「9」
-覚醒-
狼鬼は、山高氏の肩を蹴り(しかし山高氏は相変わらず重さを感じていない様だった。)一瞬のウチにお悦の前に立ちはだかり、行く手を遮った。
お悦は四つん這いの格好になって、甲高く気味の悪い叫声を上げる。
その腹の底からゾッとする声を打ち消す様に狼鬼がうォう!と力強く一喝し、右の前足で彼女を押さえ込もうとする…が、お悦も素早かった。
地面に倒れこみその攻撃をかわし、すぐ様飛び起きて一度身を縮めると、間髪いれずに地面蹴り上げ牙を剥き、自分よりも一回りも大きな狼鬼に向かって攻撃を仕掛けたのである。
…丸で恐れと言う物を知らない獣の如しであった。
しかし、お悦は狼鬼に飛び掛るのではなく、寸での所で左へ身を翻す。
「見せ掛けだ、狼鬼!!」
山高氏の檄が飛ぶ。
その声に反応した狼鬼の左の前足が素早く動いた。
狼鬼のその巨大な手は、物凄い速さで狼鬼のその体の脇をすり抜けようとしたお悦の体をいともたやすく捕らまえた。
お悦はその手の中で、ギャァ、ギャァと獣の様な叫び声をあげながら体を左右に動かして藻掻いて、その戒めから逃れようとする…が、その手の力はあまりにも強く、どうやっても抜けられない。
「お…お悦は一体どうなってしまったんですか!?」
私は山高氏に問う。
山高氏は「うむ」と一度低くうなり声を上げて言った。
「…完全にあたしの失態だよ、一之助。九條の悪たれジジイがお悦の中に仕込んでいった“フイシモンの種”に全く気が付かなんだ…。」
「“フイシモン”…とはなんです?」
耳馴れぬ言葉に私は更に問う。
その間にもお悦は奇妙な叫び声をあげて狼鬼の手の中で暴れ続けていた。
「フイシモンとは、自らの死に際して、道連れを作る悪霊の事だよ。元々九條は悪霊になり易い類の人間を見極める能力に長けているんだ。もしそういった事を見極める能力があるのであれば、事前にその人に
知らせて危険を回避させようと考えるのが大抵の者のする事なのだろうが…九條はソレを酷く忌み嫌っている。それどころか人の不幸を増大させ…あのお悦の様に利用するだけ利用する……すなわち恐らく先の牛鬼の様な…魍魎の餌にして、自らの呪術の力を付けて来たのだろうな…。
ま、奴のそもそもの稼業は“下法使い”だから仕方ないのだろうが。
ああ、魍魎と言うのは山や川の精気が凝り固まり形になった自然霊の事だ。普通は山道に迷う人を脅かす程度で大して害はナイのだがね…。先の牛鬼の様に九條の様な邪な奴に利用され、人を襲ったりする事もある。しかし…コレだけ完全なフイシモン…いや、九條の作り出した変質形のフイシモンか…こんなのに成っちまうと…情けないが私も元に戻す事は不可能だ。可哀想だが狼鬼の糧にするしか…」
山高氏は、相も変わらず叫び、藻掻くお悦に目をやると、酷く悔しそうに顔をしかめた。
「それでは…」
お英が私と山高氏とを交互にみつめて言った。
「お悦さんの理性を取り戻す事は…もう出来ないのですか!?」
山高氏少しうつむき、言った。
「…可能性はナイわけではない…九條の隠した“フイシモンの種”を彼女の魂魄からみつけだせばいい。ようするに彼女に取り憑いてる別のフイシモンをひっぺがしゃいいんだ。
ただ、問題が二つある。まずヒトツは、彼女が完全に元に戻る保障は何処にもナイって事だ。
結局彼女が邪な心を持っていた事実には変わりはないし、そもそもソレが原因で彼女は九條に利用されたんだからね。…まぁあたしのオススメとしてはさっきも言ったようにあたしの狼鬼に喰わせちまえば手っ取り早いのは手っ取り早いよ…。そしてもうヒトツってのぁね、正直に言うが、実はこのあたしにゃお悦の何処にその“種”が隠されてるのか皆目検討がつかない。…と言うよりは視えないんだ」
私は心底驚いた。
コレだけの所業をこなす事の出来る山高氏が、見つけられないとは。
「一体何故です?」
思わず口をついて質問が飛び出した。
山高氏は困り顔でフフッと笑いながら答える。
「簡単さ。一之助。あたしゃ…最初にもいった通り“妖”なんだよう。いわばあの状態んなっちまったお悦は、あたし達の側の住人。人間同士の体の中身や心情がほとんど読めないのと一緒である程度の能力なんぞは相対する事で多少の理解はできてもネ、その種類の能力に長けてるモンや、余程波長の種類の合うモノ同士でないと“妖”には“妖”の中味までぁ解らないんだよ。特に…今のお悦の様に自我がなくなりかけてしまうと…どうにも…」
そこまで山高氏の言葉を聴いた所で自分の左の目に映った「何か」に対してフ、とヒトツの疑問に囚われた。
アレは何だ?
