7話:みんなの身の上話2
少し、落ち着いて、岩津が自分の話を始めた。私が11歳の寒い1月末、
父が仕事を休んで寝ていたとき、突然、血を吐いて白い敷布カバーが真っ赤
になり畳に倒れた。すぐに母が救急車を呼んだが、その年は大雪でなかなか
、こんな山奥まで来られず、結局1時間半後、やっと到着した時、父はむしの息
、担架で運ばれ、母と一緒に救急車に乗ると何か変な嫌な臭いがした。
その後2時間程して大きな病院に到着するとストレッチャーに乗せられ
、大慌てで出て来た白衣を着た若い女と男の集団に父は連れて行かれ廊下の
椅子で母と長い間、待たされて、若い白衣を着た男が生き返りましたよと
、笑顔で誇らしげに言った。
病室に案内されると父の目が開いてるのを見て母が号泣した。私は、
内情がよくわからなかったが生き返ってほっとして、ため息をついた。
その晩は病院近くのホテルに泊まって翌日、担当の先生から胃ガンの末期で
、はっきり申し上げ手術も出来ず、いつまでもつかもわからないほど重症です
と言い、なんで、もっと早く医者に診せなかったのかと怒るように母に言った。
母は申し訳ありませんと謝っていた。母が、どの位、持つでしょうと涙目で
先生に聞くと残念ですが1ケ月、1~2週間と言いかけズバリ言いましょう
、いつ亡くってもおかしくない。今回、蘇生したのが奇跡的だったと思って
いますと正直に言った。
それを聞いた母は号泣し取り乱して錯乱状態になり看護婦さんに抱えられ
、外来を出された。そして別の部屋で中年の看護婦に気持ちは良くわかります
、しかし世の中どうしようもない事もあるので、しっかり気持ちを持って
小さな子供さんのためにも生きて行きましょうねと優しく諭すように何回も
背中をさするようにして言ってくれた。
やがて気を取り直して、母が、ありがとうございますと言い部屋を出て
公衆電話から電話をして1時間以上待っていると病院に近所の絹田さんが車で
迎えに来てくれた。そして家に帰り父が倒れた部屋の畳を雑巾でふいて血に
染まったシーツや布団カバーを丸めてビニール袋に入れた。
その後、数日後、病院に近くの絹田さんの車で行き、亡くなった父を見たが
、悲しいけれど倒れた時のように涙が出ることはなかった。何か、儀式でも
している様に淡々と、おじさんが葬式の準備のために電話して母は病院の会計
で、お金を払った。
1時間しただろうか、絹田さんが葬式の日程を話して母が、お礼を言った。
その後、家に帰り、数日後、数人の参加で葬式を終えて絹田さんと奥さんと
母が3人で話しをしていた。その後、私に外に働きに行って、お金を仕送りする
から心配しないで家で隣の絹田さんの言うことを聞いて小学校に行くのよと
言われハイと答えた。翌日、絹田さんの車に乗り長い距離を走って厚木駅で
母と別れた。
そして1年後、絹田さんが来て、お母さんが行方不明になったと言い
、残念だが1人で生きていくしかないと言われた。そうして、数年が経ち、
その絹田夫妻は足が不自由になり、おかしな言動が多くなり息子さんが
自分達の住む、都会へ連れて行った。