誰が百合ぞ
(あー、しまったなあ)
藤井恭子はガタンゴトンと揺られる満員電車に鮨詰めにされ、心中黙殺できず悪態を吐いた。
鮨詰めまではいい、鮨詰めまでは。でもこの状況は我慢できない。
恭子の周囲にいる乗客みなが男性ばかりであることに嫌悪を感じていた。
(もう少し早く髪が乾いていれば、いや、わたしに決断力があれば乾いたまま飛び出し女性専用車両に乗れたのだ)
それでも、昨夜の飲み会で酔っ払ったままマンションにたどり着き、スーツ姿のままで寝てしまった、その結果目覚めは最悪、髪の毛や服からは酒のわずかなにおいがこびりついていたのだ。
服はいい、服は。着替えれば済む事だから。だけど身体についたにおいだけは我慢ならなく、熱いシャワーを浴びたのだった。
真冬の中、暖房が利きつつも周囲にいる乗客、主に男性客の呼吸で白く曇りじめっと濡れた窓ガラスを横目で一瞥しながら恭子はつり革にぶら下がっていた。
電車がカーブで揺れるたび男性の肘が胸に当たる。他意は無いと判ってていても気持ちのいいものじゃない。特に藤井恭子にとっては殊更に嫌悪することであった。季節が季節ならその感触は纏ったコートとセーターを通して薄着の肌を姦淫するのであろう。自覚があろうと無かろうと男とはそういう生き物だと恭子は侮蔑する。
彼女にとって男性とは全てのそれに対して嫌悪を抱く曲解した感情の持ち主であった。それには揺るぎの無い理由として彼女が生まれつきの同種のめしべを耽溺する、レズビアン称するビアンであることが挙げられた。
無論、全てのビアンが男性にそのような感情を抱いているとは考えられない、恭子特有の偏見であった。
ビアンになったきっかけは特に無い。生まれ持ってしてそうであった。それが彼女にとって常識であり日常だったのだ。
しかし同性を好きになるのが当たり前ではないと言う事実に直面した時、まさに面食らった。同性を好きになり告白し、女同士という理由から断られた事は今もなおトラウマである。
それとは違い、男性に対して偏執な嫌悪を抱くようになったのには理由がある。少女の頃から兼ね備えられた美貌。それに世の男は振り返るまでに注目しあらゆる場所でじっと見られた。それが年を経るごとにまた理由が変わってきた。顔は周囲の男性に淫らな欲求を感じさせるような類ではないが、そうかといって見目に一歩退いてしまう冷たい美貌と言うわけでもなかった。どこか凛とした大型犬のような洗練さを感じさせる魅力を持っていた。
それにくわえ、波のような体躯に、透き通るような髪。豊かな乳房はコートの上からでも隠せず、長い足はそこいらの男性を見下ろせる武器にもなっていた。
そんな体躯を得た頃が十代の半ば。その時はまだ何もわからなかったが、成長するにつれその視線の意味することに半ばたじろぎを隠せなかった。自分がまだ穢れを知らない身体を視線と言う毒素で蝕まれているような感覚に当時は陥った。いつも男が見る目には特定の意味を含んでいるのだ。そして女を見る視線と言うものは男からすれば裸で歩いているように見え、女からすれば服が歩いているように見えるのだ。こんな偏見も彼女独自のものであった。
二十代を過ぎてからはそんな感情は払拭し、露出を避ける服装には違いないが、見るなら勝手に見ればいい、そんなスタンスを確立させた。
ガタンゴトンと電車は揺れる。ひじは相変わらず胸に辺り、つり革は揺さぶられる。
嫌悪感によるストレスに下車していっそのこと次の電車を待ってしまおうかと思った矢先、ふと乗車口付近で男性に囲まれおしくら饅頭されている女性が視線に入った。
慎重は自分より頭一つ下。年のころは二十歳くらいだろうか。
しかし、その平均身長は二十代女性のそれよりかなり小さめであろう。まっさらなシャツの上にワンピースを着込んでいる。髪は長いストレート。染めてもいない漆黒の流体に白い光が反射している。
容姿はいかにもな女性らしさ、優しさ、温かさそれを含んだ鮮明な美しさが人に親近感を与える力を持っていた。恭子の持つそれとは真逆な美麗さである。
しかし、それが今苦痛に歪んでいる。
その女性は電車が揺れるたびに人ごみに押しつぶされ乗車口にべタンと張り付けにされる。周囲の男性は痴漢である事を思われぬように両手を上げ、なるべく女性から距離を取ろうとしているが、乗車率主観で二百パーセントの車内ではそれも無意味。ガタンとまた揺れた。小さな身体は男性の大きな巨体にまたしても押しつぶされる。
見ていられない。と、それを見かねた恭子はするりするりと細い体躯と長身長を生かして乗車口へとたどり着く。そして男性たちとその小さな女性の間に身体を滑り込ませ、押し潰されないよう自ら壁になる。
恭子は片手でドアに手を付いてふんばりを利かせ、その女性に空間を作る。見下ろすと何かもじもじしていて、首から下げるにはやや長すぎるストラップの十字架をしたネックレスを一心に握っている。
クリスチャン? 修道者? そんな単語が頭をよぎるがガタンとゆれる車内でふんばりを利かせた姿勢を保つのに必死で思惑は儚くも霧散した。
やっと駅に到着した時、図らずもその女性も同じ駅で降車した。乗車口を潜り抜けホームに出ると、律儀にその子は恭子を待つように立っていて、一礼して去っていった。
ストン、と恭子の憑き物が落ちた気がした。そしてその後から来る熱情。画家が寝食を忘れて絵に没頭するように、恭子は彼女に没頭し始めた。
それからの彼女はすさまじかった。化粧品会社の企画部に所属する彼女は会社に着くや否や企画書をざあっと広げ、あの電車で出会った便宜上少女と呼ぶが、その少女に似合うマニキュア、ファンデーション、口紅、それらを思い起こして一気に企画を書き上げていった。キャッチコピーは「幼顔の大人な装い」。
この口紅ならあの子に、あの子と……そんな妄執のさなか恭子の心は一人、段々と盛り上がっていった。もう一度会いたい。この口紅を塗って欲しい。このマニキュアを塗ってあげたい。そんな衝動に駆られる。
車内で出会った少女を燃料に恭子の一日は終わった。
一日にして複数枚の企画を立ち上げたのだから本来ならば疲労困憊のはず。だが、いまだ恭子の中にはくすぶるように静かな熱を発する炭の如く心はほとばしっていた。
(どうやったら会える? 毎日あの車両に乗る? いや、ダメだあの様子から察するにあの電車に乗りなれているとは思えない。ならばどうする。考えろ藤井恭子)
そうオフィスの帰り道で思案に明け暮れながら歩いていると、ふと夕暮れの山裾が臙脂色の袖を通したような色に染まっていることに気付いた。そしてその臙脂の中から十字架が一本、塔のようにそびえ立っている事を見逃さなかった。
(あの子の持っていた十字架はロザリオ。確かそれは装飾物ではなく、シスターたちがお祈りの時に祈った回数を数えるために使うものだと聞いた事がある)
その実その通り、ロザリオとは祈りの回数を数えるためのものであり、その宗派では首から下げたり装飾に使うものではない。
よく映画やドラマで見るシスターが首から十字架を下げているのは間違いなのである。あっていたとしても、それは『装飾用』のものであって本来の彼女らにとっての十字架ではないのである。
真冬だと言うのに恭子の体は火照ってきた。あの教会へ行かねばならぬと言う強迫観念に駆られている。そこへ行けば電車の少女に会えるとそう頑なに信じて歩みを夕暮れの山中へと向けた。彼女はまた、別の憑き物に付かれていた事に気付きもしなかった。
教会へ着く頃には日はもう沈み、山裾から眼前に見下ろす人工太陽だけが際立っていた。
恭子は木製で出来た両開きの扉片方を開き中へと入る。
まず恭子はきらびやかな暖色寒色があわさったステンドグラスに出迎えられた。ステンドグラスの端にはオルガンにしてはやや大きめの、上部にパイプが着いた楽器。パイプオルガンと言うものであろうか、恭子は初めて目にする光景に目を奪われた。
建物自体は古くも、建てられた当時はモダンであったろう、大理石の床。そこへ等間隔に木製の長いすが並べられている。
