制服と賢者の試練
「本当に……大丈夫なのかな」
私は心配そうにエリュを見上げた。
銀髪が夜風に揺れ、月明かりを反射してきらりと光る。
本人は真剣そのものの顔で、私が改良したワイシャツの袖をいじっている。
《賢者ローブのまま外に出るのは無理だし……》
私は昨夜のことを思い出す。
「これ、着て」
私は衣装ケースから取り出したシャツとズボンを差し出した。
「これは……?」
不思議そうに布を撫でるエリュ。
「男装コスの時に作ったシャツとズボン。ちょっと派手だったから、改良してシンプルにしたの」
「君が……これを縫ったのか」
エリュは真剣な顔で縫い目を撫でる。
「……布にまで君の気配が宿っているようだ」
「だから変なこと言わないで!」
私は顔が熱くなるのをごまかすように糸を片付けた。
自動ドアが軽い音を立てて開くと、冷たい空気が頬を撫でた。
いつものコンビニの光景にホッとしたが、隣のエリュは妙に緊張した面持ちで店内を見回している。
「陽葵ちゃん、今日はありがとうねー」
レジ奥から店長が手を振った。
「いえ、こちらこそ……」
私はペコリと頭を下げる。
「人手が足りなくてさ。とりあえず、履歴書は後ででいいから」
「は、はい!?」
思わず声が裏返る。
《え、そんなゆるゆる採用でいいの!?
いや、助かるけど……現代社会どうなってるの!?》
エリュは背筋を伸ばし、落ち着いた声で言った。
「月野エリュと申します。な、何卒よろしくお願いいたします」
背筋の伸び具合とか、声の響き方とか、妙に貴族的。
店長が目を瞬かせた。
「おお〜ずいぶん礼儀正しいね」
そしてすぐに笑顔で頷いた。
《だ、だめだ……!異世界賢者ってバレないかヒヤヒヤする……!!》
私は心の中で絶叫する。
「これ、エリュくんの分の制服ね」
店長がビニール袋を差し出す。
「……これを着るのか」
エリュは神妙な顔で袋を受け取った。
「更衣室あっちだから、着替えてきてね」
「……承知した」
エリュは軽く一礼して奥へと消えていった。
数分後。
「……どうだろう」
バックヤードに戻ってきたエリュは、MINI☆SUNのポロシャツとエプロン姿になっていた。
黒いパンツにシンプルな制服なのに、やたらスタイルの良さが際立って見える。
「うわ……」
思わず声が漏れた。
普通の制服なのに、何でこうなるの。
まるで異世界の王子様が庶民バイトに降臨したみたいじゃん……!
「陽葵?」
エリュが怪訝そうに首を傾ける。
「な、何でもない!さ、さあ仕事仕事!」
私は慌ててバックヤードを後にした
「じゃあまずは商品棚の補充から教えるね」
店長がペットボトルの段ボールを指さす。
「分かりました」
エリュは低く頷き、段ボールを抱え上げた。
「おにぎりは“手前から順に並べる”って覚えてね」
「ふむ……陰陽の理に従い、縦と横の流れを整えるのだな」
「……いや、陰陽関係ないから!」
私は即座にツッコむ。
「じゃ、そろそろレジも触ってみようか」
店長が優しく微笑む。
「はい……」
私は冷や汗をかきながら、エリュをレジの前に立たせる。
ピッ、ピッ、と軽快な音が鳴るたび、エリュの肩がピクリと震えた。
「……この魔道具は、触れるだけで物体を認識するのか」
レジのスキャナーにバーコードをかざしながら、真剣な顔で呟く。
「いや、魔道具じゃなくて文明の利器!!」
私は小声で必死にツッコむ。
「袋はご利用ですか?」
店長の代わりにお客さんへ問うエリュの声が、微妙に震えている。
「……袋とは、この薄い半透明の――」
エリュがビニール袋をまじまじと観察し始めた。
「そう! それ!だから変な間しないで!渡して!」
「すみません、唐揚げ棒ひとつ」
次のお客が言うと、エリュはレジ横のフライヤーに視線を向けた。
「この香り……まるで油の霊気が層を作り――」
「詩的にならなくていいから!トング使って取って!!」
私は小声で必死にフォロー。
《ほんっとに……この人、文明社会に馴染むのいつになるの……!?》
なんとかレジでの初接客を終え、ほっと息をついたその時。
「おっ、陽葵ちゃんじゃん」
店内に響く軽やかな声。
「……えっ」
私は振り返る。
「こんばんは〜」
そこに立っていたのは、美大の先輩・真島さんだった。
「先輩!? こんな時間に……」
思わず声が裏返る。
「ちょっと夜食買いにね。……バイト、頑張ってるな」
先輩がにこっと笑って、私の頭を軽くポンと叩く。
エリュの金色の瞳が、スッと真島先輩に向く。
微かに、冷たい光が宿った。
「……彼は、君の何だ?」
「えっ」
私は一瞬言葉に詰まる。
「大学の先輩で……すごくいい人で……」
「ふむ」
エリュは短く頷く。
その声は穏やかだったけど、何かが少し違った。
「この人、新人くん?」
真島先輩がエリュを見て声をかける。
「は……はい」
私は慌てて答える。
「そうです、月野エリュと申します」
エリュが深々と頭を下げた。
「すごい丁寧だね。頑張って」
先輩はエリュに微笑み、手を軽く振って去っていった。
《何この空気……!?
エリュ、なんか妙に無言だし……》
真島先輩が店を出たあと、エリュはしばし無言でレジカウンターを拭いていた。
「……」
「えっと、エリュ?」
「なんだ」
「さっきから……なんか無口じゃない?」
私は恐る恐る問いかけた。
「そうか?」
エリュは淡々と返す。
けれど、その声の奥には、微かにざらついた音が混じっていた。
金色の瞳がわずかに伏せられる。
それは、いつも異世界賢者としての威厳を纏う彼らしくなく、どこか……不安げにも見えた。
《何だろう、この空気》
私は息を呑む。
ただのバイトの先輩に、エリュがこんな顔を見せるなんて。
「……すみません、エリュくん。こっちの補充、頼んでいいかな?」
店長の声に、エリュがハッと顔を上げる。
「はい」
短く答えて段ボールを持ち上げる横顔は、もういつもの静かな賢者に戻っていた。
だけど私は、さっき見たほんの一瞬の揺らぎが頭から離れなかった。
《なんか……この人、普通に見えて全然普通じゃない》
《異世界から来た賢者だし、当然なんだけど》
でも。
頑張って現代社会に馴染もうとしてる姿は、なんだか目が離せない。
私は無意識に、彼の背中をじっと見つめていた。
そして胸の奥に、じんわりと温かいものが広がる。
「さあ、私も頑張らなきゃ」
小さく呟いて、私はおにぎりの補充に向かった。
こうして、六畳一間で封印を縫い付けた異世界賢者の
現代社会バイト生活が、静かに幕を開けた。