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序章 出会いのキオク

あの日は、雨が降っていた。



バケツをひっくり返したような、土砂降りの雨。



そんな天気の中、私は気づけば森の中を駆けていた。



息を切らしてもなお、ずっと。



足を止めたらおしまい。



そんなことを考えていた。



何度も転んでは立ち上がり、森の外を目指した。



何かに駆り立てられるように、必死に足と手を動かして。



そんな中で見つけた、ひとつの光。



それが見えた瞬間、ひどく安堵すると共に、拭いきることのできない不安にも駆られた。



その不安がどこから芽生えたのか解らないまま、光が視界を真っ白に染めあげたその瞬間。



私はその光の中に、躊躇なく飛び込んだ。



刹那。



馬達の嘶きと、人の驚きの声。



それらが聞こえた方に顔を向けるけれど、気づいた時にはもう手遅れ。



驚いて膝から崩れ落ちると共に、咄嗟に目を瞑って歯を食い縛り、衝撃に備えた。



しかし、訪れるはずであろう衝突は、いつまで経っても私を襲わない。



それに疑問を抱いて閉じた瞳を開ければ、目の前にはさっき嘶いていた馬の鼻面があった。



四頭の黒馬は不満げに鼻を鳴らしながら、何度か頭を振っている。



逃げなきゃと思う反面、身体中が震えて上手く力を入れることができない。



頭上にある馬の顔を呆然と見つめ、ただ座り込むことしかできない私に対して飛んでくる怒声。




「何を考えているんだ!急に飛び出すなんて!」




声がした方に顔を向けても、何も言えなかった。



姿こそ視認できないけれど、相当怒っていることが手に取るように解る。



その場にずっと座り込んだままでいると、馬の手綱を持っていた人はそれを放ってこちらに近寄ってきた。



その顔を見るだけで、私を怒鳴った人の怒りがどんどん溜まっていくことが解った。



謝りたいと思っているのに、なのに、声を出すことが叶わない。



それはきっとさっきの光景が、恐怖として私の身体を支配しているから。



死へと向かう、漠然とした恐怖。



それがどうしょうもなく身体に纏わりついて、離れようとしてくれない。



私を見下ろす人が何か言っている気がするけれども、恐怖が勝って耳を掠める程度でほとんど聞こえない。



恐怖や叱責から逃れるように、自分の身を守るように、しっかりと自分の身体を抱きしめる。



そんな中、別の声がこの場の空気を支配した。




「強く大きな衝撃だったが、どうした」




低く、威厳のある声だと思った。



その声に、私は否応なしに現実へと引き戻させられて、耳に届く音もクリアになる。



私を叱責していた人はとても慌てた様子で、四頭の黒馬に繋がれている馬車の方に駆け寄っていく。



ここからだとあまり見えないが、どうやら窓があるみたいだ。




「その、子供が飛び出してきたのですが………」



「何?」




私は、また叱責をくらうのか。



雨に掻き消されそうな二人の会話が聞こえると、思考がそれでいっぱいになる。



カチャ、という静かな扉の開閉音。



それに次いで、水溜まりを踏む音が鼓膜を揺らす。



四頭の内の一頭の黒馬が私の頬に鼻を擦り寄せているが、それさえも忘れる。



私はただ、呆然とこちらに向かってくる人を見つめた。



激しい雨の音も、いつしか気にならなくなっていた。



それほどに、私の目の前に立つこの人には威厳があった。



自分が置かれている環境すらも、忘れてしまうほどに。



それでも、抜けきらない恐怖と雨に打たれる寒さで、無意識に身体が小刻みに震える。



どちらかといえば、恐怖が支配しているのだろう。



いや、恐怖と呼ぶよりも、威圧感と言う方が正しい。



目の前に立つ男性の纏っている空気に、どこか神聖さを感じた。




「どうして飛び出したりしたのだ。御者の腕がよかったものの、あわや大惨事になる所だった」




地面に座り込む私と目線をあわせた彼は、さっきの人とは比べられないくらい優しく、叱責と言うよりも注意をしてくれた。



それに拍子抜けしながらも、纏わりついていた恐怖が多少和らぎ、なんとか声を出して謝罪する。




「申し訳、ありません………」




震える唇から出た最初の言葉は、それだった。



これが、"私"が初めて口にした言葉。




