雨降って地固まる―12
◆ ◆ ◆ ◆
「ふむ。妾の可愛い僕達の行手を阻むとは。せっかく妾の御幸の先触れとして寄越してやったというに。やはり死人や醜女達ではなく、そなたらの方が良かったかの」
妾の言うことをよく聞く犬達を撫でてやると、甘えたな鳴き声をあげ、仰向けで腹を見せてくる。うむうむ、愛いやつじゃ。ほれ、もっと近う寄れ。
ちいとばかり偏食癖のおかげで与える餌には困らされるが、なぁに些末なことよ。人の死肉なぞ、現世に行けばいくらでも手に入るでな。
……ん? おぉ! そうじゃったそうじゃった。
餌で思い出したが、客人がおったのぉ。最近はここまで人が来ることなど滅多にないゆえ、すっかり忘れておったわ。
「これ、そこをおどき」
客人の様子を見に行かねば。背の君だけでなく、妾も約束を反故にすると思われては業腹ものじゃ。幸い、あの場所から動いてはおらぬようだし、散歩には丁度よい。
「……おやまぁ、まだ泣いておったか」
覗き込めば現世のいかなる場も映し出す泉の畔で、若い娘が一人、蹲ったまま声も出さずに涙を流しておる。
「そなたは一体、いつまでそうやって泣き暮らすつもりかえ?」
「……」
「おかしいのう。顔は生きていた頃と同じうしたはず。話せぬはずもない」
ここに来たばかりの時は顔が不揃いであったが、妾が傍近くにある者にそのようなこと、到底許容できるはずもない。ちゃぁんと直してやっただろうに。
「……て」
「ん?」
「帰して、ください。お願いです。どうか……どうかっ!」
消え入りそうな声は次第に大きく高く、しまいには辺りに響く程になり、横に立つ妾の服裾は皺になるほど掴まれてしもうた。
まったく。なぜ、誰も彼も妾に向かって「帰して」と宣うのだか。
妾がいつ、そなたらをここへ連れてきた?
そもそも、帰して欲しいのは妾も同じこと。この地のものを食せば帰れぬなど、知っていれば何があっても口になどするわけがなかろうて。
そう仕向けた張本人が今、どこでどうしている、と? ふんっ。妾をこんなところに留め置いたあげく、己はひょいひょいと現世に行き、妻を娶って娘にも恵まれ、まさしくこの世の春というべき生を謳歌しているらしい。
あぁ、まったく! 考える度に腸が煮えくりかえるわっ! なんと妬ましく忌々しいことか! そんなこと、あって良いはずがなかろうよ!
……いや、そう、そうじゃ。ふふっ。妾も帰してもらうのじゃった。
「安心おし。そなたもその泉で見たであろ? 自分の息子が生きて成長し、どんな姿になっているか。もうすぐ会えるでな」
「ちがっ!」
「妾も妾の子らに会うのが楽しみでならぬ」
「私は」
「共に現世に帰ろうぞ」
「違う! そうじゃな」
「あぁ……そう、そうだ。この声だ」
「……っ!」
娘の後ろにゆらりと影ができた。
その影の主は娘が逃げ出しそうになるのを見るや、すぐに背後から手を回し、囲い込んだ。そして、己の腕の中にいる者が愛しくて愛しくて仕方ないといった満面の笑みを浮かべ、娘の髪に顔を埋める。
一方、娘の方は顔を酷く青褪めさせ、囲いから抜け出そうと手足を激しく動かして必死の抵抗を見せている。が、それがまた囲う力を強くされる要因になっているとは、気づいておらなんだろうなぁ。
まぁ、それを教えてやる義理はない。
「じきに出立の刻限じゃ。遅参は許さぬ」
「……えぇ。承知しております」
「ならばよい」
これ以上ここに居続けるのは野暮というものだろう。
立ち去る妾の背へと必死に伸ばされる手は、すぐさま握りこまれ、その掌中へと連れ戻されていった。