思い出
祖父の趣味が囲碁だった。幼い頃、祖父母の家によく遊びに行っていた。私は和室にあった碁盤に興味を持ったのだ。祖父にルールを教えてもらって、最初は石取りゲームや、初心者用の九路盤を買ってもらって遊んでいた。
私が強くなるにつれ、祖父は私にもっと強くなることを期待するようになった。キッズ囲碁大会で優勝した頃には、優しかった祖父は囲碁に対してとても厳しくなっていて、いつしか囲碁自体が苦痛になっていた。そして大好きだった祖父のことも苦手に感じるようになってしまい、避けるようになった。
両親が離婚したのを機に引っ越をしたのもあり、祖父母の家に行くことも減った。祖父が亡くなったと聞いたのは私が中学に入った頃。祖父がいなくなってしまった喪失感と同時に「もう囲碁をしなくていい」という解放感に包まれた。
「ゆっきーはあの頃と変わらない。あの強さのまま、時が止まってるみたい。囲碁、やめちゃってたんだね」
祖父のことを思い出して感傷的になっていた私に、茜先輩が語り掛けた。
「……はい。すみません」
「なんで謝るの?」
茜先輩は私に勝つためにずっと囲碁を続けていた。私はあの時から止まったままだ。茜先輩はそれを分かっていたのだ。茜先輩が私を囲碁に引き戻したのは私のためなのだろうか。それとも、単に対局相手が欲しかっただけだろうか。
「でも、茜先輩と囲碁をする時間は楽しくて好きです」
ようやく絞り出した言葉。苦痛に感じていた囲碁をする時間が、茜先輩だと楽しく感じられるようになっていた。囲碁は楽しいものだった。その純粋な気持ちを私はすっかり忘れてしまっていた。茜先輩は満面の笑みで答える。
「私も、ゆっきーと対局できて嬉しいよ」
「最近帰りが遅いけど、どうしたの?」
母が私に質問してきた。いつもは仕事をしている母より早く帰宅していた私が、二年生になってからは母より遅くなることが多かった。
「最近、囲碁部の先輩に付き合ってるんだよ。他に囲碁をする部員がいないから」
母は息をのみ、一呼吸置いてから話し始めた。
「囲碁……また始めたのね」
私が囲碁から離れても、母は私を見守ってくれていた。でも内心はもっと囲碁を続けてほしかったのではないだろうか。囲碁大会で優秀な成績を残していた私に、母も期待していたのかもしれない。
「お母さん。おばあちゃんって今もあの家に住んでる?」
「突然どうしたの? おじいさんが亡くなってからずっと会いに行きたがらなかったじゃない」
「うん、久しぶりに会いたくなって」
母はまだあの家に祖母が住んでいると教えてくれた。今度祖母の家に行くことを言うと、母は何かいいことを思いついたように話し始めた。
「あ、そうだ。美紀も一緒に行って来たら?」
「は? 行かないよ」
美紀は私の妹だ。今年から一年生になり同じ高校に通っている。最近は反抗期なのか母の言うことを素直に聞かないことも多い。
「でも、おばあさんから入学祝いも貰ったのよ。一度くらい挨拶に行ったら?」
「だから行かないって。お姉ちゃんだけ行けばいいじゃん」
母と妹が今にも口喧嘩に発展しそうなところで私が止めた。
「いいよお母さん。私だけで行ってくるから」
自室に戻り、クローゼットの奥にしまい込んでいた段ボールを取り出す。囲碁に関する本、賞状、そして碁盤と碁石。今日まで捨てられなかったのは、本当は未練があったからだった。心のどこかではまた囲碁をしたいと思いつつ、囲碁をすれば祖父の厳しい口調を思い出してしまう。それが嫌になって、囲碁に関するものをすべてを段ボールに入れた。思い出にもすべて蓋をして。