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見知らぬ賢者と六畳間

締切まで、あと三日。

 追い詰められているのは分かっている。分かっているのに、私は針箱を抱えてアパートを飛び出していた。


 「……はあ」

 吐く息が白い。まだ春の始めだというのに、夜風はひどく冷たい。

 体の奥にまで刺さるようなこの冷たさが、ぐらぐらした思考をやっと落ち着かせてくれる気がした。


 何してるんだろ、私。

 もう夜中なのに、近所のコンビニで布用のチャコペンを買った帰り、ついフラフラと足が空き地に向かっていた。

 「少し歩けば気分が変わるかも」なんて軽い気持ちで、いつものポーチごと針箱も持ち出してきたけれど――結局何も解決していない。


 空き地の一角に腰を下ろす。

 アスファルトが冷たく、ズボン越しにじわりと冷気が伝わった。

 ここは街灯の死角になっていて、代わりに夜空が異様なほど明るい。


 見上げると、月が丸く、重たげに輝いている。

 まるでこっちを見下ろしているみたいだ。

 ――なんで、こんな月なんだろう。

 私の思考はまた、コスプレ衣装の針目に、ズレたステッチに、そして生活費のことに絡め取られていく。


 《ダメだ、考えるのやめよう》

 そう思った矢先だった


 ヒュウゥ――


 風を裂く音がした。

 鳥じゃない。流れ星でもない。


 月のすぐ下を、銀色の何かが横切った。


「……え?」


 視界の端で、何かが落ちるのが見えた。

 それは地面に激突する直前、月光に照らされて――人間の形をしていた。


 気づけば、私は駆け出していた。

 ドサリ、と何かが転がる音。

 息を切らしながら駆け寄ると、そこに銀髪の青年が倒れていた。


 制服のような服は破れ、肩口から血が滲んでいる。

 その傷から、銀色の光が滲み出ていた。


「うそ……」


 死んでる?