暴れ、叫んだ為にお悦の幽体は本の少しだけ狼鬼の手からずり落ちた。
その時彼女の下腹部の辺りに鈍く赤黒く光る靄…
「どうした、一之助?」
私の様子が妙な事に気が付いたのか、山高氏が声をかけてきた。
「山高さん」何故か心臓が跳ねている。「見えたら…その種がみえれば
お悦を…お悦は…その…あんな化け物みたいなのからッ…人の霊に戻れる
のですか…!?」私はぼんやりとしたまま、
そう呟くと何故か山高氏の手を強く握った。
その瞬間。
山高氏はその美しい琥珀色の瞳を見開いた。
私は山高氏から手を離すと、赤く靄がかかったお悦の下腹部を指差して、言った。
「あそこです。山高さん。あそこに…靄の様のモノが見えるのです…そら…アレです……アレではナイでしょうか?」
「まさか…」
彼はそこで一度言葉を途切ってかぶりを振ると、
「一之助…お前、まさかみえるのかね?」
と小さく…少し掠れた声で私にそう問いかけた。
「ええ、みえます、みえます。なんだか禍々しい赤い色をしています。
きっとアレがそうに違いナイ」
私がハッキリそう答えると、山高氏は体の奥の方から漏れ出すような呻き声とも深い溜め息とも付かぬ「あぁ…ッ」と言う一言を洩らした。
が、すぐさま口元を左手で覆い、その声を押さえ込んだ。
私はその行為の意味がその時は全く解らなかった。それよりもあのお悦の苦しむ姿をこれ以上みていたくナイと言う気持ちの方が強かった。私は尋ね直した。
「できましょうか?お悦を、元に戻せましょうか?」
山高氏は手をそっと口元から外すと、なんとも言えない悲しそうな顔で小さく頷いた。
「ああ、出来るとも一之助」
私とお英は顔を見合わせてにわかに微笑んだ…が、次の山高氏の一言でその喜びが全て驚きへと変化してしまった。
「オマエなら出来るよ」
私もお英も何の事かさっぱり解らず無言のまま山高氏を見上げた。
「…一之助いいかい、ようくお聴き。今からあたしが言った通りに動いておくれ」
其の時、音もなく巨大な狼鬼が私達の傍らに立った。お悦の叫び声だけが闇に反響する。
「あまり時間がないから手短に言うよ。サァ、オマエが言うその不気味な靄は何処にあるンだね?もう一度、あたしにも解るように指し示しておくれ」
私は頷くと、その場所を…お悦の下腹部を指差した。
その時である。山高氏が私の挙げたその手の甲にそっと自らの手の平を重ねてきた。
手袋をしているけれど、その手は丸で肉親の様に温かく柔らかく私の中の恐怖が一気に消し飛んだ。
すると、彼は私の心の中を読んだかの様に力強く、けれど穏やかに言った。
「そう、恐れる事はナイのだ、一之助。さぁ、そのまま私を導いておくれ…」
お悦の叫び声と、暴れ方が一層激しくなった。
…でも今の私には全くどうでもイイ事だった。
私の役目は・山高さんを・導く事
やがて山高氏の手を乗せた私の手は、
お悦の赤い靄を産み出す下腹部の一点へ辿り着いた。
一瞬指先にぞっとする様な空気がざわついて、私の肌を凍らせたが、それもあっと言う間に消えた。
山高氏に目をやると、彼はめくばせし言った。
「集中して。そのまま手を伸ばして…オマエが見える“何か”を掴んでご覧…」
私は視線をその赤い靄に戻す。
と、その時、小さな…とても小さな楕円が見えた。
もう一度よく目を凝らしてみると、人の…赤ん坊がうずくまった様な形をしていた。
私はその小さな小さな赤ん坊をそっと摘みあげた。
山高氏はその赤ん坊を見つめて、そっと私の手から受け取りながら言った。
「外道め…!人の命を使うとは何たる残虐非道…!!命を生かす技ではなく