「それにしても、どうして君はそんなに汚れている。この《深淵なる森》を、雨が降る中走っていたのか?」



「《深淵なる森》?………森の名は知りませんが、この中を、走っていました」



「こんなに傷つくまでか?」




地面に座り込む私の足を見る男性につられるようにして、目を自分の足に向ける。



私の足は、切り傷だらけで血塗れになっていた。



それだけには留まらず、着ていたであろう服もビリビリに引き裂かれ、原型を留めていない。



露出している腕にも、たくさんの切り傷。



雨で張りついたという感じで、私の身体にぴったりと密着している。



全然、気づかなかった。



まだ溢れる血は、傷を自覚した私に激しい痛みを植えつけていく。



激しい雨に打たれているということもあって、当然ながら平静など保つことなどできない。



痛みをこらえるために歯を食いしばるものの、それでも眉間に皺が寄ってしまう。



そんな私を見た男性は。




「ひとまず、私の家に来なさい」




ひどく優しい言葉を私にかけたが、それに反応したのは御者の方だった。




「なっ!大公閣下、何を言い出すのですか!この娘はどこの誰かも解らない娘なのですよ!?」




御者の方が声を荒らげて反発する。



しかし、私の目の前にしゃがむ彼には意味をなさないようで。




「それがどうした。このような幼き子を私に見捨てろと言うのか」




後ろ向いた男性は、今にも御者の方を殺してしまいそうな雰囲気を醸し出して、とても低い声を出した。



自分に言われているわけではないのに、一気に血の気が引く。




「いえ、そうではありませんが………」




叱りつけられた御者の方は、とても青ざめた顔をして口をつぐんだ。



自分に言われていない私でさえ恐れおののくのだから、言われている御者の方は途方もない恐怖に苛まれているんだろう。



そんな御者の方を見た、大公閣下と呼ばれた男性は私に視線戻して笑顔を見せる。




「そんなに濡れて汚れていては風邪をひいてしまう。私の家に来る気持ちが少しでもあるなら来ないか?」




土砂降りの雨の中、私に手を差しのべる人。



さっき森の中から見えた光のように、どうしても、縋りたくなった。



私を支配する感情が、不安や恐怖といった負のものしかない中での光。



それは希望の光などではなく、奇跡の光に近かった。



だからこそ、その奇跡に、彼に、縋りたくなったのかもしれない。



私はその人の手に、恐る恐る自分の手を重ねた。



すると男性は、顔に浮かべている笑みをよりいっそう深くする。




「よかった。断られたらどうしようかと思ったよ」




言い終わると、男性は自分が着ている上着をこの場で脱いで私に着させた。



けれどそれはサイズが大きく、私は毛布にでもくるまったかのような感じになる。



次いで、私の脇に手を差し込んで抱き上げてくれた。



いくら彼の上着を着ているとはいえ、私は綺麗とは程遠いというのに、男性は自分の服が汚れることを厭わなかった。



彼は後ろで控えていた御者の方に顔を向けて、厳かな声で言う。




「馬車を走らせろ。城までもう少しだからな」



「は、はい!」




御者の方が返事と共に頷くと、私を抱いた男性は馬車の方に向かって歩きだす。



多少なりとも揺れるので、上着の隙間から手を出して、彼の着ている服をギュッと掴む。



少し躊躇いがあったけれど、服越しに伝わるぬくもりは嫌ではなかった。



嬉しくも感じ、懐かしくも感じた。



馬車に乗り込んでも、彼は汚れている私を離さずに膝の上に置いてくれた。



そしてその向かいには、彼よりも若い男性が目を瞑って座っていた。



その男性の目がおもむろに開き、私を一瞥すると視線を動かし、私を膝に乗せる人物へと問いかける。




「閣下、どうなさるおつもりですか」



「どう、とは?」




言葉の意味を理解しているはずなのに、わざわざ聞き返す男性。



すると、あからさまに不機嫌な顔をする、エメラルドグリーンの瞳を持つ彼。



ため息をついて、口を開く。




「見ず知らずの子供を、これからどうするのかと聞いているのです」



「それはこの子しだいだろう、キーシュ」




ゆっくりと頭を撫でられて、その手の持ち主の顔を見上げる。



すると、もう一度ため息が落とされる音が聞こえたが、そちらに顔を動かす気にはなれなかった。



