真実と答え
「私がゆっきーを見つけられた理由、まだ話してなかったね」
茜先輩はいつも通りに碁石を持ちながら話し始めた。
「新入生の中に、とある女の子がいたんだよ。その子がなんて呼ばれていたか分かる?」
「いえ……」
いつも茜先輩は唐突な質問をしてくる。それが一体、私と何の関係があるのだろうか。
「『ゆぐっちー』って呼ばれていたんだよ。私がずっと探してたのは『湯口』という女の子だった」
「私にそんなあだ名はないですよ」
「分かってるよ。その子に話を聞いてみるとね、それがゆっきーの妹だった」
あなたの名字は湯口なのか、囲碁をしているか、そんな質問をしたらしい。美紀は今は名字が変わったこと、囲碁のことなら姉のことだろうと茜に話したようだ。湯口という名字から取られた「ゆぐっちー」というあだ名は、美紀の名字が田上になってもそのまま残ったようだ。そんな話を聞いて、呆気に取られるしかなかった。
「妹さんという存在がいなかったら私たちは出会えなかったね」
「そうですね」
世の中、何がどう回ってくるか分からない。妹にも感謝しなくてはいけないかもしれない。にこにこと笑っていた茜先輩がふと真剣な表情になり、私にさらに質問を投げかけてくる。
「ねえ、ゆっきー。私と本気で対局してくれてないよね?」
さっきまでの温かな気持ちから、急に冷たい手で心臓をつかまれたようだった。寒気がするような質問。まるで悪さをした子供がこれから叱られることが分かってしまったかのように、私は申し訳なさと罪悪感に押しつぶされそうになった。固く口を結んだままの私に、茜先輩は優しく諭すように話し始めた。
「あのキッズ囲碁大会での対局。私とゆっきーがどれくらいの差で勝敗がついたか忘れちゃった?」
子供の頃の私と茜先輩の対局結果。私が勝ったのは間違いない。どれくらいの差だっただろうか。考えても分からない。
「覚えてないです」
正直に答えるしかない。茜先輩は「やっぱり覚えてないんだ」と言いながら少し寂しそうな表情をする。それはまるで、私に覚えていてほしかったという物言いだった。
「……半目だよ」
たった半目。あと一目の差を詰められていれば、茜先輩の方が勝利していた。そこでようやく思い出した。あのキッズ囲碁大会で一番手応えのあった対局。後になって「あれが実質決勝戦のようなものだった」と誰かが言っていたこと。ほぼ互角と言ってもいい。運が悪ければ簡単にひっくり返されていただろう。
茜先輩はおもむろに部室にある戸棚を開け始めた。何を取り出したのかと思えば、学校新聞だった。
「きっとゆっきーは知らなかったんだね」
差し出された学校新聞の記事に目を通す。そこには「二年生の辻岡茜が囲碁で全国大会出場」という見出しが飛び込んできた。記事は去年のものだ。私は茜先輩が全国大会まで行くような実力を持っていることを知らなかった。
「全国大会、行ったんですか?」
「うん。さすがに全国は強い人ばかりで負けちゃったけどね」
茜先輩は苦笑いしていた。全国大会まで行くだけで十分すごいことだろうに、あまり嬉しそうではない。本当はもっと上に行きたかったのだろう。茜先輩はひどく負けず嫌いなはずである。たった半目の差で負けた私をずっと探し続けたように、まだ上に行くことを諦めていない。そんな様子だった。
「私たちの『半目の差』が、縮まらなかったと思ってる?」
私が今まで対局していた茜先輩は、時が止まったままだった小学生の私の実力に合わせた、手加減をしている茜先輩だった。碁石を持つ茜先輩が、今までの茜先輩とは思えないくらい高い壁に見える。
「本気でやるよ。ゆっきーも本気でやってよ」
結果は惨敗だった。こんなに大差で負けたのはおじいちゃんとの対局以来かもしれない。悔しい。負けるとこんなに悔しかっただろうか。最後に負けたのはいつだったか。おじいちゃんの顔が浮かぶ。優しくて、碁盤越しに向き合うと楽しそうだったおじいちゃん。「もっと強くなりたい。いつかおじいちゃんに勝ちたい」と言った時の、おじいちゃんの嬉しそうな顔。
「ゆっきーとの対局、ずっと違和感があったんだ。あの頃よりぬるい手が多くなった気がしてね。でもゆっきーは陣地の計算だって正確だった。何度か打ってみてようやく分かったよ。わざと少しだけ勝つように、全部手加減してるってことに」
茜先輩はこんな私を嫌いになったりしないだろうか。本当は大したことないのに、相手を下手に見て手加減をしてしまうような私を。茜先輩はそれでも嬉しそうに、まっすぐ私を見据えて言った。
「私はずっとあなたを超えることを目標にしてきた。また私を超えなよ。ゆっきーは私のライバルだよ。これからもずっと」
立ち止まっていた私を引っ張り上げるかのように、茜先輩は私を責めることなく優しく包み込んでくれる。
「茜先輩に勝ちたい。だから囲碁将棋部に入部します。先輩に追いつけるようになりたい」
「えっ、本当に?」
「ここで冗談は言わないですよ」
二人で顔を見合わせて笑う。「おじいちゃんに勝ちたい」という目標を失った今、私の新しい目標は茜先輩になった。
入部届を出してしばらくした頃。茜先輩が私に駆け寄って嬉しそうに言った。
「囲碁部の部員が二人になったから、顧問が新しい碁盤と碁石を買ってくれるって」
「でも、『囲碁に関する本が欲しい』って言ってませんでしたか?」
「ゆっきーと対局する方が勉強になるよ。今は本より新しい碁盤と碁石」
ようやくこのいびつな碁石と別れることができる。所々欠けた碁石は不格好で、一口だけ食べたクッキーの歯型のようだった。
「私はこの碁盤と碁石も好きだったけどな」
茜先輩は欠けた碁石を手に持ちながら笑顔で言う。この碁石のどこがいいのかと考えてみても、私にはちっとも分からない。
「どこがいいんですか?」
「ゆっきーは分かってないな。こういうのも味があっていいじゃん」
私にとってはただの欠けた碁石。茜先輩のその前向きさに、私はいつの間にか救われていたのかもしれない。
欠けた碁石たちは新しく生まれ変わる。