2.相会う
「ふふふっ」
「何がおかしい?」
エティアは笑っていた。教会に閉じ込められてから、声を出して笑ったのはいつ以来か。
生まれた時から天使の愛し子といわれ、天使以外の人外からも強く執着され続けたエティアを男は無価値だと言ったのだ。
「そうなのです。私に価値などないのです。人外が勝手に執着するだけ。容姿が美しいから人が惹かれるだけ。私自身には何の価値もありませんのよ」
貧しかったこの田舎町は、エティアのいる教会堂を訪れる信者から通行税を取ることで今や左団扇とのことだ。その恵まれた生活がエティアという犠牲の上に成り立っていることを知っている者がどれだけいることか。
「せっかくですので、お茶でもいかがですか?」
言いたいことを言ってすっきりしたエティアが、忘れていたとばかりに男に声をかける。
戸棚から出したカップにティーポットから琥珀色の液体を注ぐと、そのままカップを男の前に静かに差し出した。
「毒を盛っても悪魔は死なないぞ」
毒など入っていないとわかっていながら男が悪態をつくと、冷ややかな笑いを浮かべてエティアが首を振る。
「毒があったら、天使の目の前で私がすぐさま飲んで差し上げますのに」
「死にたいのか?」
「両親や教会、天使の思い通りになるのが嫌なのです」
男は注がれた紅茶を一気に飲み干すと、もう言うことはないとばかりに席を立った。慌てたエティアは腰を浮かし悪魔に一歩近づいた。間にテーブルを挟んだ決して触れ合うことのない距離。
「また来て下さいますか?」
「所詮は暇つぶしだ」
「天使への嫌がらせになりましてよ?」
「……気が向いたらな」
男はすぐに闇の中に溶けていった後を、エティアはずっと見つめていた。
自分の声をこんなに耳にしたのは初めてだった。ややもすれば数週間も声を出すことすらない日が続く。与えられた部屋の中で、誰にも会わずひとりだけで過ごす日常。
今夜は気落ちが高揚して眠れそうにない。どうにも落ち着かない気持ちのまま寝台へ移動して、上掛けをかぶって男との会話を思い出す。
天使への不満ばかりを言っていたような気がする。もっと気の利いた話ができたら良かったのにと思ったが、そもそも他者と何を話したらいいのかがわらない。
男は高位の悪魔なのだという。小娘ひとりなどすぐに捻り殺すこともできたのに、触れることさえしなかった。
ここへ来たのはただの暇つぶしなのだと言っていたが、暇ができれば来てくれるのだろうか。
また逢いたいと素直に思った。
◇
エティアは国の端に位置する、貧しい領主の長女として生まれた。
土地は痩せ、領民達もその日暮らしをするのが精一杯で、税収もままならない借金だらけの領主だった。
エティアは領主夫妻待望の初子ではあったが男子ではなかったので、生まれた瞬間に両親は深いため息をついた。大きなため息の中、 エティアが産声をあげると、どこからともなく天使達が現れ我先にと赤子に祝福を与え始めた。
驚いたのは両親である。領主の古びた屋敷に天使達が舞い降りて、娘を取り巻いているのだ。
恐れおののいた両親はすぐさま司祭を呼び、その状況を目の当たりにした教会は領主からエティアを引き取った。つまりは体のいい厄介払いで、両親は秘密裏に教会から多大な金銭を受け取っていたのだった。
愛し子として教会に閉じ込められたエティアは、修道女のように祈りと観想の生活を強いられることはなかった。エティアに無理を強いると、天使の不興を買うかもしれないと教会が警戒したからだ。
教会は天使の愛し子の希少価値を高めるため、人前に出すことを惜しんだ。エティアが私室から出ることを許されるのは、年に数回の特別な礼拝の時だけだった。
エティアの出席する礼拝では、往々にして天使が何らかの奇跡を起こした。
