変わってないなぁ。もう泣いてない? 大丈夫?」

「もうっ、久しぶりに会ったからってつつかないでよ。私はもう、大丈夫だから」


 彼女のあの頃のままの手が、私の手にそっと触れた。

 その強さと温かさで、全て大丈夫なんだと思えた。

 違う生き方をした私が、強く生きている。そう思うだけで、私は嬉しくて、嬉しくて仕方なかった。

 私らしく生きていこう。そうすれば、彼女も嬉しく思ってくれるはずだ。あの繊細な天使のような、はにかんだ笑顔を浮かべて。

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