花ぞ昔の香に匂ひける―8
半ば強引だったとはいえ、せっかくのご招待。
けれど、私達にはやらなければいけないことが待っている。そして、そのためには色々と準備も必要で、そのための時間も限られている今。
恐る恐る丁寧に、かつ気分を害されない程度にはっきりと事情を伝えてみた。
「ふーん。大変そうだね」
「だから、はやくかえらなきゃいけなくて」
「……そっかぁ。じゃあ、餞別代わりにひとつだけ。あの国の神も過去に堕ちかけたことがあるから、扱いには十分気をつけて」
……おかしいなぁ。雑談と同レベルの軽い口調で、それに全然似つかわしくないことを言われた気がする。
……そっか、空耳! じゃあ、ないですね。残念です。
ここでそっと周りを……って、あぁ、やっぱり。皆の目も点だ、点。人間、本当に驚いた時は何も言えないってホントなんだよなぁ。
無神論者やその感覚に近い人達と違い、ここにいる皆は神様が実際に存在していることを知っている。知っている上で、その神様が堕ちかけたことがあるという、なかなかに良ろしくない情報を得てしまった。しかも、すでにあの島に足を踏み入れてしまったその後で。
当然、唯一その神様のことを詳しく知っていそうな橘さんの方に視線が集まっていく。けれど、橘さんも同じように驚きや戸惑いを隠せずにいた。
「そんな。……そんなまさか! そのような話は誰からも」
「んー? おっかしいなぁ。彼がいくらか前の交流会を欠席してた時、そんな噂を聞いちゃった気がしたんだけどなぁ」
「こうりゅうかい?」
「そ。元老院主催で、色んな国や世界に属する神々のためのね。いや、これが割と重要なものなんだよ? 特に今の時代はね。あれかな、自分の加護の影響下──縄張り意識っていうの? 僕達はさほどだけど、他は強いからねぇ。もうほんと、それぞれ我が強くて困る困る」
「ふ、ふぅーん」
「何かしら揉め事が起きた時、お互い顔見知りだったら多少は話し合う余地が生まれるかもしれないだろう? 間に入る元老院の打算的かつ希望的観測のもと不定期で開催されているんだよ」
そんな世界規模な神様交流があってるだなんて知らなかったけど、確かに、話し合いで解決できるのならそれが一番。神様同士の喧嘩なんて、被害は“甚大”なんて言葉じゃ足りないくらいだから。
ちなみに、「君も今度行ってみる?」と聞かれたけれど、丁重にお断りしておいた。日本の神様の集まりである神議りの場だって三食おやつしか胃に入らなくなってしまいそうなのに、異国の神様までとなると、確実に緊張やらなんやらでどうにかなってしまうに違いない。
「神と神の間を取り持たなきゃならんなんて、俺だったら絶対無理」
「それそれ。夏生さんポジですら堪忍してほしいくらいやわ」
「……」
夏生さぁーん。ここに懲りないやつが二人いまーす。
綾芽も海斗さんも、ここから出た後、夏生さんからの拳骨の一発二発は覚悟しときなね? 少彦名命様の手前我慢してるけど、夏生さんの拳がブッルブル震えてるんだから。いつもだったら、待ったなしのフルスイングでもう既に事後になっている。
夏生さんも立派な大人だし理性をなくすこともないだろうけど。
……よし、一応念のため、話題を変えとこ。
「えーっと! そのかみさまってどんなかみさま?」
少彦名命様はきょとんとした表情を一瞬浮かべ、ほんの少し宙を見上げた。そして、その神様のことを思い出しているのか、ほのかにはにかんで見せた。
「穏やかな美しい神だよ。神としては珍しく短命で、ちょうど百年に一回代替わりがあるんだ。といっても、替わるのは体だけで、記憶も精神も一部を除き全て次代へ引き継がれるらしいんだけどね。で、代替わりを終えた先代の体は一輪の花になって」
「百年に一回? どっかで聞いたな」
「待ってください。まさかそれって」
「そのまさかだよ。君達人間が大好きな、願いを叶えてくれる代物だ」
……なんてこったい。
ここでその話が出てくるなんて、思いもよらなかった。
でも、その花こそ捜索隊が血眼になって探している例の花に違いない。そんな争いごとを生みかねないどころか、現在進行形で争いしか生んでいない代物が世の中に二つとあっていいわけないんだから。
でも、まさかその花が神様の体だったものなんて。そりゃあ、神様の神威の欠片程度でも残っていれば、人間の願いの一つくらい叶えられてもおかしくない。
「おい、待て。……あ、いや、その、申し訳ない。つい」
「構わないよ。その子のお父上に対するのと同じ口調でも」
