男は続くよどこまでも
社会人二年目の津川正樹は国立大学を卒業し、東京の企業に就職した。しかし、大学卒業とほぼ同時に彼女と別れて以来性交はおろか、キスすらもしていない有様だった。
明日から正月休みの正樹は仕事を終わらせ、連休のほとんどを実家で過ごすために最終便の飛行機で宮崎に向う。海外出張が多い正樹にとって、飛行機に乗るのは珍しいことではなかった。
地元宮崎に着くと両親が車で正樹を迎えに来ていた。母が先に「おかえり」と言うと、恥ずかしそうに「ただいま」と返した。東京で買った土産を渡し、後部座席に乗り込む。車が実家に向かうと車内は東京ではどうねとか、また新しいとこいっちょるとねとか、海外のお土産も欲しいとか、正樹の話で盛り上がっていた。
社会人一年目の時は仕事の関係上実家には帰っていなかったので、二年ぶりの実家である。二年も経つと新しいテレビや、新しいクッションなどは見受けられるものの雰囲気はまるで変っていない。
ソファーにもたれかかる。宮崎のテレビ局は三局しかなく、家で楽しめる娯楽が少ない。明日は同窓会があるので、早く寝ることにした。自分の部屋は高校時代から何も変わっていない。野球部の時に使っていた道具は机のすぐ隣に、赤本は机の上に置きっぱなし。アイドルのポスターは家を出るときに剥がしていたので、シール痕だけが残っていた。ベッドの布団から洗剤の香りがする。前日に洗濯していてくれたのだろう。自分の家の布団は何日洗濯していないのかゾッとしながら正樹は眠りについた。
同窓会は市内の居酒屋を貸し切って催すことになっていた。その居酒屋も同級生の家族が営んでおり、大学の時から同窓会となるといつもその場所で集まっていた。同窓会といっても、高校三年生の同じクラスだった友人から大体二十人弱の人たちのみ集まる会になっていた。季節の変わり目ごとにこの集まりは開催されるが、正樹は大学三年生以来の参加であった。
「とりあえずビールの人、ハイボールの人はこっちに書いとって」といつもクラスの中心にいた牧野がみんなに声をかける。飲み物が届くと、牧野が乾杯の挨拶をして同窓会が始まった。
同窓会では様々な話題が上がった。二組のマドンナ雪子ちゃんがセクシー女優になっていたとか、修一が二人目の子供ができたとか、先週のゴルフで雨が降ってきて風邪を引いたとか、貴美子ちゃんの弟が甲子園に行って三回戦まで行ってスカウトが来たとか、高校で終わった青春の一部がここではまだ生き続けていた。
「あ、安子ちゃん来た!」と牧野が口にする。黒木安子。正樹が高校一年生に告白され、そのまま高校三年生になるまで付き合ったが、高校三年生という最後の大会と勉強の多忙さで最後はあっけなく別れてしまった。正樹はこの女に青春を捧げていた。結局、夏の大会は予選一回戦負け、志望大学も東京の国立大学から地方の国立大学に落とした。そして、そのまま逃げるようにして宮崎から離れたのだった。また安子も東京の私立大学に合格し、安子もまた宮崎から離れていた。
牧野が悪ふざけで安子を正樹の隣に座らせた。少し無言の時間が経ったあと、安子から「久しぶり」と声をかけた。正樹は「うん」と一言だけ返し、ビールのおかわりを頼んだ。「正樹くんは今何してるの?」と聞かれて、
正樹は「東京で商社の仕事」と不愛想に答える。安子はすっかり東京の言葉に慣れており、宮崎弁のイントネーションも感じさせないくらいには東京に染まっていた。
「正樹くん変わったね。」と安子は言う。
「どこが?」と正樹は聞くと、
「髪型と東京の話し方になってる。」と安子は答えた。
正樹は「お前も十分に変わっちょる。東京の人になってしもたね。」と言い、話を切り上げるようにして右隣にいる斎藤と仕事の話を始めた。安子もそれに全く気にしない素振りをしながら、左隣にいるイケイケグループの話に参加していた。
