部室へ
そこは学校敷地内のはずれにある部室棟。帰宅部である私は一度も踏み入れたことのない場所だ。校庭で部活をしている運動部の声が、遠くにわずかに聞こえる。部室棟の一番端にある囲碁将棋部の部室。茜先輩が「囲碁将棋部」というネームプレートが付いている鍵を差し込むと、がちゃりと音を立て、扉を開けた。
広いとは言えない部室の中には、折り畳み机とパイプ椅子がいくつか並べられている。本棚にはたくさん本が並んでいるが、将棋に関するものばかりだ。囲碁関係の本はどこにあるのかと見てみると、端の方にほんの少しだけ並んでいるだけだ。机の上に並んだ将棋盤の上にはうっすらと埃が積もっている。
茜先輩は囲碁将棋部について話してくれた。部員は七名で、そのうち六名が男子だと。在籍しているはずの六人の男子はどうしているかと言うと、ほとんど部活には顔を出さない。じゃあなぜ囲碁将棋部なんかに入っているのかと言うと答えは簡単。体育会系の運動部や、制作したものを発表しなければいけない美術部などと違って、囲碁将棋部は楽に幽霊部員になれるからだ。年に数回ある大会だけに出席して、それで部活をしていたということにすればいい。それが進学の時に「部活を頑張った高校生活」として虚偽の申告ができるというわけ。「囲碁将棋部」なんて名ばかりで、実質は将棋部におまけとして囲碁部が入っているようなものなのだという。
「この部の中で囲碁をしているのは私だけだよ。この碁盤と碁石もずいぶん古いでしょ」
茜先輩はたった一つだけある碁盤の前に座った。そこに向かい合うように私も座る。傷だらけの碁盤。碁石は所々割れていて、とても年季が入っているように見えた。
「対局をする相手がいないなら、普段はどうしていたんですか?」
「棋譜を並べたり、詰碁をしたりかな。あとは一人で交互に打つ」
「それ、楽しいの?」
先輩に対して思わずため口で話しかけてしまったことを後悔したものの、茜先輩は気にしていない様子だった。
「あまり楽しくはないね。だからこうやってゆっきーと対局できて嬉しいよ」
茜先輩が何を言い出したのかと思った。理解をするまでに数秒ほど時間がかかる。私のことを「ゆっきー」と呼ぶのだ。固まってしまった私に茜先輩が「どうしたの?」と呼びかける。
「私のことをそうやって呼ぶ人、今までいなかったので」
「いいでしょ、ゆっきー」
私のことをあだ名で呼んだ人は茜先輩が初めてだった。あだ名で呼び合うような友達は今までいなかった。名前をもじった呼び方は違和感があったが、同時に少し嬉しくもあった。
先輩は目の前の黒を持ち「握る?」と私に聞いてくる。黒番と白番を決めるかどうかの質問だ。
「いえ、白で良いですよ」
目の前にある白石を持つ。茜先輩が一手目を打つ。欠けていない碁石を選び私が二手目を打つ。久しぶりに碁石を持ったのが懐かしく、嬉しいような、苦しいような、複雑な気持ちになった。
「終局ですね」
久しぶりに打ったけど、悪くはなかったのではないだろうか。腕が鈍っているような感覚はなかった。盤面には欠けた碁石が混じっていて、自分の陣地がいびつに見える。
「うーん、引き分けくらい?」
「囲碁に引き分けはないですよ。コミの分だけ私が勝っていると思います」
囲碁は先行の黒番が有利であるために、白番にはコミと呼ばれるハンデをもらう。引き分けにならないように、六目でも七目でもなく「六目半」という数字である。半目があることで、引き分けは起きない。コミが入っている分、私の方が勝っているはずだ。
「お、ぴったり六目半だね。せっかくいいところまで行ったのにな」
「六目半はけっこう差がありますよ」
コミ分を勝つように調整した、と言えば聞こえはいいが、実際は手加減をしたことになる。茜先輩がそれに気付いたのかどうか分からない。実力差があればあるほど、知らないうちに手加減をされても気付かないものだ。同年代の女の子で私より強い人と出会ったことがない。いつも私の方が圧勝してしまう。いつしかそれがつまらないと感じるようになっていた。
「この碁盤と碁石、新しいのにしないんですか?」
盤面に並んだいびつな碁石を見ていると少し気持ち悪いような気分になる。
「部費がかなり少なくてね。買い替えようと思えばできるけど、私はこの碁盤と碁石も好きだからいいんだよ」
「そうなんですね」
「今は新しい碁盤や碁石より、囲碁に関する本の方が欲しいかな」
私には関係のない話だ。むしろ将棋部にくっついていなければ存続もできない囲碁部のことを考えると、これでいいのかもしれない。茜先輩はカバンを開けて何かごそごそと探している。箱を取り出したかと思えば、その箱を開け始めた。
「ゆっきーも食べる?」
茜先輩が取り出したのはクッキーだった。差し出されたクッキーを見ながら、私は「お菓子の持ち込みは校則違反じゃないですか?」と尋ねた。
「ゆっきーは真面目だなあ。頭を使うから糖分が欲しくなるでしょ?」
茜先輩は悪びれる様子はない。言われてみれば私はひどく疲れていた。本当はもっと楽に勝てたはずなのに、大差がつかないように打つ場所を考えていたせいもあるだろう。
「じゃあいただきます」
「これで共犯だね」
伸ばしかけた手を一瞬止めると、茜先輩は「冗談だよ」とはにかんでいた。口の中でさくりと音を立てたクッキーは甘く、ゆっくりと溶けていった。
「ゆっきーとクッキー、似てるよね」
茜先輩の言葉を聞き流しながら、日が傾き始めた窓の外を眺める。こんな時間まで学校に残っていたのは初めてかもしれない。