狐雨
昔。
望まぬ婚姻を結ばれそうになったことがある。
「美しい娘だ」
豪族に目をつけられて両親は笑顔で言った。
「光栄なことです」
私は幼馴染の男と結ばれるつもりだった。
故に声をあげてそれを拒んだが、身分の低い娘の言葉などあっという間に掻き消された。
「全て捨てるつもりはあるか」
幼馴染の言葉に私は頷いた。
「ならば逃げよう」
その声と共に私と彼は夜に逃げると決めた。
着の身着のまま、雨の日の夜に。
二人で逃げたならばすぐに見つかる。
故、先に彼が。
次に私が。
一刻の間をおいてから村を出る。
しかし、私が居ないことはすぐに分かった。
褒美に目を眩ませた両親のせいだ。
怒声と足音、そして雨の音の中で私は泣きながら走る。
「待て! 止まれ!」
しかし、無情なほどに足音と声は段々と近づく。
挙句の果てに私は転び、足を捻った。
痛みで立ち上がることも出来ない。
「よくも逃げたな!」
幾人かの声が聞こえた。
振り返るのも怖くて俯いていると、背後の者達が息を飲む声が聞こえた。
「見送りご苦労」
声が聞こえた。
後ろからではなく、前からだ。
ふと、見上げるといつの間にやらそこには数え切れぬほどの人間が列を成して立っていた。
そして、その最前列にいる男が私の背後を見つめて言う。
「泥だらけではあるが花嫁は確かに受け取った。さぁ、もう帰れ」
その声には有無を言わさぬ響きがあったが、それでも追っ手の男達はすぐには退かない。
手ぶらで帰るわけにはいかぬのだから当然か。
すると列が割れて奥から周りの男に比べて、頭一つ分背の低い男が現れて言った。
「これで最後だ。この女は俺の嫁だ。さぁ、失せろ」
その言葉と共に行列の周りに青い炎がぽつぽつと浮かぶ。
雨で消えない不思議な炎。
それが段々とゆれ動き、追っ手の方へにじり寄る。
これには流石の追っ手達も悲鳴をあげて逃げ出した。
「滑稽なことだ」
背の低い男がからからと笑うと炎は一つ、また一つと消えていった。
「災難でしたね」
そう言うと同時に男の身体が段々と薄れ、やがては女性の姿となる。
呆然と女を見つめていると彼女はどこか恥ずかしそうに笑って言った。
「私もこれから嫁入りです」
「あなたも?」
「はい。あなたと同じで幼い頃からの付き合いでして」
差し出す手を掴んで立ち上がりながら私は列を見回す。
周りに立っていた者達の背後に温かな尻尾が生えていることに気づいたのは今更になってからだった。
「さぁ、参りましょう。あなたの旦那様があちらでお待ちです」
奇妙な列に私は取り込まれて、そのまま落ち合おうと決めていた場所で彼と無事合流した。
彼は流石に私の姿と周りの人々に呆気に取られていたが、それでもすぐに気を取り直して列の者達と花嫁に礼を言った。
すると、花嫁は微笑み、一礼をするとそのまま列と共に雨の中へ消えた。
後に残された私たちは顔を見合わせた後、そのまま雨の中を歩き出す。
少し肌寒かったが、不思議と心細さはない。
雨脚は段々と強まっていたが、その音が全て祝福の声にさえ聞こえた。
「寒いな」
「うん」
「だが、お前と一緒で嬉しい」
「うん」
雨の中で短い会話。
私と彼の存在を覆い隠すように降り続ける雨。
それが過去を捨てた私の持つ、最も古い思い出だった。