プロローグ―1
目蓋を開けた瞬間、視界に飛び込んできたのは御伽の国
……なんて幻想的な夢物語の世界ではなく。かといって、自分の部屋の見慣れた天井でもなく。
――夜の暗闇。
そして、街中のどこにでもいるような顔立ちをした三十代くらいの男の人だった。一度雑踏に紛れてしまえば、どこにいるか分からなくなるくらい特徴がない。
といっても、今だけは違う。
あろうことか、男の人はその両手に本物の日本刀を握りしめていた。
当然、周りにいる人達は皆、蜘蛛の子を散らすようにして逃げ惑うだろう。少し離れたところにいる他の人達も皆、同じように日本刀を手にしている今のような状況じゃなければ、の話だけど。
そうこうしていると、汗とむせ返るような血の臭いが鼻腔を突き抜けてくる。それに、都会の喧騒とはまた違った煩さ――武器と武器がぶつかり合う音や、互いの覇気ある怒声で耳が痛くなってきた。
目か、鼻か、耳か。
目の前で繰り広げられる非日常をなんとか理解しようとするまで、手で塞いでおくべき箇所が多すぎる。
なんとか現状把握ができたところで、そっと天をあおいだ。それまで雲に隠れていた月が徐々にその顔を覗かせ始めている。
そして、それを合図とするかのように、目の前の男の人がその頭上へと日本刀を振り上げた。刃紋が冷たくも涼やかなる月明りを浴び、鈍い輝きを放っている。もし仮に本物じゃなかったとしても、振り下ろそうとしている時点で立派な鈍器にはなるだろう。
……もういい。
もぉーいい! この際、ここがどこなのかとか、今更もうどうでもいいっ!
あのね、いくらなんでも、目の前で本物の刀使って斬り合いされてちゃ、生きて帰れるかもーなんておめでたい考え、誰だって浮かぶはずない。ないよ、ないない。まったくない!
なんなの? その無駄に研ぎ澄まされた刀の輝きは。
今まで刀とか持って振り回してたら銃刀法違反で逮捕される生活送ってきたのに、いきなりその刀で狙われて命の危機だなんてさ。
普通は腰抜かすとか気絶するとかなんだろうけど、人間どうしようもない場面に遭遇したら、もう最後は諦めの、悟りの境地に至るもの。今、身をもって知ったよ。
まぁ、悟りの境地といっても、私の家の宗派は神道なんだけどね。というか、家業が神職で家も神社の敷地内にあるから、もう仏教のぶの字もないんだけどね。
それはまぁ、ちょっとどこかに置いといて。
「これでっ、終いやっ!」
――あぁ、空ってほんとに高いんだなぁ。
虚空を見つめるようにして、空をぼーっと眺めた。
分かってる。完全なる現実逃避だ。
「なっ! はっ!? こ、子供っ!? どこから!?」
突然、今にも斬りかかろうとしていた男の人の眼が見開かれた。目を何度も瞬かせ、それまでの張りつめていた雰囲気が俄かに和らいでいく。身長差と月明かりのせいで顔が少し陰になっているにも関わらず、それがちゃんと分かる。まぁ、それくらい至近距離なんだから、当たり前といえば当たり前か。
……ん、いやいやちょっと。
ちょっと待って? 子供だったら見逃してくれるの? え? そうなの?
子供! わたし、子供!
日本語がうまくない外人並みの単語の羅列だけど、いい。今はそれでも全然いい。
諦めの? 悟りの境地? 前言撤回しよう。そんな簡単に習得できるわけがない。
だいたい、子供がこんな危険な……。
……………ん? あれ?
子供? 子供って言った? 女じゃなくて?