恭子が室内を見回していると、ステンドグラスの影、奥の扉から一人のカソック(修道着)を着た老婆が出てきた。
「おや。こんな時分にお越しくださって申し訳ないのですが、神父様は暇を告げた所でして、いらっしゃらないのですよ」
老婆は優しげにそして申し訳なさそうに恭子へと述べる。老婆は『神父』と言った。ということはここはカトリック教会であることが伺えられる。なぜなら、プロテスタントなら神父ではなく、牧師だからである。
恭子は老婆に対して品のある言葉を選ぶようにと戸惑い、結果しどろもどろになる。まさか惚れた女性を探しに着たなどとは口が裂けても言えない。
「あの、その。教会が珍しくて、つい入ってしまいました。すみません」
出てきた言葉は本心からの謝罪の言葉だった。それに対して老婆は「これもまた父のお導き。ゆっくり拝見なさっていてください。神社の参拝だと思って気軽になさって結構ですよ」と品のいい、決して相手を傷つけないユーモアをはらんで恭子へと会釈し静かに近くの椅子へと向かい座った。
恭子は所在無くあたりを再度見渡す。自分にできることは何一つありそうに無い。ステンドグラスの神々しさに女性目当てで来た時分に男性を重ねて嫌悪感に陥る。
できることといえば、カタリと木製の椅子に座り祈るでもなく自分の熟慮断行の無さに腹立たしく、そして悲みを感じることだけだった。そんな折、老婆がいつの間にか自分の傍に立ち声をかけてきた。
「お祈りの仕方は……ご存知なさそうですね。いえ、別に作法にのっとらなくてもいいのですが、何かお悩みがあるように見えたので」
女神の微笑とはこのことだろうか、あけすけのない神聖さをはらんだ微笑。恭子は自分の腹曇が見透かされたようで羞恥に陥る。
「お祈りでなければ、お話だけでも聞きますよ。貴女が望むならですが」
老婆は再び恭子へと声をかける。
恭子は思索する。ここまで来たんだ。来てしまったんだ。自分の不甲斐なさと男性への偏見と自覚している価値観。同性愛者である自分を叱咤、もしくは認知して欲しい衝動に駆られた。
「ぜひ。ぜひお願いいたします!」
無二も無く恭子は懇願した。
老婆はふふふと優しげな笑みで視線をパイプオルガン横へと向けた。そこには防音室のような木組みで出来た小さな部屋、大きな箱があった。
「あそこにお入りください。中にシスターがおりますので悩み事、訓戒、懺悔なんでも仰って下さい。父のご加護があらぬことを」
そう言い残して老婆はまた、奥にある椅子へと戻って行った。
恭子は言われるがままに奥にある部屋へと向かう。
外見は本当に防音室。違う事といえば入り口が二箇所あることだろうか。一つは懺悔するものが入る場所への扉。もう一つはそれを聞く者、シスターだか神父だかが入る扉が備えられていることである。
中に入ってみるとダンボールが使われて居ない時代、まるで水菓子を入れるのに使っていた木箱である。
ドアをくぐるとまず椅子があり、中仕切りのような木板に手を置けるような台とそこに四角く切り取られた隙間がある。そこから相手の手だけが見えた。
「こんばんは」
入った瞬間、恭子はまだ椅子にも座していないうちに声をかけられた。急いで座り、台座の上に手を置いた。話相手の方も同じ構造なのだろう、台座の上に手を置いている。残念ながら今は指先しか見えない。
しかし声の主は若い女性のようである。それだけで恭子の心は弾んだ。男性に対して自分の偏見を語るのにはやや気負いするからである。無論、女性の場合であっても自分が同性愛者であることを同じ女性に話すことは気が引けるが。
お互い顔の見えない身、恭子はここぞとばかりに男性に対する偏見と価値観。自分が同性愛者である負い目を語り始めた。
「実はわたし、同性愛者なんです。宗教には詳しくないのですが、ここではそんな話でも聞いてもらえるでしょうか……」
恭子の言葉に迷い無く木板をはさんだ聞き手は即答した。
「勿論です。どのような悩みであってもそれを受け止め、語ることにより悩める者が心安らかになるのがわたしどもの幸福であり。また受け止める事が意義なのですから」
それならば、と恭子は自分の価値観を話し始めた。
「男と言う生き物は安い気高さで身を守って、そのくせ簡単に気高さははがれすると押し黙ってしまう。DNAに支配され女と見ればすぐに種の保存の対象とする。それだけならばまだいいが性欲のはけ口としてだけ女を玩具のように扱う。その視線は獲物を見るかのように。そして対象が老いてくると視線すら投げかけない。見たとしてもそれは衆愚で哀れみの目つき。男は身体で感じ女は心で感じる。そういうように男は心では感じられないのです。老婆を見れば精神美と呼ばれる美しい美点には気付かず、蔑ろにする。若ければそれこそ獲物のように毒素を含んだじめっとした視線で嘗め回す。そして安い享楽、ギャンブル等に身を投じ甚だ自慢げに話す。そこに普遍性のある知性と言うものがまったく無い。いつも猪突猛進なのです。それがわたしにとって嫌悪にしかならない」
恭子はまくし立てるようにいつしか熱弁を振るうようになっていた。それでも理性は残っていたか言葉の最後に「全ての男性が、いや多くの男性がそうでないことはわかっているつもりです」と付け加えた。それが偏見だということも。
それを聞いてシスターは口を開く。
「あなたはそれが偏見だと判っており、知徳無い思考だと理解している。それならばそれで十分です。あなたはあなたの価値観で生き、それを否定することはありません。ただ、それが行動に出てしまうと実生活やあなたに危機が及ぶ危険性があります。無闇にその価値観を披露しない方がいいやもしれません」
シスターは訥々とそれでいて説得力のある力の篭もった言葉を述べて、恭子はその理解を得てくれたことに感服し、心中で頭を下げた。
「そして、あなたがそこまで男性を嫌悪するには理由がおありなのですね」
シスターは恭子を見透かすように疑問を投げかけた。ここまで話せばシスターでなくとも恭子が男性を嫌悪する理由があることくらい判るであろうが。恭子はまたしどろもどろに身を捩じらせるが、耐え切れず告白する。
「実はわたし、同性愛者なんです。美しい女性を見ると心が踊り男性のそれと同じ目線で見てしまうのです。これがまた、男性を嫌悪する理由でもあります。同属嫌悪、になるのでしょうね」
「同属にはなりません。あなたは女性、対象も女性。かく言うわたしも美しい女性を見るとあなたと同じく、心が躍ります。これは老若男女全てに言える事ではないでしょうか」
「でも違うんです。性的対象としてみてしまうのです。歩く道すがら、出会うと緩やかな広い胸郭、優雅な丸みを帯びた乳房。にわかにも細待った腰首。百合の茎のようにしなやかに引き締まったふくらはぎ。全てを飲み込んでしまいたい欲求に駆られるのです」
恭子はかぶりを振って頭を抱え込む。
「なるほど。あなたは女性の身でありながら男性と同じ欲求を求めているのですね。そしてそれに同調するように男性に対する嫌悪感と自分を重ね合わせ、アンビバレント、板ばさみの心理状況におかれているのでしょう。とても難しい事ですが、あなたと同じ性的価値観を持った女性と出会えれば解決するかもしれません。あなたがそんな女性に出会えることを神に祈っております」
シスターは判っているのだろうか、この気持ちを。恭子は疑心暗鬼に駆られる。祈るだけなら、わたしにだってできる。いつしか恭子はこのシスターを自分の性癖へといざなおうと『説得』を論じ始めた。
「男女のそれは穢れです。しかし女性同士ならどうでしょう。無論同性愛が至高とは申しません。セクシャルマイノリティと自覚しております。男女が結びつきお互いを尊び尊重しあえる関係。子孫を残すのも女性にとって男がいてこそ初めて成り立つ行為。しかし、今まで述べた尊び尊重し会える関係は女性同士でもできるのです。子を育むことも実の子ではなくともかまいはしません。何より男のその穢れを知らずして肉体を重ねあう事ができるのです。そこに、同性愛に性差というものは存在しない。これがどれだけ素晴らしい事でしょうか。性差は差別を生み主従関係を作る。無論女性同士でもそれは存在しえるでしょうが、性差の無い主従関係は神聖だとわたしは思うのです!」
