闇が深いほど光は輝く―6
──とおりゃんせ とおりゃんせ
──ここはどこのほそみちじゃ
──てんじんさまのほそみちじゃ
子供の声がする。
どこか雅の声に似ているその童歌の歌い手は、どうやらこちらに近づいてきているらしい。
──いきはよいよい かえりはこわい
──こわいながらも とおりゃんせ とおりゃんせ
先程までいた岩窟とは違い、今度は本当の意味での暗闇だ。
ともすれば、自分の手足の先ですら危うい。灯りもなく、ただ自分がここに立っているということだけが分かっている。
だというのに、あの子供はどうやって私のいる場所を認識しているのだろう。
右も左も、前も後ろも分からない。
だが、ここに留まっているのもよくない気がする。
声を頼りに近くにいってみようか。
少し前に向かって歩いていくと、見たこともないほど大きな川と太鼓橋が現れた。太鼓橋の横の桟橋には木製の船がつけられている。
これまで暗闇だったのが、突然見えるようになった景色が川と橋とは。それに、よく周りを見渡せば、川のこちら側に広がる河原のところどころに小さな黒い影が蹲って見える。
――あぁ、なるほど。ここは。
童歌が、橋のすぐ向こうから聞こえてくる。
橋の真ん中に姿を見せた。
その子の、顔は。
「まだだーめ」
顔をしかと認識する前に、唐紅の曼珠沙華と蝶紋様の被衣に遮られてしまった。背後からかけられたそれは、絹のように滑らかで柔らかい。甘い桃の香りもふんわりと漂ってくる。
その衣を取り払う前に、手を引かれ、橋に背を向けた。私の手を引いたまま走り出すその背は、雅が大きくなった時のそれによく似ている。
しばらく走ると、童歌が聞こえなくなった。
振り返ろうとする私に、手を引いてくれたその子は振り向き
「だから、だめっていってるでしょ」
今度は何か嗅いだことのない匂いを嗅がされた。
足元がおぼつかなくなり、よろけながらも地面に身体を横たえる。そんな私を、般若の面を頭の横にかけた少女は、ニンマリと笑いながら見下ろしていた。
「いいから! 早く車を出しなさい!」
「ですが、今は一台も……」
「ここへ来る時に乗っていたのはどうしたんです? あれがあるでしょうが!」
「それは……先程、ガソリンを入れに」
「こんなタイミングよく全ての車が出るわけがないでしょう! 誰の指示です!?」
橘と、誰かの声。
普段から冷静な橘にしては声を荒げて誰かに詰め寄っている。
すぐ近くで話しているが、聞いてもいいものか。
「私です」
「大伯母上」
「貴方の指示なしに動いたことは悪いと思っていますが、それでも、今のこの状況はいただけません。なぜ助けたりなどしたのです?」
「……陛下は……彼は、貴女が思っている以上に自分の責任について考え、行動にも移していますっ」
やめてくれ。そんな大層なものなんかじゃない。
それは、一緒に行動を起こしたお前が一番よく知っているだろうに。
そう言ってやりたいが、なんだか酷く億劫だ。
口を開けるのも。目を開けるのでさえも。
「これからの事には彼の力も必要です。今、ここで殺めてしまうのは得策ではないでしょう?」
「そうですか。なるほど。貴方の考えももっとも。しかし、必要なのは、帝という地位を持つ者。その者でないといけないということではありませんよ」
「それは……っ!」
ドンっと心臓を強く打たれた。
それは……それは駄目だ。綾芽や櫻宮を引きずり込むのだけは。それだけは看過できぬ、してやれぬ。
「それは、あまり良策とは言えぬだろうなぁ」
「……狸寝入りとは、また随分と余裕だこと」
「いやいや、先程まではちゃんと死にかけていたぞ」
目を開じたまま、うっすらと笑みを見せる。
癪に触るのだろう。声の主は明らかに気分を害していた。
「私があそこで死んでいれば、そなたらの故国はますます劣勢に立たされ、返還など夢のまた夢に消えていただろう」
「……」
「……別に、生かして欲しいわけではない。今はまだ、その時ではない。それだけのこと」
ゆっくりと目を開き、声の方を振り向いた。
大伯母上──瑠衣の祖母君と同じくらいの歳の女性がこちらをじっと見下ろしている。その横には安堵と、心配と、また別の感情をないまぜにした表情を浮かべた橘が立っていた。
「どういう」
「煌橘様っ! 大変ですっ!」
女性の声に少年の声が被った。
切羽詰まった様子のその少年は、部屋の襖を承諾もなしに開け放った。本来なら咎められるその行為も、少年の顔つきを見れば、大した問題にはならない。
女性も、橘も、私も、皆がその少年に視線を浴びせた。
「なんです? 次から次へと」
「そ、それがっ……狩野の娘が目を覚まし、煌橘様が連れてこられた子供達を人質に」
「どこです?」
「え?」
低い橘の声に、聞こえなかったのか、少年が問い返した。
「どこにいるのかと聞いているんですっ!」
「い、磯菊の間です」
苛立つ橘に、やっとの様子で言葉を返す。
答えを得た橘は一目散にその部屋へと駆けていった。
橘が連れてきた子供達とは雅達のことだろう。車の中にこっそり隠れてついてきたが、よもやこんな現場に遭遇するとは。
まぁ、雅のことだ。うまくやるだろう。
……とはいえ、相手は手負の女狐。なにをしでかすか分からぬ。
先に行った橘には追いつけまいが、騒ぎが大きい方へ行けばいいだろう。そこに雅達がきっといる。
起き上がり、部屋を出ようとする私に、女性は何も言わなかったし、しなかった。ただ、じっと見つめるだけ。
襖に手をかけ、首だけ振り向く。
「国よりも菊市をとったその行動、私は菊市が羨ましい」
本当に故国を優先させるのならば、交渉が成立するまで私を生かしておくだろう。何故なら、交渉の場に立つのが私ではなく弟達となると、政の経験が足りぬからと高官達が実質取り仕切る。これまで啜ってきた甘い汁を今も貪欲に求める彼らが、彼の国を簡単に手放すわけがない。
賢い方だ。それくらいは分かっていたはず。
だから、先程彼女が言っていたのは、橘への単なる挑発か脅しだろう。私もついそれに反応してしまったが。
そして、知性があり自尊心も高いのだろう彼女が考えそうなことといえば。自分の手で菊市を取り戻すべく、元老院の者を再びこの地に招くこと。
人間同士の諍いには不干渉を貫くという彼らだが、この地に棲まうモノ達の死の穢れを厭う声を聞けば、誰かしら出てくるに違いないという算段だろう。その者が私をどうにかするというのも計算の内で。憎い相手に意趣返しもできて一石二鳥といったところか。
この考えが合っているか、はたまた間違っているか。
口にしたわけではないので答えはないが、おそらく前者に違いない。
私の言葉を皮肉ととらえたのか、女性の眉がぎゅっと寄せられた。
「ぃやあああぁあぁぁぅああぁぁぁっ!」
どこからか、聞き覚えのある絶叫が聴こえてくる。
同時に、雅が癇癪を起こして何か怒鳴っている声も。
狩野家の孫娘も、本当に愚か極まりない。
童神とはいえ、一度ならず二度までも神に楯突くとは。
その場から動こうとしない女性をおいて、その声のする方へと足を向けた。