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圭天 不老少女の憂鬱  作者: 吉田深一
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多胡羊介の離婚④ 妻との話し合い 続き

「そう、なら、あるよね。財布の中にでも入っているの? 待っているから早く見せて」


「いや、ない、でも失くしたんじゃないよ。領収証は初めからないんだ。その診療所の医者が俺に、同情してくれたみたいで、今日は医者としての仕事ができなかった、なんて言って、診療代金を無料にしてくれたんだ」


羊介は努力してなるべく軽く、何でもないような調子で話したのだが、失敗したかもしれない。

美紀の動作が完全に止まった。

十秒弱、美紀の動作が止まった後、羊介はその空気に耐え切れなくなって、美紀におずおずと話しかける。


「あ、あの、美紀さん」


「嘘つき」


ようやく話し始めた美紀は、今まで羊介が知っている優しい姉さん女房の美紀ではなかった。


「え、」


「全部嘘じゃないの。病気になったというのも、診療所に行ったというのも全部嘘。診療所名は覚えてない。診療代金は無料にしてもらったので領収証もない。なにそれ、いったいどこを信じればいいの。だいたい今時、診療代金を受け取らない診療所なんてあるわけないじゃない。むこうだって商売で診察してるのよ。信じられると思うの。要は私に興味がなくなったんでしょう。荒唐無稽な言い訳を並べ立てて、羊介君は恥ずかしいとは思わないの?」


「い、いや、病気じゃなくて」


羊介は小さな声で反論をしようとする。


「そんなことはどうでもいい!」


美紀は大声で羊介の反論をかき消す。

それからぞっとするような声で、羊介に言う。


「大方、若い女でもできたんでしょう。羊介君はそのに操を立ててるの? 羊介君? そのにもう奥さんには触らないで、なんて言われた?」


羊介は思いもよらないことを美紀に言われて、慌てて反論する。


「な、ななな、なんてことを言うんだよ。美紀さん。俺は美紀さん一筋で、他のなんて目もくれたこともないよ」


「動揺したわね」


美紀は今まで羊介が見たことないような目で、羊介を真っすぐに見ている。

羊介は非常に落ち着かない。どうしても挙動不審になってしまう。


「そんなことをいきなり言われたら、誰だって動揺するよ。美紀さん。どうか……」


「羊介君」


決して大きな声ではないのだが、有無を言わさぬ口調で美紀は羊介の言葉を遮った。

羊介に最後までしゃべらせてくれない。

そして怒りをかみ殺すような口調で続ける。


「羊介君。正直に言っていいんだよ。子供を二人も生んだ、七つも年上の、三十の古女房の体にはもう飽きたって。そう言っていいんだよ。その方が私も踏ん切りがつくからさ。そう言ってくれていいんだよ」


「み、美紀さん。どうか、落ち着いて」


羊介は今でははたからもそう見える程、震えている。


「羊介君は私の気持ちなんて、考えたことないでしょう。年上の妻の気持ちなんて」


美紀は涙声になっていた。

それでも何か喋りたいことがあるようなので、この際全部吐き出してもらった方がいいと判断して、羊介は黙っていた。と、いうか美紀にかける適切な言葉を思い付かなかった。


「私はね、こんな性格だから気の合わない友達もけっこういるの。そのうちの一人にね、羊介君と結婚前に言われたことがあるの。七つも年下の旦那と結婚したって、今はいいかもしれないけど、いずれ飽きられるよって、男はみんな若い女が好きなんだからって、こう言うの。私はその時、笑いとばしたわ。気にもしなかった。私と羊介君は特別だ。そんな日なんてくる訳ないって、今まで思い出したこともなかった。でも、でも、ここ最近、羊介君は私に触れようともしない。羊介君の年で性欲がなくなる訳ないのに、私に近づこうともしない。布団を並べててもひとりでさっさと寝て、まるで私とそういう雰囲気になるのを怖がっているように見える。いったいどこで性欲を処理してるのかと考えると気が狂いそうだった。結局あの子の言う通りになったのかと思うと、悔しくてたまらない」