「性差の無い愛の形。それは素晴らしい一つの形だと思います。ただ、それは一つの形であって唯一の形でない事をあなたに知ってもらいたいのです。そしてあなたは今、男女のそれを『穢れ』と仰いましたが、それはそこに愛があれば『営み』へと変わるのです。それでも確かに営み中の男性はケモノの本能に近い思考で動いておるようですね。恥ずかしながらわたしにはそのような経験が無いもので」
このシスターは男性経験が無い。それを聞いて、恭子は打ち明けてしまった事に後悔の念に駆られる。だが今しがたまでの打ち明けたいと言う衝動は狂おしかった。
だが、シスターの恥部を露にしたことには変わりない。自分が動くと人が傷つく。その例を恭子は体験を持って実感した。
傷つくと知って、恭子は一言シスターに声をかける。
「今も、あなたに恋心を抱き始めています。できることならその手に触れたい。握り締めたい。顔を合わせて身体を重ねあいたい」
一寸沈黙を置いて、シスターは答えた。
「顔を合わすのは規律上できませんが、手を交わすくらいならどうぞ」
そう言い、四角く切り取られた穴から両手を恭子の座っている部屋へと差し出した。
それは白く、太陽の恩恵を受けてないかと思われるまさに白魚を表現するに値する麗しい手であった。
「どうぞ、お手柔らかに」
その一言が恭子に火をつけた。
手を握り締めると言う最初の行為を飛ばして、いきなり差し出された手を自身の手を使わずに舐める。手を使わずに舐めると言う行為はまるで枷をはめられた囚人のような、自分を貶める行為に没頭する。舐めるだけでは飽き足らず指先をすする。
これでは自身が嫌悪する肉体を求める男性となんら変わりないではないか。いやそれ以上に、衆愚な存在じゃないか。自己嫌悪と羞恥心、そして聖職者を冒すという背徳心から恭子の心は音を立てて燃え上がる。心が炎なら、感情は煮立った沸き鍋であった。鍋のそこから水泡が立ち上りぷくりと浮かび消えていく。それが幾度もそして俊足にして繰り返される。
鍋の底面から水泡が浮き出るたびに一回一回指をすすり、舐めるごとにシスター側の部屋からは悦楽を思わせる耽溺な声が聞こえた。
ごうごうと燃え盛る恭子の火は留まることを知らず、両手をだすのが精一杯の四角い切り取られた穴から軽く、恭子はくいっと初めて手を使い限界までシスターの手を引き出した。すると、チリンという音と共に恭子の一瞬にして鎮火した。沸騰した湯はそのままに。
それは、あの車内で見たロザリオが引き出されたシスターの左腕に巻かれていた。
「あの。ごめんなさい、少し痛いです……」
小さな四角い穴から肘まで出されてはそれは痛いだろう。シスターは軽い苦痛を優しく諭すように恭子へと訴えた。
その声が届いたか、たじろいだか、恭子は恐る恐るその手を解放した。そして今まで意識の箍がはずれ行った儀式に羞恥を覚える。(わたしは何をしているんだ。声しか聞いていない女性に対して……それよりも、何よりも、あのロザリオ、電車であの子が握っていたものと同じ)
恭子は罪悪感と自己嫌悪にさいなまれる。もしあの時の子がこのシスターだったら。それは何にも勝る恐怖だった。自分が同性愛者であることを告白してしまった事実。理性を失い行った性行。もし仮にシスターとしてではなく一人の女性として自分の言った熱弁を聞かされたらどう思うか。嫌悪を抱くまでも無く、最善、否定もしなければ決して肯定もされないであろう結末。それが恐ろしかった。
『規律上』、顔を見合わせることはできない。その一言を恭子は思い出し椅子から立ち上がる。
「あの、大丈夫ですか? 何か不安を感じておられませんか? 私なら大丈夫ですから気に病まないでください」
そんなビーナスのような聖職者としてこれ以上無い正しい姿勢で恭子を壁の向こうから気にかける。
それがまた、恭子を不安にさせるのだ。
「あ。すみません。とんだ無作法を……。お怪我はありませんか」
椅子から立ち上がったまま震える声で自制心を保つ。早くここから逃げ出したいという欲求。
「はい、少し驚きましたがわたしなら大丈夫です。たまに懺悔中にお加減が悪くなったり、手を握る安心感を求める方もいらっしゃいますから」
優しげな本当になんら嫌悪を感じていないそんな言葉と口調で恭子を肯定した。
「きょ、今日はここまでにします。無作法お許しください」
「はい。また何かお悩みがあればいつでもいらっしゃってください。わたしはこの時間ならいつもここにおりますから」
その言葉に恭子は安堵する。
そして最後に一つ聞いておかねばならぬことがあった。
「シスターさん。そのロザリオ、いつも持ち歩いているんですか」
率直な質問だった。
「ええ。恥ずかしながら、本来お守りとは違うのですが、わたしはお守り代わりに持ち歩いております」
ドクン、と恭子の胸が高鳴った。狭い木箱の部屋で、仕切りのある向こうの部屋を覗きたいと。逆に覗かずにそのまま立ち去りたいと、どちらも不純な両方の欲望が頭をもたげ、それが垂れ落ちる前に恭子は木箱を後にした。謝罪と謝礼を述べて。
帰りの道すがら、恭子は自分の判断力の無さに絶望していた。あの木箱での隔たりを無くさなくとも、朝、電車内での一件を聞けばその人かどうか判ったではないか、と。
だがそれは、同時に自分が理性の箍が簡単に外れる『藤井恭子という』劣悪と自分を卑下する一同性愛者として名乗るのと同じことであった。それは自分と同じ同性愛者をさげすむようで気がとがめた。それもまた、言い訳だと自分に嫌悪を感じて。
次の日。恭子はむくりと起き上がり、寝ぼけ眼で無意識に朝食を取ろうと冷蔵庫を開け、チーズを一切れ取り出した。それをマンションのベランダから見える冬の朝独特の空気が静まり返った景色を見ながらかじっているうちに目が覚めた。
(今日は……ゆったりできる)
理由は昨日と同じ時間の同じ車両に乗り込むためである。
コーヒーメーカーの電源をいれて、その間にワイシャツを着込みやや長めのタイトなスカートを履く。着替え終わって丁度、熱々の湯気立つ珈琲が出来上がっていた。それをマグカップに注ぎ、またしてもベランダへ出て外の静謐な空気を吸いながら今日の予定を思い描いた。そして出勤。
前日と同じ時間、同じ車両に乗り込んだ。
恭子にとって男性の放つ芳香は、腐臭となんら変わりないその中を迷子の子供が親を探すように鮨詰めの車内を潜り抜け少女の姿を捜した。
その下心にまみれた感情は清々しいキンと空気の凍る冬の朝に腐臭でまみれるだけで車内から下車する事となった。
会社に着いても仕事は前日と打って変わって手付かず。発案した企画の整理もままならず、前夜の教会での一件を思い返し、また軸辞すると言う螺旋に飲み込まれていた。
(あの子がもし電車の子だったら、機能の事はどう思うだろう。わたしをどう感じるだろう。侮蔑するだろうか、拒絶するだろうか、それとも一般人のように排他するであろうか。少なくとも感情と身体を受け入れてくれる事は無いと覚悟しておいたほうがいい)
そんな思索にまみれていると気付けば昼休みの時間になっていた。
社内食堂で済ませてももちろんよかったが、どうにもそんな気分にもなれず、弁当を公園で買い、冬の寒空の下遠い太陽を眺めながら口にした。
(こんな時でも、おなかは空くのね……)
自分の人間的生理に呆れながらも、くずかごへと食べ終えた弁当の空箱を入れ込んだ。
昼休み。オフィス街の雑踏溢れる中、人ごみを避け路地裏を通り会社へと戻る。その道すがらふと占い師が客を待って姿に気付いた。
それは店とは程遠い、四辺を垂れ幕で覆いテーブルと椅子が備えられていた。その光景に昨日の木箱を髣髴とさせる懺悔室を思い起こさせた。占い師は路地裏には似つかわしくないエキゾチックなインドの民族衣装であるサリーを着て、顔をヴェールで隠していた。