「あーいや、全く同じというわけには。……とにかく、話を戻すが、堕ちかけたことがある、と。それが何故かご存知か?」
「うーん。さっきも言った通り、代替わりする上でほぼ同じであって完全にという訳ではないということを踏まえてだけど」
少彦名命様はほんの少し苦いものを噛み潰したかのような顔で頬をかき、私達からすっと視線を外した。
「恋を、ね、してしまったんだって。それも、人間の娘に」
「……その恋の行方は?」
「僕達と人間の間で大きな障害となるのは大半が寿命の差。それでも百年に一度代替わりがあるなら、今よりも人間が短命だったとしてもさほど彼らと変わらない」
少彦名命様は直接的な答えをすぐには返さなかった。でも、その言葉選びから、神様と人間の恋の結果は私でも分かった。
どうしよう。なんだか無性に人肌が恋しくなってきちゃったよ。
横に綾芽や櫻宮様がいるけれど、私の手はまだ劉さんが後ろで握ったまま。だから、そのまま後ろにいた劉さんに体を預けた。おもむろに懐に飛び込んできた私に、劉さんは握っていた手をほどき、体の前に自分の手をまわしてぎゅっと抱きしめてくれた。振り仰いで劉さんの方を見ると、口元に軽く笑みを浮かべていた。そして、これまた無意識だったのだけど、離してもらえた手はいつの間にか綾芽の服の裾を掴んでいる。
……うん、これで大丈夫。
「……成就、しなかったのですね」
「その人間の娘にはすでに心に決めた相手がいてね」
「つまり、叶わなかったが故に堕ちかけたのですか?」
「いや? むしろ加護を与えて送り出したそうだよ」
「では、何故それが気をつけるという話に?」
「これまた酷い話でさ。その娘の相手というのが花を探しにきた奴で、娘は利用されていただけだったんだよ。もちろん、神自身もそのことには気づいていただろうさ。だからこそ、加護を与えて送り出したんだ。男が心変わりして、娘と幸せに暮らせるように。だけど、そうはならなかった。結局、娘は事の真相を知り、己の末を悲観して海に身を投げたらしい。……君達も、その子の父上の言動を見聞きしているなら分かるだろう? 神の寵は深くて強い。添い遂げられなかったからといって、その情をすぐに別へと移せてしまえることもない。加護を与えた人間、しかもその中でも一等大切にしていた者がそのような末路を辿れば……」
「……」
少彦名命様と一緒に話を進めていた巳鶴さんと橘さんの二人だけでなく、皆が一様に黙り込む。
アノ人がお母さん至上主義なのは今に始まったことではないし、それを皆も十二分に知っているからこそ、この長い沈黙という反応はなんらおかしくない。当然といえば当然だ。
退いたとはいえ、元冥府の主宰神。もしそんな事態になれば、そんなことをしでかした本人だけでなく、末代どころか既に彼岸に渡ってきている先祖代々まで草の根わけてでも探し出して手を下すだろう。いや、下すに違いない。絶対に。
それを思えば、なんというか、本当に申し訳ないというほかない。
だって、みんながそんな目に遭えば私だって同じことをできる範囲でやろうとするもの。だから、申し訳ない。先に謝っとくからね。
「ですが、これまで被害が出たという話は聞いていません」
どんなことを想像したのか、橘さんの顔が少し青ざめている。
夏生さんや巳鶴さんも頷いて賛同の意を示した。事実、定期的に出ているという捜索隊が行方不明になったり死傷者が出たなんてニュースを見たことは一度もない。
「たった百年そこらの神でもね、人ひとりを存在しなかったことにするなんてわりと簡単だよ? ましてや、過去の自分を苦しめた奴と同じ目的の憎い相手ならなおさら。……まぁ、あんまり派手にやりすぎると元老院から遣いが飛んできて面倒なことになるんだけどね」
「……その元老院の連中ももうじき来るはずだから、なんとかなるだろ」
「あぁ、それなら安心だ」
少彦名命様が笑う。それにつられて私も。皆もわずかに強張らせていた表情が和らいだ。
――ただ、ひとつだけ。私達は油断していた。
色々なことを詳しく教えてくれるから、この神様がどんな性質なのかとんと頭から抜け落ちていたのだ。
「君達は、ね」
その一言に、皆の表情が再度固まった。
少彦名命様は笑みを浮かべたまま。そして、私達の反応をじっと観察している。浮かべている笑顔は同じはずなのに、不老不死の実だと見破った時に見られた悪戯っ子のような笑みとは明らかに異なっている。
人と同じ見目であっても、人とは違う。
青龍社の神様に対しても感じたことのある、神様独特の雰囲気を惜しげもなく放っていた。