5.悪魔の愛し子
エティアの住む田舎町から宿場を経由して数日が経つ。明日には王都へ到着すると聞いて、何日も馬車酔いに苦しんだエティアは安堵のため息をついた。
馬車の小窓にかけられたカーテンを開くと、日の光を受けてキラキラと眩しいほどに輝く水面が目に入った。真っ青な空との境界線は一本の線だけだ。見たこともない風景にエティアの胸が高鳴った。
停泊した大小の船を見て、あの船に乗ればあの大海原に旅立てるのかと思いを馳せて、自分の状況を思い出し苦笑いをする。
これが見たいがために王の妾となることを承諾した。元より断る余地はなかったが、自分で選択したのだと思い込みたかった。
海の余韻も覚めやらぬ中、馬車は王城へと突き進む。いくつもの門を越えてやっと馬車を降りることができたのは、最初の門を潜ってから随分と経った後だった。王城は見上げるほどに高く広大で、まるでひとつの町のようにいくつもの建物が見える。どれも贅を尽くした造りで、豪華だと思っていた田舎の教会堂などとは比べものにならなかった。
エティアは王城の従者や聖職者に迎え入れられ、到着後の早い段階で国王の謁見を受けた。初めて見る国王はいかにも好色そうな顔をした、五十に手が届かないくらいの太った男だった。
顔を上げる許可を得たエティアが国王を見ると、目を眇めた国王がごくりと息を飲んだ。
事前に評判を聞いていたとはいえ所詮は田舎娘、大したことはないだろうと踏んでいた。教会の女神像にも勝るとも劣らぬ想像を超えた容貌を、国王が卑猥な目つきでなめ回すように見ている。その視線を受けてエティアを絶望が襲った。
その時はすぐにやって来た。
国王に目通りが叶ったその夜に、王の渡りがあると告げられたのだ。本来であれば別の愛妾の元へ行く予定が、急遽変更されたのだという。
途端にエティアの周りが慌ただしくなり、何人ものメイドの手で体中を丁寧に磨かれた。体や髪の毛の一本にまで香油が塗り込まれ、ふわりとした柔らかい生地の寝衣を着せられた。その上にガウンを羽織り、エティアに与えられた部屋で国王がやって来るのを待つ。
祈るような気持ちで何度もバルコニーに通じる硝子戸を見ては、沈んだ顔をしてうなだれる。
やがて扉の外がざわつき国王の訪れを知る。びくりと肩を震わせて開かれた扉を見ると、昼間とは打って変わって軽装になった国王が立っていた。猥りがわしい顔をした国王が、舌なめずりしながら近づいて来た。
「これはこれは、天使の愛し子とは納得の美しさだ」
昼間の化粧を落とし素顔になったエティアは神々しいほどに清らかで、手垢の付いていない娘を蹂躙できることに欲情を催していた。
エティアにその手が触れようかとした時、バルコニーの大きな硝子戸が音を立てて開いた。
光で溢れる王宮のバルコニーに漆黒の影が舞い降りた。その見慣れた光景にエティアの目頭が熱くなる。部屋に足を踏み入れた男と、涙を流すエティアの視線が交差する。
「俺が欲しいと言えばお前は俺のものになるのか?」
「なります!」
国王の手を払ってエティアが窓に向かって走り出す。ひらひらとした寝衣が足に絡まって転びそうになりながら、男の胸に飛び込んだ。
男に直に触れるのはこれで二度目だ。一度目は絶望的な気持ちで男に別れを告げるために触れた。今はただ嬉しくて、離れたくなくて男の背中に必死に手を回す。男がエティアの膝に手を入れて抱え上げると、エティアは満面の笑みで男の首に手を回した。
「人の王。これは俺のものなので返してもらう」
「お前は悪魔か」
突然現れた人とはかけ離れた美貌の男を見て、国王が声を荒げた。いかにも無能そうに見えるのに、魔性のものを察知する能力はあったのかと男がのどを鳴らして笑う。
悪魔に妾となった娘を奪われた国王は、蒼白になって悪魔の目の前で呆然と立ち尽くす。国王が出した大声に部屋の外にいた騎士達が飛び込んで来るが、目の前の圧倒的な存在に怯んで動けない。しかし、すぐに責務を思い出し男に向けて腰に佩いていた剣を抜く。
男は騎士達に剣を向けられても気にした様子もなく、騎士ではなく国王に向けて言い放つ。