ああ、やだやだ。と思いたったも束の間、からかい半分で出鱈目な言葉を引き出してやれ、と思い立った。
『占いの館』と書かれた看板に、どこが館だ、と厚顔のまま占い師の座る椅子の前に立つ。二人を隔てるはテーブルのみ。だが恭子にとってそれ以上の隔たりを感じるのが占い師が顔を隠しているヴェールであった。物品を売らないからと言って、顔を隠すなどと接客業としてはあるまじき行為だ。と顔を隠すという行為に化粧品を企画、販売している恭子にしては一つ不愉快であった。
恭子は椅子に座り「占って欲しいのですが」とやや低姿勢で占い師と向き合った。
「いいですよ。さて、何を占いましょうか」
占い師は定型句のように訥々と喋り始めた。
「恋愛運を」
恭子はそれ一言のみを言い放った。もちろん、からかい半分である。女性運を、と言ってもよかったのだが、それではあまりにもあざとすぎる。恭子はあくまで、客としての姿勢を保ったまま前述の言葉を選んだ。
「恋愛運ですね。かしこまりました」
そう言い、慣れた手つきでトランプのようなカードを数枚パラパラとまるで手品のようにどこからともなく手の平に出現させた。
トランプとは違いやや大柄で、どのカードにも絵柄が描いてあるのでタロットカードと言うものだろうと推測する。
パタン、パタンと一枚一枚テーブルに置く慣れた所作に感嘆したのも、それは一瞬で吹き飛んだ。占い師がカードを捲る左手に巻かれていたのが見覚えのある、忘れもしないあのロザリオだったのだ。
もうカードのことなどはどこ吹く風で恭子はヴェールを一心に見つめ顔を確認しようとする。だが路地裏と言うこともあるが、ヴェールは思ったよりも厚く表情はうかがい知れない。よっぽどの強風が吹かない限りそれは捲くれないだろう。
そこで、ふと一つ疑問が浮かぶ。こちらからは見えないということは、あちらからも見えないのではないだろうか。それとも何か特殊な布であちらからだけ見えるのだろうか。それならば、電車での一件を思い出し反応するはず。いや、してくれるはず。アレほど丁寧に待ってくれて会釈をしてくれたのだ。だとすれば、あちらからもこちらからも顔は見えて居ないと推測する。
パタンパタンと今度はテーブルに置いたカードを捲り始めた占い師に恭子は声をかける。
「あの失礼ですが、どこかでお会いしたことはありませんか」
ヴェールを捲って顔を見せてくれ、とは言えなかった。
「え。いえ、失礼ながらあなた様のお声を聞いた覚えはございません。顔を見れば思い出すのかもしれませんが、『規律上』わたしはカードでのみ相手との運命を共有する身。お客としていらっしゃったあなた様に顔をお見せすることはできません」
「じゃ、じゃあ。お客としてではなく、一個人として見せてもらえませんか!」
テーブルに手を付き、前のめりになりながら言いよどみつつも懇願をする。
「申し訳ありませんが、占いはすでに始まり、終わりを告げようとしております。終わってからではもうわたしとあなた様は占い師とその成り手。わたしとしても、お顔を見るわけには参りません」
その言葉に恭子は落胆の色を隠せなかった。
身長も低め。黒く長い艶やかな髪。そして忘れもしない綺麗な手に握られたロザリオ。この子じゃないとすれば、一体誰なのだろう。もしかしてこのロザリオは流行っているのだろうか。そんな思案に明け暮れていると、占い師は恭子に声をかけた。
「出ました。あなたは今、恋愛に対して悩んでおります」
それはそうだ。悩んでいなければ占いになんて来ない。
「恋愛に臆病になりつつも心の奥底で、まるで野獣のように一人の人を求めている。」
複数人求めたいって人もいると思うけど、大概が大事な一人を熱望するのではないだろうか。
恭子は定型文である占いの結果にさらに落胆する。
「運命は良好、今はまだ求めている形ですが、求めずとも近いうちに再度、あなたの求めている人と出会えるとカードは言っています。その後の関係も良好お互いが尊重し合える関係になれますよ」
その言葉にはっと顔を上げる。所詮は占い。当たらずも八卦当たらぬも八卦。
しかし、おぼれる者はなんとやら。占い師が最後に言った言葉に曇天に覆われた心に光が差す。なんとも単純だ。恭子は自分を戒めつつ恥ずかしく思う。
(だけど、求めずとも会えるとはどういう意味なんだろう。わたしは人を捜してるんだから、求めなければ出会えないんじゃなかろうか)
恭子はその結果に疑心暗鬼と仄かな明るさを『売られ』占い料を支払いオフィスへと戻った。
求めずとも会える。それはもうすでに出会っているということではないか。だとすれば、やはりあの教会のシスター。もしくはあの占い師。占いなどに振り回されてはいけない、そう思っても気にかかるのが占いである。百パーセント信じないが気にかかる。これはまた日本人特有の性質であり、恭子もまた日本人であった。
その日の夕方、また恭子は教会へと足を運んだ。
今日もまた木製の扉片面だけを開け身体を滑り込ませる。もっと堂々と入ればいいのに、そう恭子は自分の意気地のなさを実感する。
老婆は昨日と同じステンドグラス脇、奥の椅子に座り恭子が入るや否や出迎えてくれた。
「こんばんは。今日もいらしたのね。今は神父様もいらっしゃいますがどのようなご用件で」
「あの、今日も懺悔をしたくて、ここへ」
「はい。教会はいつも迷える人を出迎えるのが勤め、実は中にいるシスターはまだ新米で未熟なところがございますが、あなたの臨む答えを、悩みを聞いてくれるはずですよ」
そういい、懺悔室へと案内された。老婆はノックをし、「どうぞ」という返答が帰るのを待ってその後恭子を中に招き入れた。
「それでは、父のご加護があらぬことを」
それだけ言い残し、パタンとドアを閉め木箱、もとい懺悔室に取り残された。
椅子に座り深呼吸をする。
「昨日うかがった者なのですが」
「まあ。昨日はわたしも取り乱してしまい申し訳ありませんでした」
「い、いえ。あれはわたしのせいですので」
そんな近隣の住人に挨拶をするように軽く会話は始まった。
「実はわたし、ある人を捜しているのです」
捜している人物はもうすでに出会っている人。占い師はそんなことは一言も言ってはいなかったがそんな推測が恭子にとって確固たるものとなっていた。
「今捜している人がわたしにとって運命の人に違いないと確信しているんです」
昨日と同じテンションに心が盛り上がってくる。このシスターと話していると心が躍動する。そう恭子は感じた。
「運命の人、ですか。ロマンチックですね」
ほう、と嘆息を吐いて心底からシスターは思う。
「それで、今日出会ったかもしれないんです、その人に。占い師でヴェールをしていて顔はわからなかったんですけれどもしかしたらその人かもって」
ふむふむ、と仕切りの向こうでうなずく声が聞こえる。
「その人は言ったんです。求めずとも近いうちに再度出会えると。それはもしかしたらもうすでに出会っているのではないかとわたしは推測しました。勿論占いなので外れている可能性が高いのですが」
恭子の言葉にシスターはピクンと反応した。
「信じる者は救われる。言わずもがな有名な言葉がありますよね。これは信じていれば救われるという言葉通りの意味ではなく、信じることが心の支えになり、結果救われるとわたしは思っております。その占い、信じてみてもよろしいのではないでしょうか。信じるとまでは行かずとも心の支えにしてみてはいかがかと思います」
たったの一言で恭子の心は洗われた。このシスターのどこが未熟なのだろう。その通りだ。信じなければ行動に移せない。そして信じてばかりいて行動に移さず待っているばかりでもいけない。心の支えとして何かをしなければいけないのだ。そう恭子は悟った。
