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──僕が目覚めた場所は一切建物がない草原だった。
地平線の彼方まで空も地面も広がっていて、大きな群青色の空を見上げると向かい風が大きく髪を揺らす。
意識ははっきりとしていて風が吹く音や草が揺れる音、目の前に広がる景色、肌に触れる清々しい空気。
その全てが現実と遜色のないくらいはっきりと感じる。
でも、僕には分かる。これはきっと夢の中の世界だ。
「君は誰?」
透き通った声が背後から聞こえてきて、僕は振り返る。
こちらを真っ直ぐ見つめる女の子。白いワンピースを着ていて、ショートの黒髪は風に吹かれ微かに揺れ、細く小さな手を添えるようにして抑えている。大きな瞳に薄い唇、年は分からないけど、どこか大人びている。
「んー迷い人みたいな」
名前を名乗ろうとしたけど、夢の中だと上手く思い浮かべられなかった。
「それは私も同じかも」
彼女はそう言ってクスリと笑う。その時、僕は強烈な眠気に襲われる。
「今夜はお別れみたい。またね迷い人さん」
その声が遠くなっていき──夢の世界から覚めた。
自室のベッドから上半身を起こし、手のひらを見つめる。
それは、小学生だった頃に始まった明晰夢と不思議な少女との出会いだった。
──その夜以降、明晰夢を頻繁に見るようになり、その度に彼女も現れて夢が覚めるまで草原に腰を下ろして言葉を交わすということがほぼ日常になりつつあった。
ある程度、言葉を交わしていく中でどうやら彼女は夢の中だけの存在ではなく実在する人間であることが分かった。
「驚いた、現実では他人同士の僕らがなにかの理由で夢の中で繋がっているってことだよね」
彼女はこくこくと頷いて、大きく広がる空を見上げて言う。
「SFかファンタジーみたいだよね。お互い夢の中だと名前が分からなくなるっていうのも素敵だと思う」
「名前が分からないのが素敵?」
僕が聞くと彼女は「うんうん」と言って目を細める。どこか遠くを見るように。
「名前も現実の姿も分からない二人が夢の中で同じ景色を見て、言葉を交わしてる。奇跡みたいで素敵」
彼女は詠うようにそう言った。確かに名前も、彼女の現実での姿も分からない。
夢の中だけの姿で現実は違う容姿ということもあり得る。
七夕みたいだと思った。年に一度どころか一週間に三回以上は会っているけど。
現実世界でも着実に時間は過ぎていく、小学校を何事もなく卒業し中学生になると小学生の頃から一転して周囲と馴染めなくなった。
自分が思っている以上に環境の変化に対応する力が僕にはなかった。
夢の中で彼女にそれを話すと「そっか」と言って、
「私は小学生の頃から駄目だったなー。だから当然中学生になっても君と同じで馴染めてないよ」
「良かった、夢の中だけでも仲間が居て」
「うんうん、人間関係ってほんと難しいよね」
なにか思い出すようにそう言う彼女の顔は痛みを感じているかのような悲痛さが表れている気がした。
彼女と僕は最近出来るようになった夢のコントロールで群青色の空を満天の星空に変えて、流星群を作り出す。
青紫色の天の川に小さな宝石のように輝く星々が空全体のいたるところに散りばめられていて光の軌跡を描きながら流星が夜空の上を走る。
「初めて本格的にやってみたけど想像以上だね・・・・」
彼女は目の前の光景に息を呑んで言った。
「だね、現実のどこにもこれ以上の景色が見れるスポットがあるとは思えない」
僕らは夢が覚めるまでそれ以上言葉を交わすことはなかった。まるでその瞬間で時間が止まってしまったかのような錯覚を覚えた。
少し強く吹いた風が草を大きく揺らしてその音が僕らの沈黙を埋める。