同窓会も終わりに近づいてきている。呂律がまわってるいない人、吐きそうになっている人、それを介護している人など各々が自分の役割を徹底してい。店を出ると、タクシーで帰るグループ、徒歩で帰るグループで分かれた。正樹は徒歩のグループに属し、安子はタクシーに乗る。次の日、正樹のLINEには安子から「飲める?」とのメッセージが入っていた。
正樹と安子は斎藤のパーで待ち合わせをする。斎藤はバーテンダーをしており、正樹が地元に帰ると必ず寄っていた場所の一つだった。待ち合わせの時間から一時間半ほど早く行き、斎藤との会話を楽しもうとしている。斎藤は、野球部の同級生で高校を卒業したあと、ホテルのバーで働き、親がやっていたバーをこの年で引き継いでいた。
正樹がバーの扉を開けると「いらっしゃいませ」とコップを磨きながら斎藤は渋い声を出す。斎藤が正樹に気づくと、注文も聞かずにビールを出した。
「安子ちゃん来るんやろ、よう元カノと会えるわ」と斎藤は渋い声からあの頃の声色に戻る。
「俺から誘ったわけじゃねーし」と正樹も斎藤にあの頃と変わらないような会話をしている。
二人の会話は十五分ばかり続いていたが、二人の会話を遮るようにバーの扉が開く。正樹も斎藤も安子だと思い振り返るとそこには、五十代くらいのいかにも金持ちそうな男と、二十代後半くらいの美人が入ってきた。斎藤は声色を再び渋い声に戻し「いらっしゃいませ」と二人に言った。
しばらくすると男は携帯耳に当てながら金を置き、バーから立ち去った。残された女は青いカクテルをちびちび飲みながらこちらに首を傾ける。
「あなたも一人?」と女は正樹に話しかける。
「この後、友達が来ますけど、一時間くらいは一人です。」と正樹は答える。
女の名前は桜田静香。東京出身で顔は黒島結菜似で巨乳。五十代の男とはゴルフに来ており、桜田はそのゴルフについてきたということだった。
「私、浮気相手なんですよ、あの人の」と桜田は切り出す。正樹はその発言に動揺してしまい適当な返事しかできなかった。その反応を見て桜田はおしとやかに笑った。
「静香さんは素敵な人です。」と正樹は突拍子もないことを言った。この言葉に意味はなかったが、今はただこの女を振り向かせるのに精いっぱいだった。
「必死に東京の言葉使わなくていいのに。」とたぶらかされ、「友達じゃなくて、女の子でしょ、待ってるの。邪魔者はここで消えるわね。」といい、席を立つ。帰り際に、「連絡先でも!」と正樹は声をかけたが後姿のまま手を振り、バーを後にした。
「おい、一目惚れか?」と斎藤に声をかけられるまで正樹は閉まったドアの方から目を離せずにいた。斎藤は正樹をからかうように
「てげ可愛かったね、あん人」といい、二人の会話は再び高校時代に戻った。
桜田が店を出て十五分ほどしてから安子がバーにやってきた。
「先飲んじょったとね?」
「ちょっとね。」
「二人きりは恥ずかしかね、あ、斎藤君久しぶり。」
斎藤は軽い会釈をして、安子に甘そうなカクテル渡す。
「今日は正樹のおごりやけん、気にせんで飲んで良かよ」
安子は正樹に大学時代の話を聞き、正樹は安子の仕事の話を聞き、斎藤は二人の話をコップを拭いたりして聞いていた。この空間は高校時代そのものだった。
「正樹くんはなんで別れたか覚えてる?」
唐突に空間を大人に戻した質問をした。
「お前が振ったんやろ、よう覚えちょらんけど。」
「え、覚えとらんとね、正樹くんが俺は勉強して、野球してもう付き合ってられん、安子は俺と付き合ってて楽しくないやろって言っちょったやろ。悲しかったわぁ。」