仕切りから見える四角い穴から今日もまた綺麗な手が覗いている。トクントクンと恭子の心臓が脈打つ。嫌悪しているはずの男性的思考。女性を見れば性欲がうずく。そんな唾棄すべき感情を自分も持っていることに吐き気がする。だが、この密室と言う空間が恭子の理性をまた緩める。
「あの、その……今日もまた、手を握ってもいいでしょうか」
仕切りに閉ざされた壁向こうからは表情は読み取れない。
しかし返答は即座に来た。
「ええ。勿論です。それであなたが落ち着くのであれば」
「感謝します。今日は、今日は握るだけ済ませますから」
済ませる。それがいかに男性的な発言(これも偏見だが)だと思うと自分に嫌気が差す。
ふわりと穴から差し出された手に自身の手を乗せ、まず温もりを感じる。その後、自分の指とシスターの指を絡ませ肉体的つながりを実感する。
(これ以上はいけない、これ以上はダメだ)
そう自分に言い聞かせ、恭子はそっと手を離した。
「あ、ありがとうございました」
羞恥と嫌悪で火照った体は言葉をどもらせた。
「はい。こちらこそありがとうございました。綺麗な手ですね。うらやましいです」
そんなことは無い。日焼けはしてないまでも、自分のような日本人独特の黄色がかった色をした手とは違い、白皙を思い起こさせる欧米人のきれいな白い手とは程遠い。
だが、褒められたことに照れを感じ席を立ち謝礼を述べ、教会を後にした。
次の日。電車での一件から三日目。
寝入って気付かなかったが、昨夜は雨が降ったのだろうか。駅への道すがらにそびえ立っている常緑樹からは、緑の濃い木々の狭間から雫がぽつりと時たま落ちてきた。
駅までの距離はまだある。雑踏とは程遠い道を歩いていると、また常緑樹が目に入った。それは濡れそぼった重たげな葉は、身をもたせてうなだれていた。落ちてくる甘露を避けるべく街路樹から離れて歩いた。
恭子は今日もまた『信じることを心の支え』にして腐臭と毒物の混ざった車両に乗り込む。
車両先端から最後尾まで身体をくねらせ女性客を一人ひとり書くにしていくが、見つからずじまいだった。
オフィスに着くと今日のスケジュールを確認する。それは化粧品の試供品を宣伝するという広報の役割であった。本来、企画立案を主とする恭子にとってはお門違いの仕事であったが、その宣伝する化粧品は恭子が企画したものであった。
手早く外見用のスーツに着替えスタッフたちと共に現地へ赴く。
着いた先は吹き抜けのビルで階下では子供向けだろうか、三銃士をモチーフとしたと思われるショーが行われていた。
昼までに現場を監督し、製品の細かな説明をスタッフたるスタイルのいいモデルに伝える。
開始から一時間、反応は上々で行き交う女性客たちが興味を示し体験ルームで新規のファンデーションを縫ったり口紅の色を確かめたりしている。
スタッフは女性客が口紅を手に取るや否や塗った質感や、透明度、ティーカップに口紅のあとが残らない、しかし簡単に付属の試薬で洗い流せるなどの説明を事細かにし始める。
一部始終を監督し終わった後、息を抜こうと階下の甘味処で休むべくエスカレーターを降りた。するとショーが終わったのか壇上から頭部全部を覆ったマスクをつけた三人の剣士扮するヒーローらしき人達が下手にはけていくのが目に入った。長いエスカレーター。次の階へ降りるエスカレーターに乗ると先ほどの演者たちが衣装を脱ぎ着替える姿が見えた。
恭子は目を見開いた。その中の一人が小柄な女性で仮面をつけつつストローで飲み物を飲んでいるところを。いや、そこは重要じゃない、左手にあのロザリオが巻いてあったのだ。
間近では見て居ないが、ショーをやっている最中にはそんなものはつけてはいなかった。それに動きのあるアクションシーンをするのにそんな装飾物に近いそれをつけるとは考えにくい。ショーが終わってからつけたのだ。
それが判ったか、恭子はエスカレーターを降り、階下のアトラクションをやっていたスタッフルームへと向かう。
入る際には上で化粧品会社の宣伝をやっている者です、と言い社員証を見せればあっさりと通してくれた。少なくとも一般客とは思われなかったらしい。
スタッフルームに入ると、顔も知れぬ人が入ってきたと部屋は少しざわつく。未だ仮面をかぶっているロザリオを巻いた少女に近づく。信じる心が支えになる。それを心情に声をかける。
「すいませんが、あなた、わたしに見覚えがありませんか」
「え、え? 見覚え、ですか?」
少女は思索し記憶を手繰り寄せる仕草を見せる。この時点で恭子の心に影が差し込む。すぐには思い出せない、そんな状況が不安でたまらなかった。
「そのロザリオを手にした女の子を捜しているの。電車の中で会った」
「電車の中。わたしに記憶はありませんが、もしかしたらそちらがこのロザリオを見て記憶に残っているのかもしれませんね」
光明が差す。
「あ、マスクをつけたままで失礼しました。てっきりファンの子供が入ってきたのかと思いそのままで。たまにあるんですよ、そういうことが。今すぐ取りますね」
「いいえ。こちらこそ急に押しかけて失礼しました。でもその女の子をどうしても捜し出したくて」
恭子の言葉が早口になる。いても立ってもいられない、もうすぐあの子に再会できると信じて。
もぞもぞとマスクを脱ぎ取り、ぷはっと『短髪の少女』は素顔を見せた。
人、違い。恭子はその場に膝をついた。
「あ、あ。大丈夫ですか!」
その短髪の少女と他にいたスタッフが駆け寄る。
「い、いいえ。大丈夫。ごめんなさいね、迷惑ばかりかけてしまって。人違いだったわ」
一番言葉にしたくないことを口にする。人違い。あの占い師にシスターに反感を持つのは見当はずれ。だが、それでも悔しさがにじみ出てくる。
だが、それを残りの自尊心で持たせ、一人で立ち上がりもう一度謝罪を述べる。
「本当にごめんなさいね。急に押しかけて、しかも騒ぎまで起こしちゃって」
「……いいえ。こちらこそ人違いですいません」
「あなたが謝ることは無いのよ。一方的に私が悪いんだわ。それでは、ご迷惑をおかけしました」
その一言でスタッフルームを恭子は後にした。
夕暮れになり、落ちる日も早く外が暗くなった時分に仕事の後片付けを全て済ませ、恭子はもうすでに日課になりつつある教会へと足を運んだ。
もうここへ訪れる事に猜疑は無い。恭子は堂々と木製扉を開きいつもどおりに飾られたステンドグラスに出迎えられた。
老婆は今日も椅子に座っており、恭子が何のために来訪したかを汲み取り、神父云々も言葉少なに語り恭子を懺悔室に誘った。
カタン。扉を開ける音はせず、恭子が椅子に座る音のみ密室に響き渡った。
コートを脱ぎ、スカートを正し、姿勢もまっすぐに今日もいるであろうシスターに声をかける。
「こんばんは。今日も来ました」
「ようこそいらっしゃいました。今日は来るのが遅かったのですね。もしやいらっしゃらないのかと思っておりました」
シスターもまた、恭子との逢瀬を楽しみにしているかの口ぶりで優しく『夜会』の挨拶を返した。
「今日も出会ったんです。ロザリオをした女性に」
「まあ。それで運命の方とは一致したのですか」
「いいえ……残念ながら人違いでした。今まで本人かどうかを確かめる事ができないということはありましたが、確かめて人違いと言うケースは初めてで、面くらい膝をついてしまいました。自分自身のその挙動で、どれだけ運命の女性を渇望しているかも自覚しました」
「それは……残念な事でした。もしや昨晩、わたしが言った信じて突き進むと言う助言が仇になったのでしょうか!?」
「いいえ。それはありません。その言葉には感謝しています。それがなければわたしは確認する事もしなかったでしょうし。それに一つ得たことがあります」
「それは、光明ですか」
「はい、一度恐るべき挫折と絶望を味わったことにより、確認するという勇気がもてました。ここに来て、あなたと話してその勇気がさらに強く燃え盛っています」
恭子は仕切り板に顔を近づけ両手拳を握り締め決意を表明する。
「明日は以前言った、占い師さんに確認を取ろうと思います。人違いでも構わない。勿論、捜し求めていた女性であることが望ましいですが、もうわたしは恐れない事にしました」
