二十七話 【竜】が吼えれば悪魔が嗤う
凶牛魔獣が炎で紅く染まった森を駆けていく。それを追うように一人の男もまた走っていた。深緑の鎧を身に纏い、その上に更に自らが魔法で生み出した黒い靄を纏っている。遠目から見ればその様子は、なにやら黒い影が高速で移動しているように見えただろう。靄は炎に接触するとそのままそれを飲み込むため、結果的に男は炎に晒されることなく標的を追う事が出来た。
ラムフェス王国最強を誇る【竜聖十将軍】の一人、【黒竜】リガーヴ・ラズセール。訓練と実戦経験に裏打ちされた素早い身のこなしで、歩幅では遥かに上回る凶牛魔獣に、あと数分で追いつこうという距離まで迫っていた。
だが、そこでリガーヴは足を止めた。常人を遥かに上回る五感と、それ以上の第六感が、彼に迫るものを感知していたのだ。いや正確には彼を含めたその一帯に迫るものを。
自身の魔法【全てを飲み込む黒】は『形の無い物』は吸収できる。だがソレは、すぐに形を成すものだろうとわかっていたのだ。
「……【全てを飲み込む黒】」
リガーヴは自身の魔法の名を今一度つぶやき、【全てを飲み込む黒】をより広範囲に展開した。迫りくるソレが固体になる前に掻き消せるように。
◇◇◇◇◇
「……そろそろよ。一気に仕留めるなら貴方も準備したら?」
魔法構成による疲労の汗を額に浮かべながら、ミーネはヴィルハルトに話しかけた。展開した紫色の魔法陣は、今や広げきった両手よりも大きなものになっている。
「フッ 凶牛魔獣の位置はわかっている。あそこまでなら移動に時間はかからん。君の魔法の発動を見届けてから行動するとしよう フッ」
それに対してヴィルハルトは、地面との接着部分はうにょうにょさせながらも涼しい顔をして答えた。
その様子が気に入らないのかミーネは集中と疲労で険しくなっている顔を更にしかめた。
「……そう、じゃあいくわよ」
そう言うと魔法陣から、カーテンから漏れる朝日のように蒼色の波動が迸りだす。そして、ミーネは続けて唱えた。
「【精霊の凍土地獄】ッ!!」
呪文と共に魔法陣一杯から冷気の光線が放たれた。徐々に扇状に広がっていくその光線は、凄まじい速度で燃え盛る森を貫く。
光線が消えた頃、その通った跡、炎が燃え盛っていたはずの部分は、銀世界に塗り替えられてた。
結果、ミーネとヴィルハルトが立つ丘の上から見た森は、綺麗に赤、白、赤の縞模様のように姿を変えた。
◇◇◇◇◇
辺り一面氷の空間に、肩からの上だけのヴィルハルトが地面から姿を現した。すぐに標的を見つけ、そちらに目を向ける。
「フッ 見事だな フッ」
そこには氷漬けの凶牛魔獣があった。さほど時間を置かずにその近くに紫色の魔法陣が現れる。またしてもその魔法陣をくぐるように、ミーネが姿を見せた。その顔には多少疲労が覗える。
「どう?」
ミーネは先に着いたヴィルハルトに最も少ない口数で問いかける。
「フッ 見ての通りだ。凶牛魔獣は動かない。アレだけで仕留めてしまったか? それならば今後のためにもなんとかコレを持って帰る事も視野に入れたいが フッ」
そこまで言うと、背後から物音がした。何かがこちらに接近してきている。物音はすぐに近くなり、氷に覆われた木々が揺れたと思うと、そこから大きな影が飛び出してきた。
「フッ リガーヴか フッ」
現れた影の正体、リガーヴもまた現状を理解する。
「兄者……そしてミーネ、か」
「久しぶりね、リガーヴ」
ミーネとリガーヴが顔を合わせたその時、凶牛魔獣が氷の中から紅い光を放ちだした。三人はそちらに目を向ける。氷塊から煙が上がり、溶けだしていくのがわかる。
「……やっぱり悠長なことは言っていられないようね」
「フッ そのようだな フッ」
そう言うとヴィルハルトは姿を完全にジェルに変えた。そのまま凶牛魔獣に覆いかぶさろうとする。
リガーヴもまた凶牛魔獣にの元に素早く向かう。ミーネもなにかあってもいいようにいつでも魔法を展開できるように、軽く手を広げ構えをとった。
────刹那、凶牛魔獣が爆発した。
先程のような口から放たれた炎ともまた違った身体そのものの爆発。氷の中で身動きが取れない事が逆に前触れを全く起こさない事となり、感知力に優れた最強の将軍三人を、有無も言わさず吹き飛ばす。
「……ッ!」
そんな中、リガーヴはギリギリで【全てを飲み込む黒】を発動していた。
爆発のエネルギーによって飛ばされる小石などまでもは防げないが、それでも熱と爆風は魔法で生み出した靄が飲み込み、リガーヴを守る。数秒は続いたであろうソレが修まりかけた頃、リガーヴは目を凝らし凶牛魔獣へ意識を向けた。
急変する事態にも見事に対応しきり、次の事に備え【全てを飲み込む黒】を前方に集中させる。
そのため、前方以外への注意がわずかに削がれた。
爆発の凄まじい轟音の余波が耳を傷める中、上方からわずかに爆発のソレとは違う音が聞こえた。
リガーヴが上を向くと、複数の黒塗りの刃が自身に降りかかってきた。即座にそれを迎撃するために手に持つ黒槍を上に向ける。
もっとも自身にダメージを与えそうな、厄介な軌道で迫りくる刃を黒槍で撃ち落とす。それ以外の刃は鎧に当たりそうだが、大事にはならないだろう。
────そう判断した時、既に背後から別の脅威が迫っていた。
死角から襲い掛かる黒い影。その影が降り注ぐ凶刃と同じものをリガーヴの脇腹に勢いよく突き刺した。
「ぐ……!」
リガーヴの口から、苦痛の声が漏れる。と同時に上方から刃が降り注ぎ、バランスの崩れたリガーヴにいくつも突き刺さった。
影は間髪入れずリガーヴを蹴り飛ばした! リガーヴは大きく吹き飛び、後方の大岩に背中から激突し、その場に座り込むように崩れ落ちた。
(一体何が……)
リガーヴは力を振り絞り、自分を襲った影に目を向ける。
その眼に写ったのは、人のようで人に非ざる異形の姿。
額から生える一本の角、背中に生える蝙蝠のような禍々しい翼、爬虫類のような歪な尻尾、指先には長く鋭利な爪、全てを塗りつぶしそうな漆黒の肉体。
洞窟で見かけた【地烈悪魔】が、こちらを見下ろすように立っていた。
そして、その【地烈悪魔】が背中の翼をはためかせ宙に浮いたかと思うと、リガーヴのほうへ両手を振った。すると、指から生えた漆黒の大爪が、倒れ込んでいるリガーヴのほうに向けてトドメと言わんばかりに発射された。