正樹は自分で振ったことを覚えていなかった。覚えていたのは、別れたという事実とその後野球にも負け、勉強も負けたということだけだった。正樹の高校三年生は彼にとって、重くのしかかっていた。
「ちょっと酔っちゃったね、もう私帰るけん、二人で楽しんで。私南千住の方に住んじょるけん、暇なときまた声かけてくれたらうれしい。」
と言って、安子は店を出た。
「追いかけんでよかとか?」と斎藤がまたからかう。正樹は斎藤を軽くにらんで、また空気を高校時代に戻した。
正月休みも終わり、正樹はまた東京での日常生活が始まった。朝六時に起きて、八時に家を出て、満員電車に揺られる。会社ではエリートたちとの出世争いをして、また満員電車に揺られて家に帰る。この繰り返しの作業を一週間のうち五日も行う。入社が決まった時は大手企業ということあり喜んでいたが、いざ入ってみると一般のサラリーマンとなんら変わらない暮らしをしていた。海外出張が多く、キャリアも積めると周りの人間は言うが、キャリアを積んだところで使わなければ意味がない。経験値が上がっても、バトルがなければなんの意味もないうに、キャリアだけがどんどん積まれていった。
四月。正樹は帰りの電車で安子からのメッセージに気づいた。あの時と同じメッセージだった。
二人はアメ横の居酒屋で再会した。
「元気してた?」
「まぁ一応。」
二人が恋人の仲に戻るまで、そう時間を要さなかった。アメ横の再会で体を重ね、南千住に赴いたときに安子が愛の確認をした。
付き合って半年、季節が秋になった頃に二人は同棲を始めた。場所は王子。正樹の職場に電車で、一本で行けるというのが理由だった。二人は高校三年生の負の青春を取り返すために、大人になったのを見せつけるために、ただただ愛を確かめ合った。付き合って三年目、二人は結婚した。
正樹も気づけば三十代になっていた。子供もできて、役職にもついていた。家に帰れば小さい子供が「パパ帰ってきた!」と玄関まで走って迎えに来てくれる。そして、安子が飯を用意して待ってくれている。男として幸せがそこには詰まっていた。
「明日、飲み会になったから、夜飯いらんわ」
「あら、珍しかね、お得意先?」
「初めてのお客さん、てげだりぃ」
正樹が飲み会の席に着くと、どこかで見たことがある白髪交じりのイケメンが座っていた。名刺交換をすると、どうやら新たな取引先の社長だった。名前は川路聖。
「津川君か、よろしく」と川路が言った。頭を下げ、よろしくお願いいたしますと言い、飲み会が始まった。
二次会は銀座の高級クラブ。津川が「二人きりで飲みたい」と言って、正樹を連れ出した。
「あそこのママね、かわいいから」と川路は正樹の肩を組ながらタクシーに乗る。
扉を開けると、川路が電話を先にしていたのか誰も店にはおらず三人の空間を最高にするための演出がなされていた。
正樹は緊張しており、失礼のないように川路の顔から眼を離さずにお酒を飲み進める。川路はゴルフが趣味で、車は外車三台持ち、子供は二人とも東京大学に進学しているらしい。しかし、川路は嫌味がなく、いわゆるモテるおじさんなのだろう。
川路が「そろそろ帰るか」と正樹に言う。
「すいません、トイレに行ってもいいですか?」と川路に言うと、
「先に会計済ませとくから、出てるぞ」と言った。
正樹はトイレでそういえばママさんの顔見てないなということに気づく、あの川路さんがかわいいと言うのだろうからそうとうかわいいのだろう。
トイレから出て店を出ようとすると、
「東京の言葉上手くなったわね」とママさんから話しかけられる。
ママとはあの時の桜田だった。
「ありがとうございます。」と言って正樹は店を出た。
川路のタクシーを捕まえて、正樹は一人地下鉄に向かう。そして、斎藤にメッセージを送った。男の青春はそう簡単には終わらないらしい。