仕切り板の下部に空けられた穴から手が差し伸べられた。
その手は恭子の手を捜すように右往左往している。だが現在恭子の手はテーブルの上には無い。
恭子はそれを見て、くすりと笑いテーブルで迷子になっている手をそっと握り締めた。
「初めてですね、あなたから手を仕切り板から出してくださるのは」
「はい。あなたの決意を聞いて感銘を受けました。なぜか、自分でも判らないのですが手を握りたいと思い、恥ずかしながらあなたの真似をしてみました」
恭子の真似。その少しいたずらめいた言い方に親近感が湧く。
シスターは乗せられた恭子の手をぐっと握り締める。
「応援しています。ぜひ、頑張ってください。あなたが父の加護があるよう、わたしは祈り続けます」
お互いがお互いを尊重し、大事に思いやる関係。今まさにその状態になっていることに恭子も、そしてシスターも気づきはしなかった。
この交友関係に目覚めてしまったら、恭子はまた違う悩みを抱えることになってしまうであろう。『規律上』顔を見せあうことのできない関係にやきもきすることは確定的に明らかである。
今はまだ、この関係にお互いが気付かないのが花であった。
お互いの心が誰もあずかり知らぬところで縮まり今日の逢瀬は終わった。
次の日。恭子は久しぶりに早起きをし、珈琲を入れる以外の目的で台所へ立った。
フライパンを持ち、火にかけて油を引いた。そこへ溶き卵を流し込み手早くかき混ぜる。
(朝食を手ずから作るなんて何日ぶりだろう)
少しずつ熱を帯び塊になっていく卵と共に恭子の心も高揚していった。
用意された皿に盛り付け、クロワッサンを一切れ、袋から出す。
パンと並べられたスクランブルエッグは久しぶりに作ったにも拘らず立派な朝食の様を呈していた。
クロワッサンちぎり口へ放り込み、手にしたフォークでスクランブルエッグをすくう。合間に熱々としたいつものブラック珈琲を食道へと流し込み朝食を終える。
時計を見ると時間はいつもの起床時間となんら変わりない。女性専用車両に悠々と乗り込める時間であるが、今日はここ数日どおり二杯目の珈琲をいれ、一息ついてから玄関を後にした。
駅のホームで電車を待つ。目的は運命の女性捜しだ。もう腐臭にも毒袋の質感にも慣れた。
幾分して電車はホームへと着いた。
恭子は車両先端のドアから乗り込み、他の乗客に迷惑をかけぬよう駅に停車し、人が動く隙を狙って車両最後部まで一人、また一人と逐一女性を見回した。が、結果は今日も空振りに終わった。
オフィスに着き仕事の準備をする。今日は昼休みにあの占い師のところへ行くのだ。気が逸るがノルマをきちんとこなさねば落ち着いて事を進めることも間々成らない。
以前出した新しい口紅の企画が通り、恭子の仕事は不遜ながらも増えることとなった。本来なら喜ぶべきところなのだが、今の彼女にとっては足かせ以外の何物でもなかった。
それでも恭子は口紅に使われる素材の発注や、新色の模索。一人では完遂できぬ作業なのでチームを組むことにし、それの人選を行い発注書、企画の概要等を説明し新たな仕事に挑んだ。
功をそうしたか、仕事は昼休みのチャイムが鳴る五分前に済んだ。コートを急いで着込みチャイムが鳴る前にオフィスを飛び出した。
以前と同じ路地裏。今日もいるとは限らない。足早に目的地へと向かうさなか色々な負の考えが浮かんでは消える。勿論、一番の落胆すべき『人違い』という可能性も踏まえて。
だがそんな感情が浮き出るたびにかぶりを振って払拭する。
(いいじゃないか、人違いでも。いや、よくないか……。それでも結果は出るんだ。こんなやきもきした気分はもううんざりだ)
心中を自身の内に吐露しているうちに路地裏へと到着する。
占い師は、今日もいた。同じ垂れ幕の中にエキゾチックなサリーを纏って肝心なヴェールもつけている。勿論、左腕にはロザリオが巻かれていた。
はあはあと乱れた呼吸を落ち着けてから、占いの館に腰を落とす。ガタリという椅子に座る音に恭子はおっかなびっくりする。
占い師はすでに来客が来たのだなという所作で恭子を迎えた。
「いらっしゃいませ。あら、もしかしたら先日の方かしら」
声も発していないのに占い師は客が恭子かと推測した。
「え、ええ。先日占ってもらった者です」
予期せぬ占い師の発言に面食らい、どもる。この予期せぬ一撃は大きかった。恭子の心を揺さぶるには十分な威力だった。
「コートの袖が記憶にあったもので。もしやと思いまして」
占い師は言った。ヴェールはしていても下部は見えるのだと。
恭子の思考はあさっての方向へと向いた。
(下部は見える。そりゃそうか、そうでなくてはテーブルに置かれたカードが見えないものね)
そんな安直な思考が恭子に落ち着きを取り戻させる。
「では、今日の占いは何をご所望でございましょうか」
そら来たぞ。と強固は満面の笑みを浮かべて勝ち誇ったように注文をオーダーした。
「あなたが、わたしの運命の相手かどうかを占って欲しいのです」
ヴェール越しに驚嘆の思惟が受け止められる。占い師は明らかに驚嘆していた。よもや自分が占いの対象となろうとは甚だ思いもしなかったようである。
「そうですか。まだ運命の相手を捜してらっしゃって、見つかっておらぬのですね。そしてわたしを疑ってらっしゃる」
「いいえ。あなたの占い師としての能力は疑ってません。あなたの能力を信じていればこそここに来ました。もうすでに出会っている。そして近いうちに出会えると」
「わたしは言いましたよね、それに付け加えて。求めずとも近いうちに出会える、と。今のあなたは求めています。わたしの言葉を信じるのならば、あなたはここには訪れません」
確かにそうだ。失念していた。今の恭子は明らかに運命の女性、電車で出会ったあの子を求めている。
だが、それに強固は異論を唱える。
「あなたの言葉は信じています。心の支えになっています。けれど、確認しなければこの心情は収まらないのです」
恭子は胸に手をあて、前のめりになり占い師に詰め寄る。
「ならば占いましょう。わたしがあなたの運命の女性かどうかを」
「待って。その前にもっと簡単に確かめる方法があるの。わたしがあなたの客になる前に、占いが始まる前にただの通りすがりの変人としてあなたに問いかけるわ」
恭子は自身を変人と称した。そこまでに真実を目の前にした恭子は半分、我を失っていた。
「ヴェールを取って素顔を見せて頂戴。それで、わたしは救われる。この貪欲で行き場の無い渇望から!」
叫び、と呼ぶには小さいがそれでもなお、語尾が上がった強い口調に占い師は多少たじろぐ。しかし。
「それはできません。わたしとあなたは、一度占い師とその成り手になった身。『規律上』顔を合わせることはできないのです」
また規律か。恭子は辟易とし多少の鬱憤がたまるのを自覚し、嫌悪した。それを嗜めようと平静を取り戻し、もとの方法で確かめようとする。
「いいわ。わかった。それじゃあ占ってください、わたしとあなたが運命で結ばれているかを」
恭子の荒々しい言動を押さえた強い自我に感服し、占い師はパタパタとカードをまたどこからともなく出現させる。
「では、始めます」
「はい」
パタパタパタパタと手馴れた手つきでカードは高速にシャッフルされ次に六角形を成すように等間隔にカードを並べていく。
恭子は初めて見る占いの所作に感嘆する。最初に出会ったときは占いなどどこ吹く風でヴェールのことばかり気にしていたからだ。
並び終えられた八枚のカード。まず真ん中の一枚を捲る。タロットカードとして恭子には見覚えのある塔のイラストが描かれたカードがまず現れた。そこから恭子から見て左手前、占い師から見て右上のカードから時計回りに順々に捲られていく。
タロットには詳しくないが、どれもこれも見覚えのある印象を与えるイラストだった。それが逆さまに置かれていたりする。
(確か、逆さまだと意味が逆になったりするのよね?)
