花ぞ昔の香に匂ひける―3
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朝、の、はず。
だって、食にかけては電波時計並みの正確さを誇る私の腹の虫達。その彼らが待ちに待った朝ご飯の時間を大音量で告げている。
でも、実際にはほんのり薄暗い。
まぁ、なんてことはない。私が誰かの布団に潜り込み、ついでにその誰かの身体に拳一個分も挟めぬ程に張り付いていた。ただそれだけ。
それだけのはずだった。
少なくとも、これが綾芽や最近寝る場を提供してくれている巳鶴さん相手なら。
割と寝覚めはいい方だと思っている頭で、状況を数秒で把握。
で、そろーっと顔を見上げてみる。
「……」
「……お、おはよう、ございます?」
見てた。元の姿に戻り、寝巻きもちゃんと大人物に替えている櫻宮様が。瞬きも少なく、目もそらさずじぃーっと。目をかっ開くとか眉を寄せるとか、驚きの表情を浮かべてないところがまた怖い。
朝のごく一般的な挨拶に対する返事もないし、やっぱりかと小さく溜息をつく。なんかちょっと居心地悪い。お腹も空いた。とりあえず、もう起きよう。お腹も空いた。
着替えやら洗顔やら身だしなみを整えに行こうと半身を起こし、よっこらしょっと見た目にそぐわぬ声をかけて立ちあがる。いや、立ちあがろうとした。
それを阻んだのは、同じように半身を起こした櫻宮様の手だった。櫻宮様の手が私の腕を掴み、引かれ、布団に尻餅をつく。布団の上だったからマシとはいえ、ちょっと痛い。子供の時とは勝手が違うんだから、もう少し手加減してほしいなぁ。
……いや、覚えてない、か。だとしたら、夜普通に寝て、朝起きたら私が懐に潜り込んでる、なぁんて訳の分からない状況に驚くよりも呆然となるのも無理ないね。ちょっと何があったのか、私でさえ分からんとこあるくらいだもの。
あぁ、それにしても。
「……くの?」
「え?」
この二週間分の懐かしき良き思い出に浸ってしまい、櫻宮様が何と言ったのか上手く聞き取れなかった。
聞き返すと、櫻宮様はムッとしてもう一度口を開いた。
「どこ行くのって聞いてるの」
「どこって……きがえてー、かおあらってー、らじおたいそうしてー、あと、おおひろまでるーるよんでー……それから、ごはん!」
「……」
いつもの私の日課だから、そう珍しいことをするわけじゃない。むしろ、朝起きたら皆がやる、極々普通のことだ。もちろん、櫻宮様もここにいる間は一緒にやっていた。
すると、櫻宮様は急に立ち上がり、長押にかけてあった半纏を羽織った。それからおもむろに私の手を取って立たせ、部屋の襖を開けて勝手知ったる我が家ばりにぐんぐんと廊下を突き進む。途中ですれ違うおじさん達も何事かと身構えるほどのスピードだ。私なんか、駆け足とまではいかないけれど、お屋敷の中で競歩してる気分。
着いた先は綾芽の部屋だった。
あぁ、連れてきてくれたんだなって思ってたら。
「早く着替えてきて」
「え?」
「早く」
なんだかよく分かんないけど、部屋の障子を開け、まだ寝ていると思しき綾芽の枕元を通り越し、私の服が詰まっている箪笥の前に立つ。なんか急かされているし、今日は外にも出ない予定だし、これにしよう。
手に取ったのは、南の凛さん作、クマの着ぐるみ冬Ver.(改)。名前に(改)ってついたのは、さる匿名希望の人物が改良点を申し入れたからだそう。前のも気に入ってたけど、モコモコ生地がさらにお肌に優しくなってるんだとか。後はその他にも細かい点が何点か。
「まだ?」
「も、もうちょっと!」
着ぐるみだからすぐに着替えられるとはいえ、いくらなんでも早すぎる。一分どころか三十秒も経ってない。もちろん、服選びの時間で大半が消えた上で、だ。
慌てて手を動かして着替え終え、障子に手を伸ばす。ふと思い立って、もう一度部屋の中へ戻った。忘れ物というか、忘れ人。
「あーやーめー」
「……んー」
「おーきーてー」
「んー。おきとるよー」
「それ、はんぶんねてるときにいうやつー」
「ねてへん、ねてへん」
「それもだってばぁーあー」
ある意味、これも毎朝の日課。いつもならある程度頑張った後は放っておくこともあるけど、今日はそうはいかない。起きてもらわないと困るんだ。
「……」
さっきからよく分からない反応をする櫻宮様の相手をするには……って、なになに? 櫻宮様? どうしたの?
