殺しの電話
男がいた。裕福そうな恰好をした男だ。
着込んだシャツや左腕に巻き着けた時計、明るい茶色の革靴など身に付けている全てが名だたるブランド物ばかり。アイロンがかけられているぴっしりしたスーツの黒が彼のネクタイの赤色と良く映える。
男がいるこの部屋は高層ビルの最上階。一面ガラス張りの窓からは人々が都会を行き交う景色が良く見える。
部屋の中心には上品な黒いソファとこれまた値が張りそうなガラス製のテーブル。
ガラステーブルを挟み込むようにして置かれたソファの横には湯気が香り立つコーヒーが置いてあった。
そんな部屋の中心を男はうろうろと歩き回っていた。時々腕時計で時間を確認しては、不安げに部屋のドアの方を見る。
時刻は丁度四時も回ったあたり。ガラス張りの窓の向こうには夜の黒と夕焼けの赤で二分された空、真っ赤な太陽に照らされて赤に染まるビルの林がそびえ立つ。
男は外の景色には目もくれず、ただただ不安げに部屋の中を往復する。うろうろ、うろうろ、うろうろと。
とそんな時、男の部屋の扉がノックされてこれまたスーツの女が入ってきた。女は男の姿を認めると、深くお辞儀をして言った。
「社長、お待ちしていたお客様がお見えになりました」
「本当か?!」
目に見えて安心したような顔をする男。すぐに女に『連れてこい』と言うと自身の服装をもう一度確認し始めた。
襟を正してネクタイを締め直す。
しばらくして、ノックの音。
今度は秘書の女はどこにもいない。男は慌ててドアに駆け寄って両手でドアを引いた。
両開きのドアを引くと、そこに立っていたのは--
「あぁようこそ!待っていたんです!来てくれて本当に良かった!」
大喜びの男に客人は不愛想な顔を向けた。
現れたのは、縁の大きい黒帽子を深く被った黒コートの男だ。地面に引きずるほど長い黒コートを脱ぐ素振りは無く、鋭い目で室内を見渡して言う。
「……ふん、そこそこ儲かっているようだな」
「えぇ、えぇおかげさまで!」
「それで、大企業の社長様が俺になんの用だ?」
「そ、それがですね、最近……その……いえ、ここで話すような内容でもないので少し中へ」
男の言葉にふん、と鼻を鳴らして見せると、客人は部屋の真ん中まで進んでいき手前のソファに腰かけた。
男は慌ててその後を追い、向かい合うようにして腰かける。
手元のコーヒーカップを取ると、黒コートの男の前まで押しやって男が言った。
「あー、こ、コーヒーでもどうです?」
「要らん。それで、要件は何だ?」
何もないなら帰るぞ、とでも言いたげな顔で睨みつけられたのに恐怖を隠せなかったのか、男は身震いをした。
「……いえ、その、ね。すこーしだけ、今私……命を、狙われてまして……」
不安げな男の言葉に黒コートが動揺する様子は無い。彼はあくまで淡々と、事実だけを確認するように問う。
「俺の職業が何なのか、お前は分かっているんだな?」
「ええ、はい。それはもちろん。『殺し屋』ですよね?」
「そうだ。俺を呼んだということは、殺しの依頼だということで良いんだろう?」
「……はい。奴は、私を脅すんです。期限までに金を用意できなければお前を殺してやる、だとかなんだとか言って。もうこれ以上私ではどうすることもできず……」
「だから殺すのか」
「え、えぇ。ただその、詳しい事情とかは込み入っておりましてお話しするのは少々……」
「動機に興味は無い。俺としては金さえ払ってくれればなんでも良いからな」
ぱっ、とうなだれていた姿勢から顔を起こし、男は笑顔を見せた。
黒コートの男は手元に置かれたコーヒーカップに指先ですら触れようとしていなかった。
「引き受けてくださる!本当ですか?!」
「あぁ。殺し屋一の腕前を誇るこの俺に殺せない相手は居ない。それでターゲットは?」