ある時はエティアの頭上に光が溢れ、後光がさしたその姿に信者達の心が奪われた。またある時は雪が降りるほどの寒い日であったのに、エティアの周りに花弁が舞い降りその神々しい姿に信者が涙した。ある時は天使が天啓じみた言葉を残し、教会すらも混乱に陥れた。
その話が噂を呼んで、更に天使の愛し子の名は各地に届く。
献金の多い者から特別な礼拝への出席が許されるため、奇跡の存在をひと目見るためには多額の献金を行う必要があった。そのため、裕福な貴族や豪商が金に糸目をつけず献金し続けた。
また、直接見ることはできずとも聖なるものにより接近しようと、教会堂へ参詣する信者の列が途絶えることはなかった。
今やエティアの両親である領主は、天使の愛し子の親として領民からの信頼と尊敬を受けている。農作物も育たない痩せた土地に住む、その日の食べるものにも困っていた領民達も、教会堂へ参詣する信者の落とす金で潤っていた。
十数年前はぼろぼろに朽ちかけていた教会堂は、貴族や豪商、巡礼者からの多大な献金で数年前に建て直された。建て直された教会堂は精緻な模様の彫り込まれた立柱が並び、見上げるほどの高い天井と複雑な形状のアーケード、大きな窓にはステンドグラスが施されていた。田舎町には不釣り合いな大規模で壮麗な建築物だった。
その教会堂に並び建つのは、鐘楼の設置された高い塔。エティアが教会から私室として与えられているのはその建物の最上階だ。
部屋の扉は鎖で頑丈に鍵をかけられ、人と交流ができないように隔離されている。
食事すら扉を挟んだ隣りの部屋にワゴンが運び込まれ、使用人が鳴らした呼び鈴の音を確認して受け取りに向かう。食事が終わった後も同じくワゴンを置いて呼び鈴を鳴らすと、しばらくして運び出す音が聞こえてくる。
誰と顔を合わせることない、孤独な日々が過ぎてゆく。
教会は何よりエティアが人との繋がりを持つことを恐れている。
幼い頃のエティアはどうにか教会から逃げだそうと、聖職者達の隙をついて何度も脱走を図った。
ある時、修道士の協力で逃げだそうとしたが、別の修道士の密告によって未遂に終わった。自分ではない者がエティアを信頼を得ることに嫉妬したのだという。
どちらも誓願を立ててからの長い信仰生活の中、禁欲を貫いてきた修道士であったが、エティアの魔性の美しさに囚われ身を滅ぼした。
◇
次に悪魔がエティアの元に顔を見せたのは、それからふた月後のことだった。物憂げな表情で空を見つめていたエティアは、窓の開く音に気づいてぱっと顔を上げた。
「来て下さったのですね!」
天使は悪魔が愛し子に接触することを嫌がるだろうと面白がって立ち寄ったのに、思いがけない歓迎に驚いたのは男の方である。どこに悪魔の訪れを歓迎する人間がいるというのだろうか。
呆れた顔をして、見上げてくる可憐な娘を見下ろす。
「今日はお菓子も用意していますのよ。実を言うとこのふた月、毎日用意しておりました。お陰で少し太ってしまいました」
夕食後のお茶の時間に菓子が欲しいと願ってから、甘い菓子が添えられるようになった。食べなければ減らされてしまうかもしれないとひとりで食べ続けた。
花が綻ぶように笑う娘に毒気を抜かれた男は、素直に勧められたソファに座ると出された菓子を口に入れた。
「俺が何者かわかっているのか?」
「悪魔でしょう?」
何を今更とエティアが怪訝な顔をした。その反応は間違っているだろうと男は困惑する。
「普通の人間は悪魔を忌避するものだろう?」
「私が普通だと思いまして?」
「……普通ではないな」
人外を魅了する天性の愛し子。決して普通といえるはずがない。
「あなたがいらっしゃってから、悪魔がこの部屋を覗き込んでいくことが増えました」
「低位の悪魔が、お前を俺に横取りされると思って焦ったんだろう」
「横取りしていただいても結構ですのよ」
「は?」
眉をひそめた男がエティアを見るが、何を考えているのか読み取りにくい顔をして笑っている。
高位の存在であるはずの男だったが、どうにも据わりの悪い心地がしていた。