 いや、微かに胸が上下してる。


「……た、す……け……」


 息も絶え絶えに、唇が動いた。

 そして次の瞬間――


 パチッ、パチッ――


 周囲の街灯が一つ、また一つと消えた。

 青年の体から、銀色の光があふれ、空気がざらつく。

 このままだと、何かが――破裂しそうな、そんな不穏さ。


「止めなきゃ……!」


 私はポーチを開き、端切れの布を取り出す。

 裂けた服の上から当て布をして、両手でぎゅっと押さえ込む。


「お願い……止まって……!」


 しかし、滲み出る血の勢いは弱まらない。

 光が、裂けた服の隙間からもれるようにあふれている。


 《だめだ……布で押さえてるだけじゃ間に合わない!》


 パニックで息が上がる。

 でも、このままじゃ目の前の人は死ぬ――それだけは分かった。


「服の裂け目を……縫い縮めれば、圧迫できるかも」


 そう呟いた自分に驚く。

 針先が皮膚に触れないよう、服の破れた端同士を慎重に引き寄せる。


「……炙らなきゃ……!」

 ポーチの奥からライターを取り出し、火をつける。

 オレンジの炎が夜風に揺らいだ。

 針を数秒間炎にかざし、金属が鈍く赤くなる。


《これで……これで大丈夫。傷には刺さない、服だけ……》

 私は震える指先で針に糸を通し、深呼吸した。

 裂けた服の端同士を慎重に引き寄せると、ライターで炙った針を服の裂け目に通す。


「ごめん……ごめんね。でも、これしか思いつかない……」


 縫い進めるたび、布が引き締まり、当て布が強く傷口を押さえ込む。

 息を詰めて針を進めるたび、金属が月光を鈍く反射した。


 その瞬間。


 カッ、と銀光が脈打った。


 青年の体から溢れていた光が、一気に収束する。

 街灯が順に灯り直し、夜の空気が静まり返った。


《……え?》

 私は手の中の針を見つめる。

 応急処置のはずが、何か別のことが起きた――そんな感覚が背筋を這った。


 裂け目から滲み出していた銀色の光は、最後の針目を縫い終えた瞬間に吸い込まれるように消えた。

 街灯が順に灯り直し、夜の空気が静まり返る。


 私の胸がドクン、ドクンと激しく鳴る。


《とりあえず……血は止まった。けど……》


 震える指でスマホを掴む。

 警察?いや、まずは救急車……。


「119……」

 震える声でダイヤルを押そうとした、その時――


「……呼ぶな……」


 かすれた声が、夜気を震わせる。

 びくりと肩が跳ねた。


 金色の瞳が、うっすらと開かれていた。

 まるで月光を閉じ込めたような、淡い光が私を射抜く。


「え……?」

 思わず声が漏れる。


「……太陽の……器……」


 その言葉とともに、スマホの画面がチカチカと明滅した。

 圏外――文字が表示される。


《何これ……! 電波、消えた?》


 青年は微かに唇を動かした。


「君が……針の、一刺しで……」

 途切れがちな声で、かすかな笑みを浮かべると、そのまま瞼が閉じた。


「ちょっと、待って……!」


 でも青年は動かない。

 金色の光もすっと消え、体は力なく地面に沈み込む。


《……どうするの、私。

救急車も呼べないのに、放っておけるわけないじゃん……》


 ポーチの針箱を握りしめ、私は震える息を吐いた。

 とにかく、この人をこのままここに放っておくわけにはいかない。


「……連れて帰るしかないか」


 覚悟を決め、私は青年の体を抱き起こした。


 アパートの階段を上がるたび、心臓がドクドクとうるさく鳴った。

 背中に背負った体温が、重たいはずなのにどこか頼りない。


《なんでこんなことになってるの、私……!》


 さっき空き地で見た銀色の光景が、まだ脳裏にこびりついている。

 服を縫っただけで、あんな風に光が消えて、街灯が復活して――。

 そして、弱々しい声で囁かれたあの言葉。


「……太陽の、器……」


 意味なんて、分からない。

 分からないけど、このまま放っておけるはずがなかった。


「……よいしょ」


 息を切らしながら、どうにか六畳一間の部屋に辿り着いた。

 狭いワンルームの真ん中に、銀髪の青年を横たえる。

 机の上に散らばる裁縫道具と布地が、今はやけに場違いに見えた。


 私は膝をつき、青年の顔を覗き込む。

 長い睫毛が微かに震えている。まだ意識はないようだ。


《救急車……呼べなかったんだよね、結局》


 スマホはあの時からずっと圏外のままだ。

 電波が戻るのを待つ間に何かあったらと思うと、心臓が冷たい手で握られるようだ。


「……服、着替えさせた方がいいのかな」


 破れた制服は血に染まって重たくなっている。

 傷口からの出血は応急処置で止まったみたいだけど、このままじゃ体が冷えてしまうかもしれない。


 私は小さく息を吐き、タンスから古いTシャツとスウェットを引っ張り出した。


「男の人にこんなことするなんて、初めてだけど……仕方ないよね」


 顔が熱くなるのを感じながら、慎重に作業を進める。

 幸い、青年の体は驚くほど軽かった。


《……何者なんだろう、この人》


 月明かりの差し込む窓際で、彼の銀髪がふわりと揺れた。

 まるで本当に月光が宿っているみたいに、淡く光って見える。


「太陽の器……」


 彼が最後に言った言葉を、私はそっと呟いてみた。

 意味は分からない。でも、不思議と胸の奥に小さな火が灯ったような気がした。


 その時だった。


「……ぅ……」


 小さな声が聞こえた。


 はっとして顔を上げると、青年の睫毛がかすかに震えていた。


「目、覚める……?」


私は息を呑んだ。

 青年の睫毛がかすかに揺れ、金色の瞳がゆっくりと開かれる。


 その瞳は、夜空に浮かぶ月を思わせる光を宿していて、思わず息を呑んだ。


「……ここは……」


 掠れた声が、部屋の空気を震わせる。

 私は慌てて立ち上がり、彼の視界に入る位置に回り込んだ。


「あ、あの! 目、覚めたんですね! 大丈夫ですか!?」


 声が上ずる。

 青年は私を見つめ、薄く眉を寄せた。


「……ここは……地上か」


「え……?」

 何それ。地上?