そんな疑問が浮かぶが占い中にそれを聞く事は憚られた。
待つこと数刻、全部のカードが表を向き占い師は口を開いた。
「結果を率直に言うと、わたしはあなたの捜している女性ではないようです」
ぐらんと揺らめく頭。恭子はそれでも持ち直し、執拗に尋ねる。
「間違いじゃないんですか!?」
「カードはそう言っております。まことに、わたしとしてもご期待に沿えず残念なのですが……」
くっと恭子は苦虫をかむような表情をする。ここまで来て、また空振り? でもまだだ、占いがそう言ってるだけだ。当たるも八卦当たらぬも――。
「それなら、ヴェールを取ってお顔を見せてください。お願いします」
引き下がらず。椅子からがたりと立ち上がりテーブルに片手をつき懇願する。
「ですから……それはできません。見せたとあればもう二度とあなたとは会うことはできなくなります。そして、もし仮にわたしがその相手だったとしたら二度と会わない、そんなことがあなたにできますか?」
厳しい言葉だった。電車の子であったとしても、二度と会えない。それだけは避けたい。会って話がしたい。もっとお互いを知り合いたい。きっとそんな欲求に駆られる。
恭子は立ち尽くしたまま苦悶した。そこで、はたと脳裏をよぎる。電車で会った子? 確認する方法なんてあるじゃないか、それも簡単に。
「あの、覚えてますか。数日前に満員電車で押しつぶされそうになっていたところをわたしが壁になったことを。あなたはその後、わたしを待って会釈をしてくれた。覚えてませんか!?」
単刀直入な質問だった。だが、占い師は表情はうかがえぬが、押し出そうとする言葉に迷いが見えた。
「……もうしわけありません。やはり『人違い』のようです」
恭子の目の前が真っ暗になる。それから、見開いた瞳は視界が滲む。ぽろぽろと泣きはらしていた。
「わたしは電車には乗りませんし――」
そこで言葉を切り恭子が泣いていることに占い師は気付いた。
「だ、大丈夫ですか。人違いであったことは申し訳ありません……まさかそこまで熱望しているとはわたしも思いもよりませんで」
「いえ。いいんです。二度目ですから。それにどちらにしてもあなたとは二度と会えない、もしくは顔を見せ合えあられない関係になっていたでしょうし」
恭子は手で涙を拭いながら答える。
「そう考えれば、あなたが運命の人じゃなくてよかったと思えます」
恭子は強く、たくましく、毅然と結果に決別を下した。その姿に同調し、占い師もまた毅然とした態度で示した。
「そう言って下されば幸いです。そして信じてください。あなたはいつか捜し求めている女性と出会えると」
「はい。ありがとうございました」
「料金は結構です。わたしもまだ未熟であることを教えられました。この占いは商いではなく、友人としての一局とそう願いたいです」
占い師はそっと手を差し伸べ、握手を求める所作を行う。恭子は静かにそっと、占い師の手を握り別れの挨拶とした。左手に飾られたロザリオともまた。
もう何日目になるだろう、ここへ来るのも。日も暮れ始めた時間に、恭子はライトで照らされた、屋根にある十字架を見上げる。
そっといつもの木製扉に手をかけ中へと入る。奥にある椅子へと視線を向けるといつもの老シスターがいない。捜そうときょろきょろすると、ここですよ、と言わんばかりに懺悔室の前に立っていた。いつ頃から立っていたのだろう。わたしが来る時間に合わせてか、それとも今偶然立っていたのか。
恭子は会釈をし、懺悔室へと身をくぐらせた。
事の発端と結末を恭子はつぶさに語った。
「そうでしたか。その占い師さんも人違いで……あなたを前にこんなことを言うのは失礼かもしれませんが、まことに残念です」
「いえ。失礼なことなんてありませんよ。あなたと占い師さんには色んなことを教わりましたから。信じることは救われる。信じるばかりでは救われず、それを心の支えに努力することを。そして運命なんてものは存在せず、人は二択を迫られた時、あえて困難な方へと向かうべきである事を。求めすぎず、待つことに大事さを」
恭子はどこか楽観し、背もたれの無い椅子に寄りかかろうとしてバランスを崩す。どこか寄りかかるものは無いかと、壁際に椅子を置いて壁へと寄りかかった。
「わたしも、あなたには色々教わりました。自分の未熟さもそうですが、人の道を説く事がいかに困難で、軽率が許されない事を。
あ、あ。決して今まで軽率にお相手していたわけではありませんよ!」
珍しく言葉を強めてシスターは言いよどみ慌てて軽率と言う言葉を否定した。
クスクスと恭子は壁に寄りかかりながら笑う。こうして仕切り板などなくても表情が読み取れる。いつしかそんな関係になっていた。
「もう焦って事を求めないし、偶然にも頼らない。ただ信じていつもの生を謳歌しながら天命を待つことにするわ」
そうあっけらかんと恭子はやれやれといった所作を踏まえて、シスターへと打ち明けた。
すると、仕切り板の向こう側からクスクスと珍しく、いや初めての笑い声が聞こえた。
「そうですね。わたしも他の方の悩みを聞くときはそうします。どっしり構えて客観的な定型句ではなく自分の言葉で話をします。それは時に突き放した答えのように思われるかもしれませんが、そうではなくきちんとした理由があることを心から伝える努力をします。あはは、立場が逆ですねこれでは」
「ふふ。そうね本当に未熟なシスターさんね」
そう言い、いつもの通り四角く切り取られた穴から手をお互いに握り、今日だけは手の甲にキスをして恭子は別れの挨拶とした。
次の日。恭子はまたいつもより早くに起床した。
今日は朝食の準備をする気にもなれず、またもや冷蔵庫からチーズを一切れ取り出しそれをかじり、湯気立つ珈琲を胃に注いだ。
パジャマ姿のままベランダへ出ると、登校中の中学生がまぶしく見えた。比喩でもあり、写実でもある。自分もああだったのかと思うと、今の年齢からこの先の年齢になると、という想像力に対する恐怖の免罪符を欲しくなった。
パジャマを脱ぎ、下着姿を鏡に映す。
(少し、痩せたかな……冬はいつもなら太るのに)
スーツ姿に着替えるとワイシャツの胸がいつもより苦しく感じた。女性の日が近づいている証拠であった。
今日はあの驚くべき出会いの日から前と同じ女性専用車両に乗るべく家を出た。
ホームに着き、到着した車両に乗り込む。
(もう不毛な努力に頼るのはやめだ。そして偶然に頼るのも)
そう思い。懐かしき女性専用車両での空気を楽しむ。朝の目覚しい姿であろう女性たちが華々しい。同性に負けじと鎧で身を包んだ姿が可愛く見える。そしてまた、そんな年になってしまったのかと自己嫌悪に陥る。
一方は片隅、車内でメイクをしている女性もいる。その姿は不遇なれど、完成させれば美となる。それでよい、それで。でもなるべくなら不遇の姿を見せないで欲しかった。そう恭子は揺れる車内から外の景色を眺めつつ思いを馳せた。
オフィスについてからスタッフ一同に朝の挨拶をする。男性スタッフの居ない職場。なんて恵まれているんだろう。当たり前の幸福を忘れかけていた。企画も通り、仕事にも恵まれている。恋に生きることだけに必死になっていたここ数日を思い返すと、恥ずかしさと共に懐かしさがこみ上げてくる。
これからは自然体で生きよう。占い師さん、今頃どうしてるかな。求めずとも出会える。そんな事を言ってたな。でも占いには頼らない。勿論、心の支えにはさせてもらうけど。
