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12.目覚め

僕は、美雪の母と別れた後に本人に会って帰ろうと病室までの院内の廊下を歩いていた。

 時刻は午後三時、廊下を斜めに照らす夕陽の光を見ているとなぜだか胸が締め付けられる。この夕陽の柔らかな差し込みと照らされた廊下は美雪がいない恋しさを一層強く感じさせる。

 開いた窓から入ってくるカラスの鳴き声を聞くと不安な気持ちにもなる。

 ──会いたい。どうしようもなく。

 そんな思いに急かされるように僕は病室へと向かった。

「美雪、たった一日、声を聞けないだけで恋しいよ」

 昨日と同じベッドの横にある丸椅子に腰を下ろして、意識の戻らない美雪に語りかけていた。そっと白く細い手に触れて美雪の体温を感じる。

 ──あったかい。とても。

 美雪の体温は僕の不安や恐怖を溶かすようにじんわりと染み込む。

「空気入れ替えようか」

 返事なんて返ってこないのに僕は語りかけている。

 丸椅子から立ち上がり、病室の窓を開ける。

 包み込むような光と共に風に乗って新鮮な空気が入り込み、カーテンがゆらゆらと波打つように揺れる。僕は美雪の顔に視線を落とす。

 夕陽に照らされた彼女を見ているとなくしてはいけない宝物のような愛おしさが込み上げてくる。

 静かだ──と思った。窓の縁に小鳥が一羽止まってささやきを残して飛び去る。

「また来るね美雪」

 そう言い残して僕は病室を後にした。

 残り半分の夏休みを僕は美雪と病室で過ごすことに時間を使った。課題をこなしつつ、外に出るのが億劫になるような土砂降りの雨の日も、身体中の水分が流れ落ちるような炎天下の日でも関係なく毎日、見舞いに行っては眠った顔を見て不安と寂しさに駆られ、触れた温もりで少し安心する。

 そんなもしかして──という期待や不安と今日も生きていてくれたという安堵を繰り返した。

 それでも夏休みの終盤になっても、美雪は嘘みたいに綺麗な寝顔のまま眠りから覚めない。

 美雪の母は予想以上の眠りの長さにそろそろ念のため覚悟して欲しいと告げた後に好きなだけ病室に居ていいと言ってくれた。

 それから寝るのも一緒、僕は一人で美雪に語りかけて毎晩椅子に座ったまま寝た。

 ──お昼を食べていつも通り丸椅子を美雪のベッドに近づけ、ぼんやりと手の温もりを丁寧に感じた。

 もう、目なんか覚まさなくていい、と。僕は強く思い始めていた。

 その綺麗な寝顔のままでも良いからこの温もりだけは奪わないでくれ、と。

 疲れていたんだと思う。喪失する覚悟が揺らいでしまうほど、泣かない決意が揺らいでしまうほどに。

 泣くくらいならいっそ、僕も眠ってしまえばいい。すぐに瞼を閉じて──意識もなにもかも手放した。

「こんにちは、迷い人さん」

 懐かしい、久しぶりに聞く声──思わず聞き入ってしまうような、鼓膜に染み渡るような声だ。

「君は──誰」

 目の前には赤色のコスモスと新緑の草が地平線の彼方まで広がっていて、澄み切った青空の下にぽつんと風車が建ち、春のように暖かい風が草花を揺らし風車の羽根を回す。

 夢みたいだとも死後の世界のようだとも思った。

「私? んー分からない。でも君自身も分からないよね? もう二人共迷い人でいいんじゃないかな」

 声は聞こえるのに姿が見えない。それは僕自身もだと視線を落として気づく、実体がない。

「ねえ、赤いコスモスの花言葉って知ってる?」

「さあ、僕はそういうの疎いんだ。君の方が詳しそうだね」

 ふふっと笑って彼女は花言葉を言った。

「うん、花言葉は愛情だよここのコスモスは君が咲かせた花なんだ」

 愛情、か。確かにある意味そう言えるのかもしれないな。

「悲しい顔しないで、もうすぐ一番の花が咲くんだから・・・・いやもう咲いてるのかも」

 なんでもいい、この陽気はとても気持ちよく寝れそうだ。

「──よく頑張ったね明くん」

 再び意識を手放す直前、僕の耳にはそう聞こえた。

 僕は今、夢の中にいるのか、現実世界で目が覚めたのかはっきりとしていなかった。

 ただ頭を撫でる優しい手つきと子守唄のようなものが、まるで『もういいんだよ』と全身を抱きしめられているかのようだった。

「ただいま明くん」

 子守唄が止み美雪の声が聞こえる、頭を撫でる手がいつも一人で握ってた時より暖かくて、美雪の声は僕が一人で語りかけていた口調に似ていて──。

「ねえ、美雪」

「なに、明くん」

 返事が返ってくる。現実感がない意識がふわふわとして焦点が定まらない。

「顔、見ていい?」

「うん、見てほしい」

 僕はゆっくりとうつ伏せの上半身を起こす。ぼやけた顔の輪郭が背景が徐々にはっきりとしていく──顔全体が柔らかな夕陽に照らされ、目を細めて薄い唇に笑みを浮かべ、風で揺れる髪をそっと抑えている。それは夢でも幻でもない美雪だった。

「良かった──本当に」

 一気に胸の奥から堪えきれないものが込み上げてくる──でも。

「美雪、おかしいな・・・・涙出てこないや」

 美雪はふっと僕の頬に触れる。指先についていたのは透明な雫だった。

「ううん、明くん凄く泣いてる」

 一つ二つ意志とは関係なくぽろぽろと涙が零れ落ちる。

「そっか、僕は泣いているんだ・・・・ちゃんと果たせたんだ」

 そう思った瞬間込み上げて来るものは嗚咽に変わり、僕は自覚的に泣いた。

 美雪はただ僕の下がった頭を優しく撫でた。

  

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