 彼は視線をさ迷わせると、ゆっくりと吐息を漏らした。


「……まだ揺れているな。門が……」


《門? 何のこと……?》


 私は一歩後ずさり、スマホを掴んだ。

 救急車。

 でも、画面はまだ圏外のまま。


《うそ……さっきは銀光のせいかと思ったけど、まだ繋がらないの?》


「……あの、大丈夫ですか? どこの国の人ですか? もしかして、怪我の具合が――」


 私の質問は途中で途切れた。


 青年がゆっくりと手を伸ばし、私の手首をそっと掴んだのだ。


「……助けてくれたのだな」


 金色の瞳が、まっすぐに私を射抜く。

 その瞳に宿る光が、どこかこの世界のものとは思えなかった。


「余の……命も、星紋も……」

 掠れた声で、彼は続けた。


「君が、針の一刺しで……繋ぎ止めてくれた」


「……針の、一刺し?」


 思わず声が漏れる。

 私は服の裂け目を縫っただけのはず。

 だけど――彼の言葉は、それだけじゃ済まない何かを含んでいるように聞こえた。


 青年は微かに笑みを浮かべ、視線を落とした。


「この名を伝えるべきだな……」

「え?」


「エリュ・サージュ・リュヌ。

 ルナリス王国、月読院の“月の賢者”……それが、余の真名だ」


「……は?」

 私の口から、間抜けな声が漏れる。


「ルナ……何王国? 月読院? え、なにそれ、厨二病ですか?」


 気づけば口が勝手に動いていた。

 こんな状況でツッコミとか入れてる場合じゃないのに。 でも、エリュと名乗った青年は微動だにしない。

 ただ静かに、金色の瞳でこちらを見つめ返してくる。

 恥ずかしくなるくらい真剣な眼差しだ。


《……いや、待て水原陽葵》


 私は胸の奥で何かがざわつくのを感じた。


《もしこれが厨二病だったら、クオリティ高すぎないか?

・空から落下して服血まみれ

・縫ったら謎の光が収束

・そしてこの「余は月の賢者」とかいう完璧な自己紹介……》


《普通の厨二病なら、どっかで恥ずかしくなって顔赤くするでしょ!?

こいつ、一切動揺してないんだけど……》


《え、ちょっと待って。

この人――もしかして本物の異世界人…!?》


 背筋がゾワリと冷える。


「……いやいやいやいや」

 思わず声に出す。

「そんなわけない。私、ちょっと寝不足でおかしくなってるだけ」


私は慌ててスマホを掴んだ。

 救急車を呼んで現実に戻ろうとする。

 でも、画面には圏外の二文字。


《ほら……これだよ。この現象、絶対おかしい》


「……あの、頭は打ってないですか? どこの国から来たんですか?」

 質問を畳みかける。

 現実的な答えを求めて。


「……異国ではない」

 エリュは静かに首を振った。

「君の世界は……地球、だったか。

 余が墜ちたのは、この世界だったのだな」


《うそ……。この人、本当に――》


 思考がぐるぐる回る。

 まるで、好きなファンタジー小説の主人公になったみたいだ。


《……ありえない、はずなのに》

 胸の奥がひんやりと冷えた。

 さっきまで「厨二病か!?」ってツッコミしていたのに、もうそんな余裕はなかった。


《だって、もし仮にこの人が異世界人だったら……私、何を拾っちゃったの!?》


「……え、えっと」

 私は震える声で問いかける。


「その……ルナリス? ってどんな国なんですか?」


 エリュはゆっくりと目を閉じた。

 まるで遠い記憶を辿るように、静かな声で語り始める。


「ルナリス王国は――

 月面に築かれた魔法文明の中心地だ」


「……月面!?」


「そうだ。余は“月読院”という学舎で、長らく魔法と天文を研究していた。

 だが……満月の門が暴走し、余はこの世界へ墜ちてしまった」


《満月の門…月面国家…魔法文明……

 やばい、厨二病設定としても完成度高すぎる……》


《いや待て、冷静になれ陽葵。

もしこの人が本当に異世界人だったら……

私が今やってるの、完全に“異世界賢者の介抱”じゃん!?》


《でも、もし違ったら?

ただの厨二病こじらせたイケメンを、私が部屋に連れ帰っただけのヤバい女ってことになるんだけど!?》


 胸がドクドクとうるさく鳴った。


「……あの」

 私は意を決して口を開いた。


「念のため聞きますけど、あなたの話って現実ですか?

 それとも……物語のキャラ設定とかですか?」


 エリュは一瞬、きょとんとした表情を浮かべ、すぐに穏やかに微笑んだ。


「物語……か。

 ならば、余は君の世界にとって“異物”なのだろうな」


《……え。何その返し。やばい、ちょっとカッコいい》


 私は慌てて首を振る。


《違う違う、惚れてる場合じゃない!》


 その時、エリュの腹部から微かに銀色の光が漏れた。

 慌てて覗き込むと、応急処置で縫った布の縫い目が、うっすらと月光を帯びていた。


「――っ!」


「……まだ門の残滓が残っているのか」

 エリュは薄く目を細めた。


《なにそれ……服の裂け目を縫っただけなのに……》

 胸の奥がひんやりと冷える。

 でも、同時に不思議な感覚が湧き上がってきた。

 まるで、私の針仕事が、この人の命を繋ぎ止めているみたいな――。


「……ねえ」

 私はゆっくりと問いかけた。


「私、どうすればいいんですか?

 あなたの傷、これで本当に大丈夫なの?」


 エリュは微かに笑みを浮かべ、金色の瞳で私を見つめた。


「君の縫い目がある限り……余は、まだこちらに留まれる」


《……この人、本当に異世界人なのかもしれない》

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