隣に立つ彼女の横顔を見る。大きな瞳は星空を映して輝いている。
どこか寂しげな表情を見て、これが最後になるかもしれないと直感的に思った。
──結局、その直感通り明晰夢を見ることもなくなり、彼女との交流は途絶えることになった。
最初の数日は何がいけなかったんだろうと毎晩振り返り、もう一度見れないかとネット上の明晰夢を見る方法を試したりした。
そこから数週間後には現実世界で友人が一人出来るという変化が起きた。
「明晰夢ね、俺はあまり詳しくないけどさ、そういう出会いって深くて終わりは短いみたいなのが良いんじゃないか?」
お昼の時間、僕と新しく出来た友人の平岡秀一と机を向かい合わせて給食を食べていた。
「感動系のアニメ映画みたいな?」
秀一はうんうんと頷いて、思い出したように言う。
「そういう映画、今度やるんだ。丁度目を付けていた行くか?」
秀一は無類の映画好きだ。特に泣ける系のアニメ映画は軒並み見ているし、新作チェックにも余念がない。
「どうせ、この話を聞いた時から狙ってたんでしょ。今度の土曜日でも良ければ行くよ」
秀一は「流石、明はノリが良い」と嬉しそうに給食のおかずを口に運ぶ。
この時を境に僕の中で明晰夢もその少女の存在も多くの夢がそうであるように次第に忘れていった。
完全に意識から消えたのは高校受験を翌年に控えた中学二年の夏だった──。
僕は、友人の平岡秀一と高校受験の最中に塾で出来た友達の東雲京香と一緒に同じ志望校に向かって、毎日勉強を続けた。
その受験期間の中で僕ら三人はこれ以上ないくらいお互いを理解して良い関係を築けたと思う。
合格発表の日も駅で待ち合わせをして三人で行った。
冬の名残りがある朝の街中はそれなりに冷え込んでいて、寒さで震えて歩く。
この冬の名残りが一番大変な直前期を思い出させ、緊張感を高めていた。
「よし、二人共心の準備は出来たか?」
武蔵高校と書かれた校門の前で秀一が後ろの僕らに向かって問う。
「私と明は余裕よ、心の準備が必要なのは秀一あんたなんじゃないの」
「東雲、いつも言ってくれるけどな余裕こいてる奴ほど落ちるんだよ」
「四六時中、映画にかじりついてる秀一と一緒にしないで」
お互いを理解して良い関係築けた・・・・と思いたい。
「喧嘩してないで行こう。もうすぐ張り出されるよ」
二人はお互いにそっぽを向いて歩き出す。
面倒くさいところもあるけど、このいつものテンポに今は救われる。
結果は三人とも合格していた。武蔵高校はこの辺りでは上位の進学校なのでこれは快挙だった。
僕らはお互いにハイタッチする。さっきまで喧嘩していた二人も互いに「おめでとう」と言い合って微笑んでいる。なんだかんだこの二人の相性は抜群なんだと見ているこっちまで笑みがこぼれる。
「なんだよ、合格が嬉し過ぎて笑みが堪えきれないのか?」
秀一がこちらを向いて聞いてくる。
「まあ、そんなところ」
二人の様子に笑みがこぼれたとは言えない。誤魔化すように無難な返しをする。
「まあ、なんだかんだ明が一番頑張ってたもんね。私よりも断然」
僕らはお互いに改めて「おめでとう」と「よろしく」を言い合って学校を後にする。
校門を出る時、一瞬すれ違った女子生徒に既視感を覚えて振り返る。
どこかで会ったような、思い出せそうで思い出せない。
腰まで伸びた黒髪は昼の陽光を浴びて暖色が混じっている。色白の肌に細い手足は繊細さを感じさせる。彼女はそのまま髪をなびかせて、合格発表の掲示板の方に消えていった。
「どうした明、早く来ーい」
秀一が後ろから呼んでいる。僕は記憶の奥のタンスが開かないもどかしさを覚えながら二人の方へ駆け足で向かった。
合格後の長期休みのほとんどは大量に出された課題の処理に追われる毎日で過ぎていった。