「これは人の身には過ぎる女だ。死にたくなければ素直に退け」
「陛下、私を自由にしてくれるのであれば、この悪魔を連れて参りましょう。二度とこの地に足を踏み入れないとお約束いたします」
「な、何を言っている!余を誰だと思っておるのだ!自由になどさせぬわ!」
蒼白だった顔を紅潮させて、唾を飛ばしながら国王がまくし立てているのを、冷めた視線でエティアが見ている。なんて話の通じない人だろうかと呆れてため息が出る。
「私はお願いをしているのではありません。この悪魔に頼めば今すぐにでも出て行くことができるのです。静かにここを去りましょうかと申し上げておりますのに、ご理解いただけなくて残念です」
丁寧に言っているようで随分と尊大な物言いに、気色ばんだ国王が自身を守る騎士から剣を取り上げる。
「お前は自分の立場がわかっていないな。俺が喚べばすぐにでも他の悪魔がやって来るぞ。この城どころか、王都を壊してやろうか?俺が寛大に構えている間に退いた方がいい。俺は気が長い方ではない」
もうよろしいのではとエティアが悪魔に告げると、途端に興味を失った男はエティアを抱えたままバルコニーから飛び降りた。
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「迎えに来るのが遅いのではありませんか?待ちくたびれましたわ」
「……来るとは限らないだろう」
王城から離れて人心地ついたところで、男に抱えられたエティアが口を尖らせて抗議する。それを聞いた男は歯切れの悪い物言いで言い返した。
「来るに決まっています。あなたは私が好きでしょう?」
エティアの視線に気づいた男が視線から逃れるように、エティアの首元に顔を寄せる。
高位の悪魔が人間の娘如きに魅了されたことに葛藤して、しばらく足が遠のいた。どうにか吹っ切れて娘の元を訪れてみれば、人の王の妾になるからと一方的に別れを告げられた。無様な姿をさらしたくはないのでそのまま見送ったが、数日間身を焦がす思いに苛まれて、結果どうでも良くなった。
「目を離して色々考えることに疲れた」
「最初から見栄など張らずに、好きだとおっしゃって下さったら良かったのです」
顔を隠す男の顔を両手で挟んで無理やり顔を上げさせると、気まずそうにする男と視線を合わせた。
「勝算はありましたのよ。だって人外を狂わす愛し子ですもの。悪魔であるあなたが惹かれないはずはありません」
「は?」
時には泣き落としを、ある時は花開くような微笑みで、またある時はか弱い振りをして庇護欲を刺激して、拙くも男を誑かし続けた。
恋をしたのは、男を愛しく思ったのも本当。その手法に愛し子であることを多分に利用しただけ。
「こちらも必死ですわ。どうにかして誑かして差し上げようと頑張りました」
王城で抱き上げた際、娘が小刻みに震えていたのを男は知っている。目の前で可愛らしく虚勢を張る娘を見て、思わず忍び笑いを洩らす。
「でも安心なさって。私が自ら誑し込んだのは、生涯であなたひとりです」
「それ以上しゃべるな」
男はいつになく饒舌なエティアの話を聞いていたが、苦虫を噛み潰したような顔をして言葉を遮った。
「どうして?」
「俺の不名誉だ」
自らを高位悪魔と平然と言ってのける男は、たかだか人間の娘にまんまと誑し込まれた。
「これからどうしたい?」
「もっと近くで海が見たいです。雪も見てみたいです。街にも行きたいです。私の知らないことを沢山知りたいです」
そう言うと、至近距離にある男の顔を心配そうに覗き込んだ。
「私が一緒にいるのは邪魔ですか?それならば私は捨て置いていただいても構いません」
「勘違いをするな。お前の魂から髪の一本まで、すべて俺のものだということを忘れるな」
それを聞いたエティアが頬を薔薇色に染めて破顔すると男の首にしがみつく。
「もちろんです。あなたには私の髪の毛一本まで所有する義務があるのです。どこにもやらないで下さい」
誑し込まれた悪魔は、熟れた果実のような娘の頬に唇を這わすと、そのまま唇に口づけた。
耳まで赤くなった悪魔の愛し子は、男の肩口に寄りかかる。
「私とても幸せです」