ここが戦場だってことは見れば分かる。そして、「戦場では老若の差は無に等しい」と、前に歴史の先生が言っていた。
そんな戦場でも目を引くのが性別の差。
つまり、女が戦場にいること。もっと言えば、前線に出てくること。
だから、女であることよりも子供であることで相手を驚かしうるのは、完全な庇護対象であるほどの……。
そこでようやく自分の体の異変に気づき、そろそろと自分の首から下を見た。
一拍、二拍あけ。
それでも状況が呑み込めず、三拍四拍と続き、そしてようやく。
「ぎぃやぁああああああっ!」
幼子特有の甲高い悲鳴が辺り一帯に轟いた。
近くの木々で休んでいたのか、鳥達が一斉に鳴き声をあげながら飛び立っていく。
男の人も次から次へと起こる突然の事態に面食らっているらしい。
けれど、男の人のことはもはや無視。ペタペタと自分の身体を触りまくり、色々と確かめる。
……あっ、ついてない。良かったあぁ。
幼児化した上に性転換までしていたとなれば、困るどころの話じゃない。
場違いにも、ホッと安堵の溜息が出た。
すると、目の前にいた男の人がグラリと後ろに倒れ込んだ。身体のあちこちを見渡していたせいで、男の人に何があったのかさっぱり分からない。ただ急に倒れこんだ。認識できたのは、その事実だけだった。
「お、おじさぁーん?」
背伸びして、恐る恐る男の人の顔がある方を覗き込む。そして、踵を地面へと戻すが早いか、数歩分、無意識のうちに後ずさっていた。
男の人の心臓がある辺りに、小さな穴が開いていたのだ。鋭利な――そう、刀で刺したくらいの穴が。
男の人の成れの果てに対して後ずさりだけで済んだのは、一重に家庭環境の賜物だろう。
というのも、家族ぐるみで親しくしている人達と一緒にいる時、何度か似たような状態になっているモノに遭遇したことがあったのだ。そんなわけで、血とかそういうのには同級生達よりかは耐性がある方だと思う。
だけど、そういうモノが、ついさっきまで生きていた人間であったことは一度もなかった。
だから、今ほど伯父さんの友達に感謝したことはない。見なくていいにこしたことはないけれど、もし見ていなければ、今頃失神ものだっただろう。この、なにがなんだか分からない状況で。次は、本当に自分の番かもしれない状況で。
ふいに、ナニカに肩を叩かれたような気がする。とん、と。至極軽く、友達に接するような気安さで。でも、それは決して目には見えないモノ。
“死”
一度は助かるかもと思えた瞬間からの現実に、ぞくりと肌が粟立つ。いっそ胃の中のものを全部吐き出してしまえれば楽なのに、震える身体はそれすらも許してはくれない。
まるで、真綿で包まれながら窒息死させられてしまいそうな、そんな息苦しさが増していく。呼吸にはならない空気を吐き出すため、何度も口を開け閉めした。
――やっぱり逃げなきゃ! どこか、どこか遠くに! 一刻も早く、どこか安全なところに!
――逃げおおせると思ってる? 本当に? 世の中には逃れられないことだってあるって、もう知ってるくせに?
私の中で相反する気持ちがぶつかり合う。それに呼応してか、足を動かしたいのに、ちっとも動こうとしない。すぐ近くに男の人を手にかけた誰かがいるって、頭ではちゃんと分かっているのに。
自分の死。そして、その死への恐怖。それらの点と点が線で結ばれ、ちゃんと理解し、自覚してしまった。そうなれば、もはや手遅れ。
耐性はあくまでも耐性で、本当のところ、全然平気なわけではなかったということだ。今更ながらに自分の認識不足を突きつけられた。
そうしてある一点を越すと、だんだん一体何が怖いのか分からなくなってきた。死ぬこと自体なのか、死ぬまでの恐怖が続く時間なのか。
ここに来る直前のことは全く覚えていない。けれど、死んでしまってここにいるのなら、本当に何も分からないまま死ねたのかもしれない。
そうやって死んだ事実すらも、今となっては酷く幸せに思える。だって、こんな気持ちを味合わずにすんだのだから。
いっそのこと、一思いにやってくれ!
