花ぞ昔の香に匂ひける―10
◆ ◆ ◆ ◆
「……本当に、帰ってこられたんですね」
目の前に広がる幼い頃の記憶と重なる場所に、口から言葉が転がり落ちる。
人の手が入らなくなったその場所──かつての王宮は、柱や門の一部が傷んでいたり、雑草が地面に蔓延ってしまっている。たくさんの文官や武官、王宮に登城してきた貴族達で賑わっていた回廊も、当然ながら今は誰もいない。
しかしながら、国一番の絢爛な造りのその宮は、かつての主が戻ってきて自分を見出してくれるのを待ち続けるかのようにそこにあり続けた。夕焼けに映える宮殿の白さも今はくすんでしまっているが、それでもなお美しい。
「王太子殿下、いえ、我らが国王陛下。……お帰りなさいませ」
「「お帰りなさいませ」」
振り向くと、菊市を始めとし、案内役としてついてきてもらったこの国の者達も皆揃っていた。その皆が頭を垂れ、片膝をついている。
二十二年。あの悲劇からそれだけ経ってしまった。
その間、彼らがあの国でどんな扱いを受けていたか、決して知らないわけではない。自分は半ば人質として不自由の少ない生活を過ごしていたというのに。見る者が見れば、祖国を裏切り、あまつさえ攻め込んできた国についた廃太子だというのに。彼らは一度として自分に対しての恨み言を口にしない。それどころか、父王母后を亡くし、囚われの身となった王太子だと、憐れな身の上だと、心を痛めてくれている。
「貴方達は……」
ぎりっと唇を噛み、一番前にいた菊市に伸ばしかけた手を寸でのところで引っ込めた。
「……まだ全て終わったわけではない。色々とこれからです。皆の力を私に貸してください」
「もちろんです」
「一刻も早く全員が戻ってこられるよう、精一杯努めさせていただきます」
「ありがとう。さぁ、早くそれぞれ持ち場に戻りましょう。時間は限られている」
「「はい!」」
立ち上がって方々へばらけていく皆の背を見送った後、しばらく黙って宮殿を眺め続けた。
どれくらいの間そうしていたのか、夕陽は地平線の向こうに沈み、星明かりと菊市がいつの間にか用意していた提灯が辺りを照らしてくれていた。
「今、何を考えているか聞いても?」
「……私は、貴方達が求めているような王にはなれない」
「え?」
声が小さすぎて聞こえなかったのか、菊市はさらに距離を縮めてこようとする。けれど、その足は背後から彼を呼ぶ声に止められた。
「ちょっとこれでいいか見てほしかったんだが」
「今は……」
「私なら大丈夫です。提灯さえ貸してもらえれば」
けれど、一人残していくのは不安だと言わんばかりに菊市は眉を顰めていく。だから、神様も見てくれている今この時に危ないことなど何もないと言いくるめ、呼びに来た者について行かせた。
昔、王宮の一角には霊が出るという噂もあって肝を冷やしたが、今はもう怖くない。怖いのは、死んだ人間よりも生きている人間だと身をもって知っている。
なので、菊市達が去った後、脇の伸び切った草むらが音を立てたのに肩をびくりと震わせたのは、何かを恐れたのではなく単純に驚いてしまっただけだ。
「あぁ、すまない。驚かせてしまったか」
「……陛下。それに」
何も灯りを持たない陛下と、もう一人、その後ろについてきていたのは櫻宮だった。
皆がいる港からここまでは少し歩く。道中灯りらしい灯りはまだない。二人がどうやってここまで来られたのか不思議に思っていると、その問題をある意味適切とも言える手段で解決していた。
「雷焔殿が案内役にとこれを貸してくれたのだ」
「すごい。雷でできた蝶ですか?」
「私が歩き回るとあの神を刺激するからと、目眩し役も兼ねているそうだよ」
パチパチと音を立てて電流を放っているが、それ自体は酷く微弱なのだろう。つい伸ばしてしまった指に当たっても全く痛くない。それどころか、白銀に淡く光る蝶が陛下の周りをひらひらと舞う様は酷く優美でもある。
「この蝶はすごく優秀だ。おかげで迷うことなくお前の元に来られた」
「そう、ですか」
「……ご覧。ここがお前の母が嫁いでくる前に過ごした場所、彼女にとって大切な故郷の中心だ」
二人が揃って宮殿を見上げる。私もその視線の先を追いかけた。
どれくらい離れても平気なのか、蝶が僅かに自身の光を強め、私達の視線の先を舞う。まるで暗がりに目が慣れ、よく見えるようになるまでの灯り代わりを務めてくれているかのようだ。
「ここが、母様の……」
「……父上やあの老獪共が、この美しい宮を取り壊すなどという蛮行をしでかさずにいて、本当に良かった」
「それを止めてくださったのは、陛下、貴方でしょう?」
苦々しげに呟く陛下に、思わず苦笑が漏れる。
自分の功績をとんと忘れてしまったのか。幼いながらに、祖国をなくした私の身上だけでなく、拠り所も守ってくれた貴方なのに。
「兄様、それは本当なの?」
「……私も幼くて、あまり覚えていない」
陛下はふいっと顔をそらし、あらぬ方を見やる。出がけに一悶着あったせいで気まずい思いをするかとも思ったが、今の一幕は普通の兄弟のそれだった。
