雨降って地固まる―8
◆ ◆ ◆ ◆
日が暮れるのはあっという間で、皆の元へと戻る頃合いとなった。
日没間近の柔らかな夕陽に眠気を誘われ、手伝いに励んだ幼子は目をうつろにし、頭を前にガクリ、後ろにガクリと何度も傾かせている。その度にハッとして頭を左右にブルブルと振り、止まっていた足を進めるということを繰り返しているが、何かに躓いてしまうのも時間の問題だろう。
「……」
「雅さん」
立ち止まった小さな身体が、声をかけたこちら側に向けられる。
今にも閉じてしまいそうな目が、懸命に見開かれ、私の顔をじっと見上げてきた。その視線が櫻宮様、須崎家の若当主、最後にもう一度私へと戻ってくる。
それから、ほんの僅かな間だけ動きを止めたかと思えば、櫻宮様と繋いでいた手をそっと離し、私に向けて両腕をすっと広げてきた。
「……ん」
その一言が最後、彼女の目は完全に閉じられた。
ここに綾芽さんがいたら、迷うことなく彼に手を伸ばしただろう。
けれど、今、ここに彼はいない。
それを考えると、いないが故の消去法なのかもしれないが、こうして全身を預けるほどに頼られるというのは、たとえ何度あっても毎回悪い気はしないものだ。
「ちょうど日も落ちてきましたし、これももう必要ないですね」
さしていた日傘を閉じてから持ち手についている紐を腕に通し、ただ黙ってそのままの体勢で待っていた雅さんを抱き上げる。
雑草や処分する薬草の山は後で誰かにまとめて処理してもらえるよう置いてきたので、子供一人抱き上げるのには何ら問題ない。
「えっ?」
須崎家当主の青年――八雲が、驚きか戸惑いか判別のつかない声を漏らした。
「何か?」
「……いや、なんでもない」
「そうですか。……ほら、急ぎましょう」
――でないと、刺すような視線がずっと追いかけてきて痛いので。
そう言うと、二人とも不思議そうな顔をする。が、私には分かる。いや、分からないわけがない。
真横からの妬まし気な視線は、皆がいる場所まで戻り、駆け寄ってきた子瑛に雅さんを預けるまで続いた。もっとも、その視線は自然と立ち消えたわけでなく、それが向けられる相手が私から子瑛に変わったというだけ。
子瑛も見えないながらもやはり気配は感じるらしく、いつも以上に挙動不審な様子を見せていた。
「誰か、夏生さん達が今どちらにいらっしゃるか、ご存知ないですか?」
「ここだ。お疲れさん」
「あぁ、いえ。……あちらに何か変わりは?」
「……向こうで話そう」
「えぇ。子瑛、手が洗える場所まで二人をお連れして」
「はい」
二人と別れ、夏生さんの後ろについていく。
陛下や橘さんはもちろんのこと、綾芽さんや海斗さん達もすでに戻っていた。
「まずはこれを見てくれ」
「なんです?」
夏生さんが言葉少なに差し出してきたのは、すでに何かが表示されているスマホ画面だった。数人の男達が血溜まりの中で仰向けに倒れ伏している。見る限り、完全に絶命しているようだ。
目を引いたのはその凄惨なまでの有様だけではない。その顔にも覚えがあった。以前、皇彼方が櫻宮様を元の姿に戻した時、雅さんのすぐ傍で見つかった紙に名前が書かれていたのも、今はもう画面越しに物言わぬ屍となっている男達のものだ。
「……これはまた、大層な蜥蜴の尻尾切ですね」
「だと思うだろ? だが、事はそう簡単にはいかねぇんだと」
夏生さんの言葉には、やけに含みがある。いや、含みしかなかった。
「どういうことです?」
こういった現場をよく見慣れている海斗さんや綾芽さんの方を見ると、海斗さんが珍しく眉を潜めている。それだけで夏生さんの言葉の通りなのだと、彼らの答えを聞くまでもなくそう判断できた。
「この男達の死因、揃いも揃って心臓が木っ端微塵にされたことだとさ。あと、血も僅かな量しか残ってなかったらしい」
「……大量に血を失っているのなら遅かれ早かれ失血死していたでしょうが、心臓の破裂ではなく、粉砕となると」
「しかも、不思議なことがもう一つ。その血溜まりの血、混ざりあってよう分からんことなっとるみたいですけど、僅かに採取できたいくつかの血液サンプルのDNA、そいつらの誰とも一致しいひんかったらしいですわ」
「……つまり、なんらかの理由で心臓が粉砕されて血液も大部分が抜かれた身体の周りに、何者かによって他人、もしくは他の生き物の血液が撒かれた、と?」
海斗さんや綾芽さんの話をまとめると、不可解な事実ばかりが浮かび上がってくる。
そもそも、心臓が粉砕されるほどの衝撃があったはずなのに、画面上とはいえ、ここまで外傷がほとんど見られない遺体というものを他に見たことがない。それだけでも十分な疑問が湧くのに、誰が、なんのために別の血を? しかも、この量、この血が彼らのものでないとすれば、この血の持ち主の命も……。
「ある程度不自由のないくらいに整え、今は急ぎ、都に戻った方がいいだろう」
「作業の進捗を確認し、準備を急がせます」
「戻っても、お前達が満足に動けぬのならば意味がない。怪我のないよう、十分に注意するように」
「はい。承知しております」
ふと横を見ると、陛下と夏生さんの話を黙って聞いていた橘さんや菊市の表情が徐々に曇っていくのが分かった。
ようやっと長年待ち望んできた計画の終わりが見えてきて、物事が着々と進んでいる今、またしても横槍を入れられたようなこの状況。
そうなるのも当然のこと、無理からぬことだった。