「えぇとですね……本名も何も分からないんですが、顔と連絡先だけは分かってまして……」
「……分かった。何とかしよう。そういう情報まで調べあげるのも依頼料に追加させてもらうぞ」
「はい、それでお願いします……」
男に渡されたコピー用紙の紙束を、黒コートの殺し屋はパラパラとめくっていく。
そこには確かに、ターゲットの顔写真、連絡先やらなにやらが乗っていた。住所や名前は載っていないのが残念ではあるが……
「--これならいけるな。分かった。任せておけ」
「はい、お願いします!で、それは良いんですが、その男曰く金を用意する期限が一カ月後までなので……」
「一カ月後までにどうにかすればいいんだな。まぁ一カ月もあれば十分だろう、ぬかりなくやるから任せておけ」
***
〈依頼は完了した〉
そんなメールが男の元に届いたのはそれから三週間ほど経った時の事だった。
男はメールを確認すると、嬉し気に頷いた。今までも疑ってはいなかったのだが、失敗した時のことを考えればやはり不安だったのだ。だが、これでもう脅されることも無い。口角が上がっていくのを自覚しつつも、男にはそれを止めることが出来なかった。
〈中々今回の相手は手ごわかった。まさか俺の仕掛けたGPSがターゲットに見つかるとは思わなかったぞ。相手はやはり裏社会の人間だったのだろうな〉
黒コートの男からのメールを読みながらも男はソファにもたれかかり、さらに笑みを浮かべる。
もうこれ以上金を催促されることは無いのだ。今までの悩みの種が無くなり、晴れやかな気分で心が満たされる。
男は今この瞬間だけは幸福そのものだった。
そう、直後に否が応でも目についた一文を読んでしまうまではだが。
〈――なお、依頼量は三億一千万だ。お前の企業なら出せる値段だろう。〉
「そ、そんな無茶な……!」
相手が居ないのに思わず悪態が口をつく。
法外な値段は見間違えではない。彼がメールを何度読み返しても法外な値段の請求が確たるものになるばかりだ。
男はいくつもの会社を運営する起業家だ。だが、当然ながら三億もの金を出すことは厳しい。
そんな支出をしてしまえばすぐに誰かにバレるに決まっている。もしそうなれば、社長の地位を失うだけでは済まないだろう。最悪の場合、人殺しに関わったことがバレて逮捕などということになりかねない。
〈もし払えなかった場合はそれ相応の目にはあってもらう。内臓を闇市場で小売されたくないのなら、代金を踏み倒すなんて愚かなことは考えないことだな。支払い期限は今から二カ月後だ。できるだけ早く口座に振り込めよ〉
脅迫とも取れるような文面が続く。当然男は焦り、PCの前に座り込んだ。
そうして前もって調べておいた電話番号に電話をかける。
電話はものの数秒で繋がり、堰を切ったように男がまくし立てる。
「も、もしもし、依頼をしたいのですが……はい、はい、そうです。はい、存じております。御社は業界一位の『殺し屋事務所』。売りは、依頼人と顔を合わせずとも依頼を遂行してくださる点……はい、はい、あ、ターゲットは……顔は知ってるんですけど名前が分からず……はい、はい、あ、そうですね、直ぐにFAXで送らせていただきます。いえ、期限は二カ月後まででお願いします。相手は裏社会の人間なので、相応に面倒だとは思うのですが……はい、はい、それじゃあ失礼します。お願いいたします」
そうして受話器を置いて、男はようやくため息をついて言うのだ。
「これでもう二カ月ぐらい、支払い期限を伸ばせるな。頼むから上手くやっておくれよ……」
空っぽになった向かいのソファを見つめて、男はコーヒーを片手にうっすらと不安げな微笑を浮かべた。
いかがだったでしょうか。
楽しんでいただけたようであれば幸いです。