犠牲にしてしまうとは…そんなモノ、何も生み出しはしないと言うのに…!」
私は驚いて尋ねた。
「もう見えるのですか…触る事も?」
「嗚呼、オマエの目を通して波長と焦点を合わせたとでも言えば解りやすいかね…。もう見えもするし触れる様にもなったよ」
私は成る程、と感心して頷いていると、お英が私の傍らに寄り添ってそっと呟いた。
「旦那様…遠くから、何かが…聞こえる…ッ」
その時、ひょぉおおッ、と鋭い風の音と共に甲高い馬の嘶きと、硬い蹄の音と、腹の底からぞっとする様な楽しそうな笑い声が私の耳にも、遙か彼方から高らかに響いて来た。
音のする方向に目をやると、いつの間にか漆黒の闇色のマントを羽織ったピカピカと輝く巨大な鎌を持つ骸骨の顔をした男が、骸骨の馬に跨りごうごうと風が逆巻くに似た音を立てながら、空中に浮かんでいた。お悦は半分正気を失ったようなぼんやりとした表情で、その笑い声の方へ顔を上げたが骸骨の馬が空気を蹴って、ヒヒィインと嘶くのを目にした途端、キャァアアアと絶叫した。
その目にはありありと恐怖の色が浮かんでいた。
どうやら正気に戻ったようであった。
「ようやくお迎えが来たようだね。お悦、お前は死んじまって依り代とする肉体はもうないのだよ。故、しかるべき場所へ行かなけりゃぁならん」
一本目の煙草を吸い終えた山高氏は胸元から煙草の箱を取り出すと、火をつけ、フ-ッと心地よさそうに煙を吐いた。その煙の方向へ向かって狼鬼は、お悦を捕えている方の手を掲げた。お悦は藻掻き続けている。
「イヤダ、あたしは…!もっと生きたい…生きたいんだ…!!」
「お悦、良く解るよ。でもねぇ…恨みでこの世にしがみついたらイケナイ。新しい幸福を作る事は二度と叶わなくなってしまうよ。もう一度生まれ変わって新しい生をやり直すのだ」
「もう一度なんぞあるワケないじゃぁナイかッ!!」
お悦は涙を流しながら叫んだ。
「失敗したら、その失敗を帳消しにしてやり直せるなんてあるワケない!!」
「そうだな」山高氏は相槌を打った。「だから死んでしまったオマエが生き返る事も不可能だって事さ」
お悦はソレを聞いてハッとして、藻掻くのをピタリと止めてうなだれた。
見開いた目からは涙が絶え間なく零れ落ちている。
山高氏はそっと語りかけた。
「お悦。オマエにはまだ輪廻の輪で生命を繋げる事が出来る可能性があるんだ。可能性がなけれな私はオマエにこうやって論じることはしないだろうよ。それにお悦…ホラ、逝くのはオマエ一人じゃないよ」
山高氏は手の平を広げると、そっとお悦の前に差し出した。
「この子が一緒じゃナイか。オマエの身をずっと案じていたこの子が」
そこには先刻まで赤い靄を放っていたフイシモンの種と言われた、例の小さな赤ん坊がいた。
「お前達二人は九條に騙され、命を落してしまったけれども、互いに想い合う者がこうしているのだから、あながち本当に不幸ではなかったのかも知れないよ?」
小さな子供は少しずつ膨らんで、完全に子供の形を成した。
その姿をみて、私もお英も驚きの声を上げずにはいられなかった。
「みつ…!?」
お英がお悦を見舞った日から行方知れずになった若い小間使いの娘の姿がそこにはあった。
「何故みつが…!?」
「この子は、10年前にお前が人知れず産んで養子に出した子だね。…そうだね、お悦」
「なんですって!?」
私とお英はその事実に驚愕した。そんな偶然が、そんな因縁があるなんて…!山高氏は静かに語りだした。
