4.恋の終わり
それから数日と経たずに男はやって来た。
余計な手間をかけさせられたと、嫌気がさしていないかが気掛かりだったので、またの来訪に喜びがこみ上げる。死神から逃れてからすっかり体調は元に戻り、食事も普段通りの量を食べられるようになった。
「聞いて下さいます?今度は妖精に懐かれましたのよ。私を伴侶にしたいのだそうです」
「妖精が人の子を浚うのはよくある話だ」
妖精は時として人の子を浚うことがある。赤子を丸太や妖精の子と取り換えたり、花嫁として連れ去るものもいる。人を騙したりいたずらをしたり、害をなす妖精もおり、彼らには善悪がないため質が悪い。
出会った妖精のエティアを映す目は、硝子玉のように感情が一切感じられなかった。害意をもって近づいてくる悪魔や死神とは別の意味で背筋がぞっとした。
これ以上話の通じないものに付きまとわれるのはごめんだと、エティアは嘆息した。
「教会堂の中に入ってこないのは、司祭様の結界ですか?」
「あんな欲にまみれた司祭ごときにそんな力あるか。この建物の配置や装飾の形、天井のアーチ、全てが古からの聖なる律に則って造られている。人の手で作られた聖域だ」
「つまりは聖職者の力ではなく、先人の知恵のお陰なのですね」
「……妖精の花嫁になりたいのか?」
男の声がいつもより歯切れ悪く聞こえた。感情の読めない妖精の目のように、男の目からも何の感情も読みとることができなかった。
男の意図も判らぬまま、エティアは憤慨する。
「なりませんわよ。迷惑しておりますもの。でもいつか誰かの花嫁にはなりたかったですわね」
「まさかお前がそんな可愛らしいことを考えているとは思わなかった」
「あなたは私を誤解していらっしゃいます。可愛らしい夢を持つ年頃の娘なのですのよ」
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楽しい逢瀬はそれから数ヶ月続いたが、ある時を境にぴたりと男がやって来ることがなくなった。
何が原因なのか、気に触るようなことを言っただろうかと自問するが、最後に男がやって来た夜もいつも通りで特に変わった様子はなかった。
ずっと窓の外を見て、どこかに男の影がないかを探した。
食事だけが楽しみの生活の中で、余程のことがないと残したことのない食事を残すことが多くなった。体調が悪いのではない。喉を通らないのだ。
ただ無為に朽ちていくだけの人生に、降って湧いた男との出逢い。
ただ逢いたいと思った。
この気持ちを男には決して気づかれてはならないと自分に言い聞かせていた。男は気まぐれにエティアを面白がっているだけだ。興味がなくなれば男は姿を見せなくなるだろう。
教会は正式にエティアを引き渡すようにと領主と何度も交渉するが、領主は決して首を縦に振ることはなかった。そこで、国教である教会が天使の愛し子を取り込めば、王室への求心力が高まりますと宮廷へ泣きつくことにした。
しかしその訴えは裏目に出て、愛し子の存在に国王が興味を持ってしまった。すでに何人もの愛妾を侍らす好色な国王は、エティアの報告を聞いて愛でてみたいと言い出したのだった。
予想が外れた教会や父親である領主も驚いて、考え直してもらうように何度も請願したが、聞き入れられることはなかった。
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「やけに騒がしいな」
あんなに心待ちにしていた男の訪れを、こんなに絶望した気持ちで迎えることになるとは思っていなかった。
いつものように闇に紛れてやって来た男が、教会堂の慌ただしい様子に首を傾げる。男を見るエティアの様子もいつもと違うように見える。
しばらく見ない間にエティアの雰囲気がすっかり変わっていた。天使の容姿に陰りがあるわけではなく、美しさに艶が増し、憂いを含むようなった。
「私は国王陛下の妾になることになりました。無様な女に成り下がった私をあなたに見られたくないので、お会いするのは今夜が最後です」
王の妾になると決まってから、男が次にやって来た夜が別れの日だとエティアは決めていた。きちんと笑って別れを言おうと思っていたのに、思ったように笑えない。眉は下がるし、口元も上がらない。不格好な笑顔になっていると自分でも判った。
「なぜ断らない?」
「王の命は絶対です。断ることは死を意味します」
「そんなに命を惜しんでいるようには見えないが?」
男が最初にエティアを見つけた時、生きているのに死んでいるように見えた。死ねと言えばすぐにでも死んでしまいそうな娘だった。その娘が王命に諾々と頷いたことに違和感を覚える。
「……海が」
「海?」
「王都は海が近いのだそうです」
閉じこめられる場所が教会から王城に変わるだけで、何も変わらない。ならば海を見てみたいと思った。
エティアを失うことで領地は収入を得ることができなくなり、再び貧しい地となるだろう。教会は天使の愛し子を失い、一時的ではあるが献金も減るだろう。
自分の自由を奪い続けた彼らに、一矢報いることができただろうかと苦笑する。
「暇つぶしだとは言え、孤独な私の所に会いに来てくれて嬉しかった。あなたのお陰で私は孤独ではなくなりました。あなたが訪れてくれることで、できないと思っていたことが叶いました」
「友人が欲しいというものか」
「あなたは私にとって友人ではありませんでした。私はあなたが好きなのです」
友人はできなかったけれど、もうひとつの夢は叶った。家族からも愛されることのなかったエティアは誰かを一途に愛したかった。身を焦がすような恋はできたけれど、幕引きはあっという間だった。
そのまま歩を進めると、エティアは初めて男にそっと触れた。抵抗されないことを確認して、そのまま男の胸に顔を埋める。
「俺が悪魔だとわかっているのか?」
「私はあなたに会える夜をいつも心待ちにしていました。ずっと逢えなくて悲しかった」
男の背中に両手を回すと一度だけぎゅっと抱きしめて、すぐに男から離れた。
「あなたのことを考えると、とても幸せで切ない気持ちになりました。感情が動くことなどなかった私が、いつも不安定であなたの挙動のひとつひとつに心揺さぶられて。でも初めてそんな自分を好きになれました」
宝石のようなすみれ色の目からぽろぽろと流れる涙を美しいと男は思った。思わず手を伸ばしてエティアの両頬に手を触れる。思わぬ男の動作にエティアは目を見張るが、猫の子のようにその手にすり寄った。
「俺に何も望まないのか?」
男は悪魔だ。代償と引き換えにエティアと契約を結ぶことができる。しかし、エティアの望みは王の妾になりたくないわけでも、教会から逃げ出したいわけでもない。
「あなたに恋をした愚かな娘のことを忘れて下さい」