恭子はいつもと違っていた。恋を追いかける数日とも、それ以前の同性愛に苦しむそれとも。
企画を進めていると、お昼のチャイムが鳴った。仕事に没頭しているといつもこれだ、と恭子は嘆息を吐く。
外へ食べに行くのも面倒くさい。社内食堂で済ませるのも味気ない。そんな思考を巡らせている内にもうお昼休み十分前。
(はあ。悩みに没頭していても時間はあっという間なのね)
恭子は仕方なくオフィスのフロア外にある自販機にコインを投入し、ブラック珈琲のボタンを押す。それを持って同フロアにある喫煙室へと向かう。
(何ヶ月ぶりだろう、煙草を口にするのも)
それくらいに久しぶりの煙草は少し湿気ていた。
こうしてお昼休みは紫煙と珈琲で腹を満たし、いや、実質珈琲だけになるのだが、午後の作業へと移った。
そして終業のチャイムが早くも鳴る。だが、今日のノルマは残っている。今日できることは今日やろう。家に帰って作業できるとも限らないし。こうして数時間の残業をこなし、日課の教会へと足を向けた。
かなりの夜分だが、十字架はライトで照らされていた。
(もうさすがに開いてないかな)
と、恭子は思うが木製扉は簡単にその門扉を開いた。そして今日もまた老シスターは懺悔室の前に立っていたのだった。
やはり恭子が来る事を前提として待っていたのだ。その事に感動しつつも、それならば、と随分待たせてしまった事に懸念する。
会釈し、懺悔室を今日は自らの手でノックする。
コンコン。という小気味のよい音の後に、どうぞ、という声が聞こえた。
(そ、そっか。声が外からでも聞こえるってことは防音じゃないんだ)
その事実に恭子は傍らに立っている老婆に羞恥を覚えた。
そしてやや紅潮しつつある顔を押さえながら懺悔室へと入った。
「待たせてごめんね」
「いえ、今日も来てくれると信じて増したから苦になりませんでした」
そんな挨拶で今日の逢瀬は始まった。いつもと空気が違うのはお互いが感じていた。
「今日はね、何も無かった。でも、何も無かったがあったの」
いつしか恭子はシスターに長年を共にした友人のように気さくに声をかけていた。
「いいですね。何も無いが『ある』日常。素晴らしいです。ここへ来たばかりのあなたでは気付きもしなかったでしょうね、ふふ」
シスターもまた茶目っ気を出し、友人のように笑った。
「だから、今日は悩み事も無いのよ。懺悔する事も」
やれやれと言った仕草で用もないのに来ている自分をおかしく思う。もはや日課と化していたのだろう。
「そうなのですか。それはいいことですよ。ですが、わたしには一つ懺悔する事ができました」
思いもよらぬ発言だった。懺悔される側から懺悔することがあるなんて。勿論、相手も人間だから一つや二つあるだろう。だから恭子はこう言いのけた。
「わたしでよければ聞くわよ。今日の私は調子がいいの」
「そう、ですか。なら……聞いてください」
「ええ、どうぞ」
「わたしはあなたに、いつもここにいると最初に出会った日に言いました。だけど、う、ひっく……その約束を、う……」
嗚咽が仕切り板の奥から聞こえた。何があったのか。恭子はいても立ってもいられず、仕切り板の穴から手を出しシスターの手を模索した。
「ちょっと、何を泣いてるのよ。何があったのか言って。ほら、手を握っててあげるから」
「あ、はい……」
相槌が聞こえた瞬間、恭子の手には目には見えないぬくもりが手の甲に伝わってきた。それから手をくるりと回して手の平を見せ、手の平同士がくっつく形になる。お互い、ぎゅっと握り合った。
「実はわたし、今日でこの教会を去ることになったんです」
一瞬、恭子は理解できなかった。脳が直感で事実を拒絶したのであろう。
「いつもここに座って、悩める人の、あなたとの言葉を交わして、またそしてわたしも癒されて。幸せな数日間でした」
「そう、か。残念……日華が無くなっちゃったわ」
せめて明るく振舞おうとざっくばらんに言葉を放つ。
「最後に、あなたとお会いできてよかった」
「最後にはさせないわ。運命の人として、わたしはあなたを捜すかもしれないわよ?」
勤めて明るく返答する。
「ならば。ならば、最後にお顔をお見せさせてください……最後にならないように」
「いいの? 規律は? わたしは構わないけど。むしろお願いしたいくらいだわ」
「もうここを去る身です。神父さまにもシスター長にもお許しを戴きました」
シスター長、あの老婆の事であろう。
「じゃあ、外に出るわね。手を、離すわよ」
「……はい」
恭子はするりと話したての温もりを頬で感じて、すぐさま椅子から立ち木箱の外へ出る。すると、左腕にロザリオを巻いた見目麗しい女性が立っていた。沈丁花のような香りを感じさせる佇まいに、整った眉ときらきらと光るつぶさな瞳。鋭すぎない鼻筋はなだらかで、肌の決め細やかさは天稟のものであった。それは日本人特有の美を体現していた。
「あなたが、そうだったのね。こんな美人と話してたとは思わなかったわ。そして、最後の最後で空振りだった。運命の女性ではなかったわ」
「はい。こうしてあなたの顔を見ると、その女性に嫉妬してしまいます」
だっと駆け寄り、二人は抱擁した。
「いいのかな? カトリックって同性愛は禁止じゃなかったっけ」
胸に抱いたシスターからは、何も香りのするものはつけていないだろうに甘いミルクの香りが恭子の鼻腔をくすぐった。その恥ずかしさからか、無粋な言葉をこぼす。
「友愛での抱擁なら歓迎です」
二人は長く、長く、抱擁だけをした。恭子は禁忌に触れないように。営みではなく穢れにならぬように大事にした。
「これで、街ですれ違ってもお互い判るわね」
「はい。はい!」
長い抱擁が終わりを告げた。
「それじゃ、さよならだね。連絡先を聞くなんてことはしないよ」
「ええ。待ってますから。いつかまた会えるその日を」
恭子がシスターから離れ、踵を返そうとした瞬間、柔らかくぬれた唇が恭子の唇と重なった。
「さようなら、愛しい人。ふふ、これでシスター失格ですね」
「今のはノーカウントよ。わたしの記憶に無いわ」
「ふふ、いじわるな人」
それじゃ、と言葉も無くブーツの踵を返し、コートを翻して木製扉のドアを開け、雪が降り始めた夜に恭子は躍り出た。
次の日。恭子は玄関のチャイムの音で目を覚ました。
「誰よこんな朝から……」
インターフォンに出ると、「初めまして、わたくし今日から隣に引っ越してきた橘明日香と申します。引越しのご挨拶をしたく参りました」そんな挨拶が返ってきた。
(引越しの挨拶か、これから隣同士になるのだ、インターフォン越しと言うわけにも行くまい)
そう思い立ち、軽くパジャマから部屋着へと着替え玄関へ出る。
「おはようございます! わたし、橘明日香と――あ、あなたは!」
恭子は出鼻をくじかれた。髪は長いストレート。染めてもいない漆黒の流体に白い光が反射している。
容姿はいかにもな女の子らしさ、優しさ、温かさそれを含んだ鮮明な美しさが人に親近感を与える力を持っている。そして――。
そして、左腕にはロザリオがチリンと巻かれていた。
ストンと、憑き物が落ちた気がした。
『誰が百合ぞ』
久しぶりの百合作品です。社会人百合なのか、年の差百合なのか、ヒロインが捜し求めている
女性のプロフィールは一切の謎にしました。ただ、ロザリオという共通点だけで印象付けたかった
所があります。読んでくださった方、ありがとうございます。