美紀はすでに号泣していて、なかなか聞きとりづらい。

それでも必死に言葉を続ける。


「私は、私は、今でも羊介君のことが大好きなのに、よ、羊介君はそうじゃないんだね」


それ以上は言葉にならず、美紀は泣き続ける。

違うんだ、美紀さん、俺も美紀さんのことが大好きだよ、などと言おうとするが、声に出ない。

何しろ、じゃあ証明してよ、などと言われても何もできないのだ。

ただ、羊介は圭になってから今まで、自分一人のことに一杯一杯で、美紀がこんなことを考え、悩み、苦しんでいるのを想像すらしていなかった。

夫失格だ。


妻の気持ちを思いやれなかったのを、深く反省して、泣いている美紀にやっと声をかける。


「美紀さん。ごめんなさい」


今の羊介に言える精一杯の言葉だったのだが、美紀の反応は羊介の想像の範囲外だった。

美紀はうつむき、泣き続けていたのだが、羊介が声をかけたとたん、ぴたりと泣き止んだ。

そして地獄から響いてくるような声でこう言った。


「認めたわね」


羊介は腰を抜かしつつも必死に答える。


「な、何を」


「何をとぼけてるの。たった今、浮気してごめんなさいって言ったじゃない。浮気を認めたってことでしょう。認めたからには全部喋ってもらうわよ。その女は私の知ってるなの?」


羊介はパニックになっている。それでも必死に言葉を返す。


「ち、違う」


「そう、私の知らないなのね。いつの間に、誰? 名前を言いなさい」


羊介はもう言葉も出ない。首を左右に振る。


「この期に及んで、まだその女をかばうの?」


羊介は必死で美紀に話すべき言葉を探るが、どのように努力しても考えがまとまらない。

思わず美紀から顔をらす。


「そう、もう私の顔を見て話すこともできないわけ、一応、後ろめたい気持ちはあるんだ」


羊介はまだ顔をらし続けている。

誰か、誰か助けてくれ、俺がいったい何をしたっていうんだ。何か悪いことをしたのなら反省する。だから助けてくれ。


羊介は追い詰められてこの場を逃れる思考しかできなくなっていた。

美紀が近付いてくるのを感じる。

その時だった。和室のふすまが開いた。


「おかあさん、おとうさん、けんかしてるの?」


四歳になる二人の子供の美香が寝間着姿で立っていた。


「美香」

「美香」


羊介も美紀も美香に呼びかける。

しかしその場を動けないでいる羊介に対して、素早く美香にかけよったのは美紀の方だった。

美香の寝間着の帯を直しながら声をかける。


「美香、ごめんなさい。うるさかったよね。起こしちゃった。もしかしてようちゃんも起きてるの?」


「ううん、ようちゃんはよくねてるよ。」


そう答えた後に美香は美紀の顔をのぞきこむようなしぐさをする。


「おかあさん、ないてるの?」


美紀は確かにさっきまで泣いていた。涙の跡が顔に幾筋もついている。


「あ、ありがとう。大丈夫よ。美香。心配させちゃったね」


美香は心配そうに美紀を黙って見ている。

美紀は美香の寝間着の帯を直した後に、美紀に向って話しかける。


「美香。羊介君、いや、お父さんね、お母さんの他に好きな女の人ができたみたいなの。お母さん、お母さんね、それが悲しくて泣いちゃってたの」


「美紀さん!」


子供になんてことを言うんだ。酷い。

羊介は美紀のあまりの言葉に大きな声で口をはさむ。


「何よ。本当のことじゃない」


美紀はなぜか美香をかばうような動作をして羊介に向き合う。

子供の前で言い争いはしたくない。でも、などと羊介が言うべき言葉を探してると、美香が美紀の前にそろそろと出てきてこう言った。


「おとうさん、おかあさんをいじめないで」


「え、」


羊介は絶句する。


「みかーっ」


美紀は美香を抱きしめる。


「美香、ありがとう。お母さんを守ってくれて」


「うん」


美香も美紀の首に手を回し、抱きしめ返す。


「今日はお母さんと、一緒に寝る?」


「ねる」


「よし、じゃあ、向こうの部屋に行こうか。ようちゃんを起こさないように、静かにね」


「わかった」


美紀と美香は部屋を出ていく。

羊介にお休みなさいの一言も言ってくれない。


母娘の愛情を見せつけられているその間、羊介は一言も言葉を発することができなかった。

それほど美香の言葉はショックだった。


自分は男としての機能だけではなく、家族まで失おうとしている。

羊介は残された部屋で一人、絶望に沈んだ。

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