理由
あの対局の一度だけだと思っていた。でも次の日も、また次の日も、茜先輩は放課後に私の教室までやってきて、部室に行こうと誘うのだった。二年生の教室に三年生が顔を出せば自ずと目立つ。部活への誘いも最初は断ったのに、次の日にも懲りずに茜先輩はやって来る。一度断ってしまった申し訳なさから、その次は顔を出すようにする。気が付くと、茜先輩と部室で過ごすのが当たり前になっていた。
何度か対局して、そのどれも私が少しだけ勝つようにしていた。負けたくないというプライドと、それでも圧勝はしたくないという気持ちが入り混じっていた。茜先輩への遠慮も少しはあったのかもしれない。ずっと一人で囲碁をしていた茜先輩に大差で勝っては申し訳ないと思ったのかもしれない。茜先輩もせっかく私という対局相手が見つかっても、実力差がありすぎると楽しくないだろう。私が手加減をしていることは黙っていようと思った。
「茜先輩、どうしてキッズ囲碁大会のこと、知っていたんですか」
対局後に差し出されたクッキーを一枚食べ終わり、疑問だったことを茜先輩に聞いてみる。毎日自然に囲碁をするようになってしまい、ずっと聞きそびれてしまっていた。
「やっぱり覚えてないんだ」
茜先輩は少し寂しそうな、でもそれは当然といった物言いだった。その言い方をすれば誰でも予想がつくだろう。
「もしかしてあの大会で会いましたか?」
「そう、よく分かったね」
茜先輩は嬉しそうに目を細めた。茜先輩があの日のことを話し始める。
「あの頃は、同年代で自分が一番強いと思ってたんだ」
キッズ囲碁大会。地域の子供たちが年に一度腕試しができるイベント。普段大人たちに交じって囲碁をしていた私は「茜ちゃんはすごく強いね」「今度のキッズ囲碁大会で優勝しちゃうんじゃない?」と言われていて、すっかりそれを真に受けていた。実際それなりに大人を負かせてきた私には自信があった。同年代の子には絶対に負けないと思っていた。
そして参加した大会で、一回戦に当たった相手が湯口優希だった。相手は一歳下の子だったので、油断していたのかもしれない。単に実力の差だったのかもしれない。最後までどこでひっくり返せるか、最善の手を探し続けた。それでも負けてしまった。自信たっぷりに臨んだ大会に、たった一回戦で負けてしまったことが悔しくてたまらなかった。
「絶対にあの湯口って子に勝つ」
そう心に誓って次の年に参加した囲碁大会では、湯口優希はいなかった。近場での囲碁に関するイベントにも行ってみたけど、やはり湯口優希はいなかった。ずっと探してたんだ。私の闘争心に火をつけた相手を。
「私はずっとゆっきーのことを『湯口』という名字で認識してた。だから名簿を見ても分からなかったんだ」
ゆっきーが入学した時にすぐ気付くべきだった、と茜先輩は無邪気に笑う。
「私は茜先輩が追い求めるような人じゃないですよ」
少なくとも茜先輩から何年も追いかけられるような価値は私にはない。囲碁が強い人なんてどこにでもいる。小学生にしては強い方だったかもしれないが、今ではもう高校生だ。私くらいの実力の人は珍しくない。
「ゆっきーの強さは変わらない。今でもあの時のまま」
茜先輩が昔を懐かしむように言っている。茜先輩は昔と比べて、どれくらい強くなったのだろう。
普段は私たち以外に誰も来ない部室の扉が開いた。そろそろ定年を迎えるだろう年齢の国語の男性教師だ。彼はこの囲碁将棋部の顧問だった。先生はあまり部室に来ないのだという。
「辻岡さん、その子は入部希望?」
「まだ体験入部ってとこですかね。ね?」
茜先輩が私に同意を求めるように顔を向けた。
「私はそういうのじゃないんです。ただ先輩に誘われて少し相手をしていただけで」
「えー! ゆっきー入部しないの?」
茜先輩が激しいリアクションをして私は困ってしまう。先生はそんな様子を見ながら顎に指を添えて話し始めた
「今年、一年生が入部しなかったのですよ。三年生が引退すれば廃部の可能性もあるので新入部員は歓迎しますよ」
「だって私、二年生ですよ。今さら入部なんて」
高校に入学して、部活をする気は一切なかった。囲碁将棋部の存在は知っていた。でも私には関係ない。私はもう、囲碁はやめたのだ。
「無理強いはしないですけど、入部する気になったら入部届を出してくださいね」
先生は戸棚にあった「入部届」の紙を取り出し、私にそれを差し出した。ここで拒否をするのも違う気がして、結局受け取るしかなかった。
「それでは私はこれで失礼しますね」
顧問の先生が部室から出て行った。先生が出て行くのを見送ると、茜先輩が私に話し始めた。
「ゆっきーのことを話したら、一度は顔を出そうと思ったみたい。先生は囲碁も将棋もできないから」
「顧問として意味があるんですかね」
「大会の引率をしてくれるから意味はあるんだよ」
そういえば将棋部の方の男子は幽霊部員だが、大会だけに参加していると聞いた。高校生にも囲碁大会はあるのだということを改めて実感した。茜先輩は大会でどれくらいの成績を収めているのだろうか。
「ねえ、さっきのこと前向きに検討してみない?」
「さっきのこと?」
分かっていても聞き返さずにはいられなかった。茜先輩のあまりにも純粋な笑顔を見ると、できれば傷つけたくないと思ってしまう。
「もう部員みたいなものでしょ。入部届書いてよ」
「嫌です。入部はしません」
それでも、こればかりは譲れない。さっきまでニコニコ笑っていた茜先輩が、途端に真顔になる。そして少し寂しそうな表情に変わっていった。
「ゆっきーは囲碁、好きじゃないの?」
その質問にどきりとした。確かに子供の頃は囲碁が好きだった。強くなりたくて本を読んだり、棋譜を並べたりしてみたこともあった。茜先輩を突き放すことはしたくなかった。でも入部してしまえば、逃げ場がなくなってしまう。今までは部外者だったから、茜先輩との対局にも付き合うことができたのだ。
自分の中の感情をうまく言葉にできない。胸が苦しくなるようなこの気持ちは何だろう。その気持ちが分からないまま、私は茜先輩の質問に答えた。
「囲碁は、おじいちゃんが好きだったから」