天秤
ジンが瞬く間に抜き去った剣がキャローナの短剣を弾き飛ばしたのをディルスは目撃していた。
そして、それを認識した僅か数秒後には床に押さえつけられていた。
ぐぅ、と肺から漏れでた空気がくぐもった音を出した。
誰かに押さえつけられている訳ではないと、ディルスは辛うじて見える光景で理解する。
室内に居た全てのリリィート王国の人間が一人も余すことなく、床に倒れ伏しており、しかしその上に彼等を押さえつけている者など誰も居ない。
通常の何倍もの重力が、文字通り重さを持ってのし掛かっているのだ。
「あぁ、とても残念ですよ」
そう言葉を発したのはアイトだ。
常と変わらぬ声音であるのに、その顔に表情はない。完全な"無"である。
コツ、コツ、とやけにゆっくりに感じる歩みでキャローナの前まで行ったアイトがスッと目を細めた。
それに伴って更にのし掛かる重力が増す。
「っ!?」
完全に殺しにかかっていると感じさせる容赦の無さにディルスは何とか上げていた顔をとうとう伏せた。
双翼の剣が本気でかかれば、自分達を消す事など片手間である事を知っているが故の絶望であった。
「あちゃー、マスター完全にキレちゃってるっスね」
そんな項垂れるディルスの元に、この場に全くそぐわない呑気な言葉と共にやって来たのはレインである。
「レ、インど、の……」
「お、王子様はまだ話せるっスか。優秀っスね」
「こ、れは?」
「マスターの複合魔法っスよ」
「ふく、ごう、魔法……」
「使い魔と協力して発動する魔法の事っス。けど、流石マスターっスよねぇ。普通、複合魔法って結構な魔力と集中力と魔力コントロールが必要だからこんなに素早くは発動できないんスよ。魔法の天才であるクラさんだって発動には時間がかかるのに、それをこんなにあっさりやっちゃうんスからねぇ」
どこか誇らしげに言うレインが、因みに、と付け加えた言葉にディルスは愕然とした。
「マスターが発動してるのは、重力操作系の複合魔法なんスけど、効果の範囲を細かく定める事は出来ないらしいんスよ。つまり、俺達にも王子様達と同じ重力がかかっているってことっス」
それでも平然としていられるのは、それぞれが自らに何らかの保護魔法をかけているからであり、アイトはそれを折り込んだ上で、複合魔法を発動させたという事である。
キャローナが短剣を出したその瞬間……いや、もしかするともっと前から、彼等はその先の展開を見通してそれに備えていたのだ。
「さて、あの王女様の事はもう諦めて欲しいんスけど、それに巻き込まれて王子様達までプチっとされたらちょっと問題っスからね。動ける様にしてあげるっスよ。クラさーん!」
どこまでも呑気な声音でそうディルスに言ったレインが部屋の隅で傍観に徹していたクラリナを呼ぶ。
「どうしたの、レイン君?」
「あの王女様以外の人達に保護魔法かけて欲しいっス」
「……レイン君、マスターの複合魔法の効果範囲って知ってる?」
「勿論っスよ! この王都くらいの広さなら、全体が範囲内っスね」
「それを分かってて、王女様以外に保護魔法をかけろって言ってるの?」
信じられない、と呆れを多分に含んだ溜め息を吐き出すクラリナにしかしレインは当然、と頷いた。
「クラさんなら出来るっスよね! よろしくっス!!」
「あー、はいはい、やればいいんでしょう。やれば……」
しょうがない、と肩を竦めたクラリナが窓を開け放つ。
「ちょっと眩しいけど、我慢して下さいね」
ディルスに向けてそう笑ったクラリナが何事かを素早く呟いたその瞬間、クラリナを中心として円形に青白い光が王都全体を駆け抜けた。
「っ!?」
眩しさに思わず目を閉じたディルスだったが、その光が自身を通り過ぎた後にそれまでのし掛かっていた重力が通常に戻っている事に気が付いた。
「これは……クラリナ殿がやったのですか? それとも、アイト殿の複合魔法がその効力を失ったのですか?」
「うちがやったんですよ。マスターの複合魔法は未だにちゃんと発動してます。ほら、その証拠に彼女は解放されてないでしょう?」
彼女、とクラリナが指し示した先には、未だ床に倒れ伏して苦しそうに表情を歪めるキャローナの姿。
「……キャローナはどうなるのですか?」
「うーん、こちらで好きにしてもいいと言うのなら遠慮なく、って感じですけど」
「あの子も一応は我が国の王族です。そう簡単には……」
渋るディルスにクラリナがにっこりと笑った。
「ねぇ、王子様。うちらは今回、結構我慢したと思うんですよ」
「え?」
「第二王女の誕生パーティーから始まり、無茶苦茶な一騎討ちの日程、乱入、濡れ衣、マスターへの侮辱……国の代表として来ていなかったら、国王が分相応にもジン様を第二王女の婿にと望んだ時に、国王と王女を始めとした数人の首と胴はおさらばしていたでしょう。けれどうちらは我慢しました。それはそれは、我慢しました。だけど、ねぇ、王子様。そろそろそれも限界なんですよ。うちらは元々、気が長い方じゃないんです」
だからそろそろ一人くらい、生け贄を差し出してくれてもいいんじゃないでしょうか? と、クラリナは笑顔で言った。
「このっ! ディルス様に向かって何て口をきいているのだ!!」
そんなクラリナの言葉に反応したのは、リリィート王国の騎士達だ。
訳の分からない力に押さえつけられていた状態から回復し、何とか現状を把握しようと視線と思考を巡らせていたところでのクラリナの発言。
憤りのままに抜刀し、踏み込もうとしたその瞬間、パチン、と乾いた音が鳴った。
「ぐぅっ……」
途端、のし掛かる重力によって床へと倒れ伏した騎士達にクラリナが呆れた様に溜め息を吐き出す。
「あのさぁ、うちが魔法で君達を動ける様に保護してあげてるんだってさっき言ったの聞いてなかったの? 今の君達の行動の自由は、うちの意のままなんだよ」
パチン、と再びクラリナが指を鳴らせば、騎士達にのし掛かっている重力が無くなる。
自分を睨みながら立ち上がり、それでも今度は大人しく控えた騎士達に肩を竦めたクラリナがそれに、と言葉を続けた。
「たった一人を差し出せば、今回起きた諸々の、下手をしなくても国際問題になる事を見逃してあげると言っているんです。とても破格でしょう? まぁ、一騎討ちの報酬である三年間の関係拒絶は確定事項なのでそのままですが、関係拒絶なんかすっ飛ばして戦争、なんて事にはなりたくないでしょう? まぁ、戦争の方がうち等としては色々と面倒ではないし、簡単でいいんですけどね。どうしますか、ディルス王子?」
「っ……」
問われたディルスは一度強く瞼を閉じた。
断腸の思い、とはこの事なのだろうと、握り締めた拳を更に握り締めて、それでも重い口を開く。
「キャローナという者は、我がリリィート王国王家には存在しない……」
「ディルス様!?」
誰かが咎める様にディルスの名を叫ぶ。それでもディルスは選ばなければならないのだ。
多くの民か、一人の王族か。その命の天秤は、"第一王子"の肩書きを持つディルスにとって、比べるまでもなく前者に傾くものだった。