そう叫ぶ人達の気持ちに酷く共感を覚えたとき。
「堪忍なぁ。怖い思いさせて、悲鳴まであげさせてしもて」
背後から場違いなほど柔らかい声が聞こえてきて、そのまま温かい片腕で身体を包まれた。かと思うと、声の持ち主は私を軽々と抱き上げた。
さっきの私の悲鳴、声の主は目の前で起こっている凶事に対する悲鳴だと思ったようだけど。それは大きな勘違いだ。
確かに、今となっては死が身近に迫ったことへの恐怖が明確にある。けれど、あの時ばかりは、まず間違いなく自分に起こっている異変に関することだけだったんだから。
でも、今の私にその誤解を解く余裕は一切なかった。ここに来て男の人が死ぬまで、無理にやせ我慢をしていたつもりはない。
けれど、身体は精神以上に自分のことに正直みたいで。いつの間にか、涙が滲み溢れていた。それを拭うので一杯一杯なのだ。涙は次から次へと頰をつたい、顎から下へと流れ落ちていく。
「ふっ……うぅ……」
「もう大丈夫やから。安心してえぇよ」
ふと、手をとめて、頭上からの言葉に顔を上げた。
第一印象は、綺麗なお兄さん、だった。
闇夜に紛れてしまいそうな漆黒の髪、それを無造作に肩の位置で緩く結わえている。すらりとした柳のような細身で、声も高くもなく低くもなく、抱っこしてもらっていなければ女の人と見間違えたかもしれない。
でも、なんというか、綺麗すぎて、怖い。そんな感じ。
それでも、誰かの腕の中にいられる。その安心感はどんな負の感情すらをも簡単に凌駕してしまった。
男の人を手にかけたのもこのお兄さんだろうに、誰かを手にかけた腕に抱っこされていても全く気にならない。そんな自分はおかしいのかと考えるのも、もの凄く短い間だけだった。
それに、かけられた言葉に嘘がない。そして、ぽんぽんとあやすように背を軽く叩いてくる。その手つきは酷く優しい。それだけ分かっていれば十分だった。
じきに、あれほど溢れかえっていた涙も頰をつたわなくなった。
「君、どないしてここに来れたん?」
「……」
その問いには答えず、じいっと顔を見つめ続けた。お兄さんはそんな私の態度にも不快そうな様子も見せず、ただ黙って答えを待ってくれている。
しばらくの間、無言の見つめ合いを続けていると、誰かが足早に駆け寄ってくる音がした。お兄さんが私から目を逸らし、その足音の方へ顔を向ける。私もつられるように同じ方向へ視線を移した。
「おい、もう撤収だとさ。……なんだソイツ」
「ん? あぁ、僕を助けてくれた子ぉなんよ」
「はぁ?」
やってきたのはお兄さんとそう歳が変わらない男の人。
その人とお兄さんが話し込み始めたから、私も私で考えに耽る。
だって、考えるべきことは山のようにあるのだ。どうしたって今後、色んな人に聞かれることだろうから、早めに自分の中でも整理しておくに限る。
まず、お兄さんも言っていたけど、どうしてここに来れたのか。
この場合、ここっていうのは、二つの意味で。この戦場にっていうのと、この全く知らない場所にってこと。
あと、この幼児体型は? 誰が? 何のために? どうやって?
それに、ここが私がいた世界じゃないっていうのは薄々分かってる。日本語が通じているとはいえ、いや、だからこそ、絶対に同じ世界であるはずがない。
……もしかして、タイムスリップ? 江戸時代とかに?
状況を考えると、ありえない話じゃない。幼児化してしまっている以上、どんなありえないことでも許容できる下地が既に整ってしまっている。
そう考えると、こんなことができるのは。
「あー。聞けば聞くほど意味分かんねぇけど、とりあえず早く家に帰してやれよ」
「そやね。君、どこの子? 親御さんの名前は?」
「……かみちゃま?」
「え?」
「は?」
ん?
この時、私は無意識に呟いていた。正直、お兄さん達の会話なんて何も聞いちゃいない。
“集中すると周りを全く気にしなくなる”
私の悪い癖だって家族とかによく言われるけれど、どうやら今回もやらかしたらしい。
とりあえず、どんな時も笑っとけ精神で。うん、やりましたよ? 黙って笑顔。さっきまで泣いていたせいで、ぷっくり腫れた目蓋と上気した頰でだから効果半減かもしれないけれど。
そしたら、二人が目を見開いて目配せしてる、ん、だけど、さ。
――私、何かやっちゃった?