部屋に入ってきた櫻宮様は布団をはぎ取ろうとしている私の横からさらに手を伸ばし、綾芽が頭から被っている布団をはぎ取った。そして、手を振りかぶり……って、ちょっと待ったっ! ストップストップ!
どこかで見た光景だなぁとか考えてる間に、その手が綾芽の顔面に向かって振り下ろされそうになっていた。慌てて腕を掴み、ブンブンと首を左右に振って止めておく。
ほ、ほんと既視感半端ない。櫻宮様の寝ている人を叩いて起こすスタイル、子供の時だけじゃなかったんだ。誰の真似をしてそのスタイルが確立されたのか分からないけど、今すぐ変更することをお勧めしたい。いや、ほんと!
そして、綾芽は後で私にデザートを献上すべきだと思うに一票!
「……朝も早よから、元気でえぇなぁ」
布団をはぎ取られ、寒かったんだろう。それでいて目の前にはモコモコ着ぐるみを着た私がいる。綾芽はごく自然に手を伸ばし、私で暖を取ろうとした。綾芽や巳鶴さんは体温も血圧も低いから、朝は特別堪えるみたい。いつものことだから、私も慣れてる。
しかし、そうは問屋が卸さないとばかりに、綾芽の手が届く前に宙に攫われた。
「ん、なに?」
暖をとるのに失敗した綾芽が下から睨んでくる。ただ、まだ眠いのか、トロンとした目で睨まれてもあまり怖くない。
一方、私を宙に攫った犯人――櫻宮様は私を抱え直し、べーっと舌を出す。
「この子、わたくしとずーっと一緒だと言ったもの。貴方は御役御免よ」
「……えっ……とぉー」
言ったかな? 言ったかもなぁ。でも、それとこれとは話が別な気が。
私がそう口にするよりも、はたまた綾芽が反論するよりも早く、櫻宮様はくるりと踵を返し、そのまま部屋を出た。
去り際に少し身を乗り出して綾芽の方を見ると、深ぁい溜息をついていた。
ふむ。先程のデザート献上の話はお流れにしといた方がよさそうだ。請求しようものなら、逆に請求されかねない。
……流れるといえば、話の流れで分かった大事なことが一つある。
櫻宮様、ここ二週間の記憶、ばっちり残ってた! 神様、すごい!
惜しむらくは、良かった!嬉しい!って手放しで喜べる状況ではないことだ。
お願いだから、仲良く穏便に、事を進めていきたいなぁ、なんて。駄目だ駄目だ。一つ叶えば、二つ目三つ目と欲が出ちゃうのがいけないところ。
さて、とりあえず……そうだな、ラジオ体操、やっとこか。
その間にきっと、夏生さん達が状況に気づいて、上手いこと考えてくれるはず。
「そうよ。誰かと違って、ずーっと一緒なんだもの」
……南の蒼さん茜さん達双子の兄弟喧嘩よりも、だいぶ根深いものを感じる。
抱きかかえる腕の締め具合もなかなかに強い。
仕方ない。島の一件の着手前に、私が一肌脱いであげよう。
ダメだったらダメだった時。そもそも、今までの状態からして、今より悪くなることもないだろうし。それこそ夏生さん達がフォローしてくれる。
やれやれ、まったく。この世界の大人達は手がかかる人が多くて困る。