「この子を手にした時、私には全て解ったよ。この子はね、お悦…お前と別れて、養子に貰われた家に実子が出来てから、酷い待遇にされちまったんだ。それ以来…横瀬の家に奉公に出されるまでは、ずうっと肩身の狭い想いに耐え忍んできたのだよ。それを九條が知ってお前を利用する為に…わざわざこの子を見つけてお前の存在を知らせ、二人一緒に幸福になれると嘯いたのさ。
みつは…この子は母親であるお前を救いたい一身で…輪違いの術が行われ、お英とお前が入れ替わった後…九條に言われた通り、お悦の死体を九條と共にホレ…そこの辻に」と山高氏は斜め向こうの四辻を指差した。
「埋めたんだとよ。が、その後、無残にも彼奴の手に掛かって殺されて、
お前さんと一緒に埋められたんだ。未練も怨念もたっぷり身篭ったみつの魂は、
その後まんまと九條の手によってフイシモンの種なんぞにされてしまったんだ。」
お悦はわなわなと震えながらみつの方に目を向けた。みつはただぼんやりと…けれど哀しそうな目で、お悦を見つめている。
「嘘…」お悦は搾り出すような声で呟いた。
「まさか…そんな事あるはずナイ…」
「嘘じゃない。」山高氏は言った。
「お前には…もう解っていた筈だ、お悦…」
その時、みつが消え入りそうな声で一言呟きながらその顔を上げた。
「かあさま…」
みつの涙が頬を伝って行くのを目にして…お悦は絶叫した。
「嘘だぁああ!確かに名前は同じだけれど…あの子は…みつは…ッ、あの家で大事にされている筈…」
「成宮…」
それを聴いてお悦は叫ぶのをピタリと止め、みつの方をシッカリとみつめた。
「なるみや…だって!?」
お悦の顔が困惑に歪む。
みつはお悦の視線を受け止めたまま言葉を続けた。
「かあさま…私が3つになった時、成宮の家に若様が生まれたの…それから私への待遇は本当に変わってしまいました。もうお前は要らないと…突然下働きの扱いにされて…とうとう七つになった日に、家を追い出されてしまったのです」
彼女は涙をこらえきれず、しゃくりあげながら訴えた。
「横瀬の旦那様に拾ってもらえなかったら、あたしは乞食に成り下がっていたか、もっと早く死んでいたでしょうよ…こんなあたしに読み書きまで教えてくだすって。お二人には…とてもやさしくしてもらったのに…本当にごめんなさい。でも…でも私、本当のかあさまがいると知った時…もうたまらなくなって。
九條さんが、上手く働いたらかあさまと暮らせるようにしてやるって言って来て…!あたし…あたし…」みつは手を力いっぱい、お悦に向かって伸ばした。
「どうしてもかあさまと暮らしたかった…!」
お悦は、その白く、か細い手に引き寄せられる様に、自分の手を伸ばし彼女の手を握った。
「みつ…」
「かあさま…」
二人は強く抱しめ合う。
と、その体が真ん中から白く発光し始めた。そうして…お悦は、狼鬼の手の中からスルリと抜け出し、…みつは、山高氏の手の上からユラリと飛び立った。
すると、いつしか二つの霊魂は人の形から滑らかに尾を引く発光体となり、
しゅるしゅると上空へ舞い上がっていく。…その先には巨大な騎馬の“お迎え”が控えていた。
“お迎え”の愛馬が、また空を蹴って硬い蹄の音を鳴らし、高らかに嘶いた。
“お迎え”は手綱を取り、楽しそうな笑い声を上げると、一気に駆け出した。
その後を幾つかの青白い発光体が追い駆けていく。そこへかつてはお悦とみつであった
光も加わり、そっと寄り添うようにして流れていった。
そしていつしかその姿は、本当の闇に静かに溶けるかのように、やがてみえなくなった。
「10」に続きます。