「……よいか? 今の話、綾芽にはしてはならぬ。絶対にだ」
「どうして?」
「王族は清濁併せ持ってこそのもの。その籍から離れたアレに、余計な物事の裏を知らさずともよい」
「……私にだって、普段はそういう扱いのくせに」
櫻宮が口を尖らせる。間違いではない。間違いではないのだが、素直に了承の言葉が聞きたかった陛下もこれには表情を曇らせた。
「……そんなに、王族として特別扱いを求めるのか?」
「もちろんよ! そう生まれたんだもの!」
「……そう、そうか」
陛下は顎を指で摘み、何事か物思いに耽り始めた。私と櫻宮は置いてきぼりをくらい、二人で目を見合わせる。すると、陛下が勢いよく顔をあげ、私の方へ視線を向けてきた。
「今もまだ、変わらぬままか?」
何が、とは、この場では口にしない。櫻宮がいるから。
ただ、口にされずとも分かるその問いの意味に、こくりと頷いて返した。しかし、その問いの真意までは掴めない。
「そうか」
少し悲しそうな、寂しげな表情を浮かべた陛下だったが、今度は櫻宮の方に向き直る。浮かべるのは一瞬で作り変えられた仄かな笑みだ。
「お前の願いは分かった」
「えっ? ……本当!?」
「善処しよう」
「……っ!」
喜色に溢れる櫻宮とは裏腹に、私の心中は疑心で満ちていく。
この短時間で、彼は何を考えた? 何を思って今まで遠ざけていた櫻宮の意を汲むような発言を?
考えても分からないことばかり。分からなさすぎて、考えて、考えて。
考えた結果。
──あぁ、陛下は彼を、私の。
おそらく正解だろう答えに行き着いた時、あの子の顔が浮かんだ。
『もし、そんなときがやってきたとして、たちばなさんはこうかいしない?』
あの時、南の屋敷の食堂で二人話をした時、そう言ってじっと見つめられるその瞳に、本当はたじろいでしまっていた。そうは見えないよう必死に取り繕いもした。
『えぇ、しません』
その答えに、今も昔もこれからも変わりはない。
けれど、今初めて……。
「……さーん!」
最初、あの子のことを考えていたから空耳かと思った。だが、その声は段々近く、大きくなってくる。
「たちばなさぁーん! たいへんたいへんたいへん!」
その声は空耳などではなかった。
あの子――雅さんが鴉天狗の青年に背負われ、空から地上に降り立つ。それからすぐに背からも降ろしてもらい、私のもとへと駆け寄ってきた。
「えっと、えーっとぉ!」
二人の前では話しにくいことなのか、雅さんは二人の方をちらちらと見ては口をつぐんでしまう。これでは一向に話が進まない。それを見かねた鴉天狗の彼が陛下と櫻宮を何かの術で宙に浮かせた。
「お二人さんは少しの間、空中散歩と洒落込もうぜ?」
「ちょっと! なに急に!」
「これはすごい! 一度経験してみたかったんだ!」
対照的な反応をする二人だが、空中散歩と称される辺り、安心安全なものを供されるのだと信じている。まぁ、鴉天狗の彼もついているのだから万に一つの心配もないだろう。
「あのねあのね!」
「どうしました? 貴方、確か彼と一緒に神様の元へ行っていたのでは?」
「いったよ! いったけど、かみさまがすけててぇー」
身体が透けるくらいなら、神も霊も、それくらい当たり前にやってのける。今にも泣いてしまいそうなほどぐずぐずに歪めた顔を見るに、話はそれだけではすまないはず。
しがみついてくる彼女の肩を優しく掴んだまましゃがみ込み、目線を合わせる。少し落ち着くよう言って聞かせ、先を促した。
「かみさまね、あともっていつかだって。はやければ、あとにさんにちでだいがわりしちゃうんだって。はやく、はやくしないと、かみさま、はなになっちゃうのぉーお!」
最後は何に対して憤っているのか、鼻をすんすんと鳴らしながら地団駄を踏み始めた。
早くしなければとは言っても、例の捜索隊が来るのは明日明後日になる。全てが終わるのはどんなに足早に見積もっても一週間後。到底間に合うものではない。
「……記憶などは受け継がれ、ただ身体が変わるだけだと聞きました。ならば、次の代になっても神様は神様ですよ」
「でも、そのかみさまもかみさまだけど、たちばなさんたちといっしょにつらいときをのりこえようとしてくれたかみさまじゃないよ?」
……まただ。また、あの瞳。内心を探られてしまうような、心の奥深いところまで見透かされてしまいそうな、そんな瞳だ。
そして、今回は同時に告げられた言葉にも、その通りだと、間違いないと、はっとさせられる。
「……夏生さん達や元老院の彼女らとも相談してみましょう」
「うん! いこう! はやくいこう!」
二人も早く降りてきて!という言葉で、ようやく地に足をつけた二人。話し声は上空までは聞こえなかったようで、何だったのかと目で問うてくる。
「なにしてるの!? はやく!」
意図してのものなのか、ただ単により近くにいただけなのか。
雅さんが手をとって走り出したのは、私と櫻宮の二人だった。