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あの映画の日から休日が明けても、藤沢さんは学校に来なかった。
僕は心配になってメッセージを送ってみたけど、既読は付くけど返事は返ってこない。
そんな日々が金曜日まで続いた。
「秀一、僕は何か間違えたのかな?」
金曜日の帰り道、秀一に僕は弱々しい声で聞いていた。
「さあね、でも俺が思うに藤沢さんは気にしなくてもいいことで悩みそうなタイプかもな」
秀一と歩いているのはあの時の川沿いの道だ。時間帯も夕方で水面を照り付ける夕陽を見ていると、スケッチブックを取り出した時のふっとした笑みがどこか切なげだったことを思い出して胸が締め付けられ、同時に鈍く痛む。
「秀一、どうしてそう思うんだ?」
僕が聞くと、秀一は呆れ気味に額をかく。
「明がそうだからだよ、心の準備をさせてほしいって言われて、そんなに時間も経たないうちに、自分の言動やら行動やらを振り返って悩みだす」
僕はただ頷いて続きを促す。
「藤沢さんも詳しくは知らないけど、葛藤してるんだろうな。もちろん俺と明、藤沢さんと京香みたいな例外はあっても、人は性格が似てれば自然と仲を深めていける」
僕は改めて秀一の時々出てくる洞察の鋭さに驚いた。
秀一は茜色の空を見上げてさらに続ける。
「二人共、自分や他者に繊細なんだよ。でもだからこそこの程度じゃ終わらないくらい相性が良い。心配すんな」
そう言って秀一はニッと笑う。
「なんか、秀一らしいようでらしくない雰囲気だね」
「アホか、演出ってもんが分かってないな明は。あと、女子が悩んでる時に下手にメッセージを送る癖は治せよな。相手が京香だったらブロックもんだぞ」
最後のは演出なしの本気のトーンだった。
「うん、それは気を付けるよ・・・・」
僕は踏切を渡り切ったところで秀一と別れて家に向かう。足取りは幾分か軽くなった気がする。
家に帰り自室のベッドの上のスマホに手を伸ばす。通知が来ていた。
メッセージアプリを開く、藤沢さんからだった。
『時間かかってしまってごめんなさい。今日の夜七時に駅前のコンビニで待っています。返信不要』
秀一の言った通り関係はもうしばらく続きそうだった。
──夜の駅前は帰宅する学生やサラリーマンが行き交っている。
今回は三十分も早くに着いてしまい僕はコンビニの前で頻繁に腕時計を見て待っている。
そわそわするのを堪えて、僕は目の前の景色をぼんやりと眺める。
空には星がところどころに散らばっていて、暗くて控えめな夜空に街の明かりや無数の車やバスのヘッドライトや正面のビジネスホテルの照明は主張が強く目に飛び込んでくる。
普通ならなんてことない光の強さが今は微妙に神経を尖らせる。
「明くん、今回はいつも以上に早いね」
声のする方を見ると映画の日と同じ服装をした藤沢さんが立っていた。
一つ違うとすればスケッチブックを持っていること。
「そんなに遠くないからついてきて」
僕が何か言う前に藤沢さんがそう言って歩き出す。僕は黙って従うことにする。
着いたのは、落ち着いた雰囲気のスイーツ店だった。藤沢さんと僕は暖色の光が漏れる店内に入る。
スイーツ店と聞くとお洒落で落ち着かないイメージがあったけど、この店はそれらとは違う雰囲気の店内だった。アンティークな机や椅子が置かれていて、雑誌や漫画の棚などもある。
カウンターにはガラス張りのケースがあり、抹茶のモンブランをはじめとした和風のお菓子が並べられている。
奥の厨房から三十歳くらいのおおらかな雰囲気の女性が現れて、藤沢さんに微笑んだ。
「あの、七時半に予約した藤沢です」
「ええ、いらっしゃいませ、個室とケーキの用意は済んでいますよ」
藤沢さんはこちらを向いて「行こう」と表情を柔らかくしながら言った。
案内された個室は二人用の広さの畳部屋だった。
中央に漆塗りの机と座布団があり、卓上には抹茶のショコラケーキと煎茶が置かれている。
僕と藤沢さんが机を挟んで向かい合う形で座布団に腰を下ろすのを見届けると店員の女性は軽く頭を下げてふすまを閉めた。
しばらくの静寂。僕と藤沢さんはお茶を飲み、湯呑を置く音が時計もない二人だけの和室にはよく響く。
「藤沢さん」
僕は彼女の名前を呼ぶ。そこから先が中々切り出せなかった。
僕の声が残響として響いているような感覚。
藤沢さんは僕の言葉を待っているのか何も言わずにこちらを見つめている。
「──答え見せてくれる・・・・?」
かろうじて短く用件を言うことが出来た。心の準備うんぬんは言わなかった。
ここに呼んでスケッチブックを持ってきたということはそういうこと。
藤沢さんはこくりと頷いてスケッチブックの一番最初のページを開き、机の中央に広げる。
率直に最初のページの絵はお世辞にも上手いとはいえない絵だった。
書き込みは多いが、なにかに急かされて描かれているような雑さがある。
「下手でしょ、記憶が薄れ始めた頃の最初のスケッチ」
書かれている日付からして、数年前のものだと分かる。
「これあの時の流星群の景色だよね?」
藤沢さんは目を大きく開いて驚く。きっと当てられるとは思っていなかったのかもしれない。
「明くんには伝わっちゃうんだね」
確かに僕じゃなかったら分からない。藤沢さんの絵は全体は雑だけど、僕の瞳に描かれた星空だけピンポイントによく描けていた。
「まあ、当事者だしね」
他にも一ページづつ絵を見ていく、一ページ一絵というわけでもなく同じページに数点描いてあったりもした。執拗に描き続けていたのが伝わってくる。
どの絵にも共通してあの流星群の時の景色とそれを見る僕という構図が一貫して描かれている。
「どうして、あの瞬間の構図で統一されているんだろう?」
藤沢さんは目を軽く閉じて語り始める。
「私にはあの瞬間が全てだったから、印象に残ってるとかそういうのじゃない。私は明くんに会うまでずっとあの瞬間の中を生きてた。消えないように夢から覚めないようにずっと、あの瞬間だけに絞って描き続けたの」
どうしてそこまで、とは踏み込めなかった。
それに、現実世界に生きる僕とあの夢の世界にある意味では生き続けた藤沢さん。この明確な違いが答えなんだ。
僕はなんて言えばいいのか分からなかった。すると藤沢さんは新しいページを静かにめくった。
「そうあの時、大事なものが増えると良いねって言ってくれるまでは、京香ちゃんや秀一くんと出会うまでは──同じ絵を描いてた」
そのページには磨き上げられた画力で描かれた現実世界の思い出たち。
藤沢さんは続ける。
「この一週間考えて描いた絵、夢の中の少女としてでも、夢に縋りつく私でもない自分になって明くんに見せたかった。時間かかってごめんね・・・・心配かけちゃって」
藤沢さんはうつむいて僕の言葉を待っていた。
きっと、夢に縋りつくのには相当な背景があるんだと思う。その重さを今の僕が全て理解するのは難しいし、背景を聞き出そうとは思わなかった。
「藤沢さん」
僕はうつむく藤沢さんの名前を呼ぶ。彼女はゆっくりと顔を上げて揺らいだ瞳をこちらに向ける。
「おはよう、やっぱり会えて良かった。覚えててもらえて良かった」
僕はストレート過ぎるかなと心配になりながらそう言った。
藤沢さんはあの校門の前の時のようにただ微笑んで短く返す。
「おはよう、明くん」