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京香と秀一には美雪が倒れたことをメッセージで伝えた。二人共メッセージを返してきているけど、僕は見ないで布団に入った。今日一日で多くのことが起こってあまりちゃんとした返信が出来そうにないからだ。
その日の夜はベッドに入っても中々寝付けなかった。疲れているのに目を閉じていても部屋の時計の秒針の音が聞こえていて意識がはっきりとしている。
仕方ない少し夜の空気を吸ってこよう。そう思ってベッドから起き上がって部屋のベランダに出る。
夏でも深夜帯になってくるとそこそこ涼しく、二階のベランダから見える街には明かりが点々とついていて、虫の鳴き声が程よく僕の耳に入り、夜空から降り注ぐ月明かりが優しく僕を照らす。
「君も寂しいのかな」
僕は夜空を見上げて独り言を呟く。考えないようにしようとしても考えてしまう。
美雪はきっと暗い意識の底でひとりぼっちで戦っている。この寂しさはきっと美雪の方が感じているんだと思う。
一人で背負い込んで戦ってそれでもなお、報われない。
「あんまりじゃないか」
一人の繊細な女の子が背負い込むにはあまりに重い。僕は美雪に報われて欲しいと思った。この月明かりが彼女にも当たって一人の普通の女の子として優しく照らして欲しい。
そして出来る事ならその月の役目は僕が担いたい意識が戻った時、僕が彼女を優しく照らす月のような、穏やかな朝日のような存在になる。
明日はそのために一歩なんだ。
「僕にも背負わせて欲しい君の抱えている全てを」
深まった夜の空に呟いたその静かな願いと決意は確かに遥か遠くまでしっかりと響くような強さがあった。願わくば美雪にもそれが届くと良いなと思った──。
ようやく眠りついた僕は美雪の夢を見ていた。
寝る前なのか部屋を照らす照明は弱めで薄暗い。ベットにはクマやイルカのぬいぐるみが置かれていて本棚には参考書がずらりと並んでいる。なんだか、勤勉な美雪らしい本棚だと思った。
本棚の隣にある勉強机からカリカリと鉛筆を必死に走らせる音が聞こえてくる。
薄暗い部屋の中で勉強机のスタンド照明の明かりが際立っている。
近づきたいと思った、あんなにも必死に何を書いているのか僕は気になった。
「映画とても楽しかったな」
美雪は書きながら独り言を呟いている。映画、僕や京香と一緒に行った時のことか。
夢の中の視点が徐々に美雪の背中に近づいていく。
「桜を見上げる明くん少し惚れちゃった」
独り言がどんどん近くはっきりと聞こえてくる。この桜のことは少し気恥ずかしいなと思った。
「明くん──いつか君に受け入れてもらいたいな」
視点は美雪のすぐ近くまで接近し、机の上のものを少しづつ映し出す。
「君が良いんだ、私」
見えたのは、スケッチブックを見せてもらった時に描いてあった思い出の絵とその時は消えていた、美雪と僕が手を繋ぎ、肩を寄せあっている絵だった。
部屋の照明が消えるのと同時に視界が暗転した。
あの個室でスケッチブックを見せる前から美雪は僕に好意を抱いていたと昨夜の夢で知った。美雪自身が消しゴムでその絵だけを消したとすればあの時、思い出の絵だけしか見れなかったのも納得できる。
そうして夢を振り返って歩いている間に藤沢総合病院に入り口が見えてきた。
そこには白衣を着た美雪のお母さんが既に待っていて、僕を見つけると穏やかな笑みをこぼして言った。
「よく来たわね、それに良い顔をしているわ」
「良い顔・・・・ですか?」
「ええ、安心して娘について話せるとても良い顔、あの子が君を選んだ理由が分かる気がするわ、さあ病院の中庭にでも行って話しましょう」
中庭は小さな広場のような場所でベンチがいくつか置いてあり、中央には大きな木が立っていて、緑の葉からはお昼の日差しが木漏れ日のように広場の中央や近くのベンチに座る僕たちに降り注いでいる。
とても落ち着く場所だと思う。それがここを選んだ理由なのかもしれない。
「娘の病は原因不明なの、突発的に意識を失う発作を起こす病」
「原因不明ということは現時点で完治する見込みは・・・・」
彼女は首を横に振って言った。
「悔しいけれど、ないわ。そして完治とは真逆に進む可能性が高い」
そこで彼女は一度言葉を止めてこちらを真っすぐ見る。
「言ってください、そのために来たんです」
「そうね、発作が何度も繰り返されるとどうなるか、二つの事例が確認されているわ」
僕はただ黙って先を促す。
「一つは意識不明のまま亡くなってしまう事例、そしてもう一つも・・・・あなたにとっては辛い現実ね」
僕は、膝に置いた手をギュッと握る。
「意識を取り戻したと同時に記憶喪失が起きた事例、文字通り全てを忘れてしまうわけね」
救いのない話だと思った。それに二つ目はなんだか皮肉だ僕と美雪に起きていたズレが逆転するということなんだから。
「今回は大丈夫だと思うわ、でもこの先は分からない。どちらの事例が起きても君の人生から娘はいなくなる。たとえこの先どれだけ愛して、時間を共にしても、その時に残るのは喪失感だけ」
目の前の彼女は淡々と現実を正面から突きつけるように言った。
確かにそうだ。僕の中に最終的に強く残るのが喪失感なのは間違いない。
でも、僕は美雪の傍にいたいという言葉を曲げるつもりにはなれなかった。
「関係ないですよ、例え忘れられても、短い生涯だったとしても、美雪が普通の女の子として恋をして友達と遊んで生きてて良かったと思えるなら、僕の喪失感なんて代償は安いものです」
彼女の今までの真剣な顔が緩んで微笑みに変わった。
「とても愛されるようになったのね」
「娘はずっと一人だったわ、学校でも家でもそして病室でも、私たちも忙しくて娘が甘えられる人や場所は存在しなかった」
彼女と僕は目を細めて空を見上げる。青い空に雲がゆっくりと流れる。
「親としては失格ね、さっきはあえて突きつけるような言い方をしたけど、君になら娘を任せてもいいと思ったわ」
「上手くやれるかは自信ないですけど」
彼女は視線を僕に移すと「そうね」と言って一瞬考える素振りをする。
「上手くやる必要はないのよ、君が自然体で傍にいてあげるだけで充分だわ」
僕は最後にもう一つ聞きたいことがあった。出会いのきっかけの夢のこと、それを彼女に話すと「不思議ね」と呟いて続けた。
「でもその話は娘から聞いたことがあるわ、残念だけどその現象がなぜ起きたのかは私にも分からない」
そう言いながら彼女は立ち上がりこう言って締めくくった。
「案外、その夢の世界が君たちを最後的に繋ぎ止める鍵にはなりそうね」