さっき私を一瞥した時の、あの鋭い視線は苦手だ。



馬車が動きだすと、相当な悪路なのか、ひっきりなしに大きく揺れる。



その度に、男性は私に添えている手に力を込めて、私が膝の上から落ちないようにしてくれた。



それも少しすると落ち着き、私は視線だけを動かして馬車の中を見渡す。



あんまり意識していなかったが、馬車の中は二人だけで乗るには不相応な広さだった。



まだ余裕で二、三人くらいは乗れるのでは、と思うくらいには広い。



けれどそんな疑問より、私は彼に聞きたいことがあった。




「あ、の………大公、閣下?」




さっき彼の怒る姿を見たせいか、恐る恐るになってしまった。



しかも、前に座る男性の鋭い視線をひしひしと感じるから余計だ。



今更だが、私は彼の名前も知らなければ、立場も知らない。



下手な事を言って彼に嫌われてしまい、この馬車から降ろされてしまうのでは。



不安が、全身を駆け巡る。



すると、彼は声高らかに笑った。



ひとしきり笑うと、また私の頭の上に手を置いた。



そこから伝わるぬくもりが、私の不安をじわじわと溶かしていく。




「私の事は好きに呼んでくれ。………あぁでも、そう言われても無理があるか」




頭を撫でていた手を顎にかけると、思案顔になってから数分。




「そうだな………ゲイルで構わない」



「じゃあ、ゲイル」



「どうした?」



「私は、これからゲイルの家に行くのですか?」



「あぁ。そうだ」



「そこは、温かい場所ですか?」




そう尋ねると、ゲイルは不思議そうな顔をした。



質問の意味を理解できていない彼の顔から視線を外して、ゆっくりと口を開いた。




「もう、寒いの、嫌なので………」




か細く、ゲイルに聞こえるか聞こえない程度の声で言うと、彼は優しく私を抱きしめてくれた。




「あそこはとても温かい場所だ。きっとキミも気に入る場所だよ」



「そうですか………」




そこからは特に会話もなく、ゲイルの胸に頭を預け、二人の会話に耳を傾けていた。



とても難しい話ばかりで、聞いているだけで頭の中が混乱しそうになる。



そんな二人の会話が途絶えてから少し後、不意に馬車の進む速さが遅くなる。



なぜだろうと考えていると、ゲイルが一言呟く。




「着いたか」




頭上からのゲイルの言葉に、窓の外へと視線を向ける。



相変わらずの雨で、視界はとても悪い。



着いたのがゲイルの家だということは解るが、それがどのような外装をしているのかまでは解らない。




「さぁ、降りよう」




速度を落とし続け、完全に止まった馬車の扉が外から開いた。



ゲイルが膝の上に乗る私を抱き上げて外へと出ると、それに続く形でエメラルドグリーンの瞳を持つ男性も降りた。



雨はまだ土砂降りで、すべての音を掻き消してしまう。



歩きだした彼の服を握って、揺れに耐える。



彼は自分の家を城と言っていた。



それは本当のようで、シルエットだけで見る限り、ゲイルの家はとてつもなく大きかった。



それに、今ゲイルが歩いている道だって広い。



一気に何人歩けるんだろう。



そんなことを考えていると、不意に身体を打ちつけていた雨が上がった。



最初はそう思ったのだが、実際は玄関前の屋根部分に入っただけだった。




「本当、バケツをひっくり返したような雨だな」




言いながら、ゲイルは片手で服についた水滴を払っていく。



それが終わるのを見計らい、ゲイルの後ろに控えていたキーシュと呼ばれていた男性が声を張り上げる。




「解錠せよ」




それと同時に、鍵が開く重々しい音がした。



それから数秒後、大きい扉が両側に開き、広々としたエントランスが姿を現す。



一定の間隔で壁に取りつけられている電球ひとつひとつは淡く光っているが、数が多いため広いエントランスを十分明るく照らしている。



そんなエントランスの壁際には多くの人が並んでおり、全員がほぼ同じ角度に、しかも同時に頭を下げてゲイルを迎える。




「おかえりなさいませ、大公閣下」




なおかつ声を揃えてのお出迎えの言葉。



その光景を、私は呆然と見つめることしかできなかった。



私を抱き上げているこの人は、一体誰なんだろうか。



そんな単純な疑問が、脳内を過ぎった。




「メティル」



「はい」




ゲイルの呼びかけに答えたのは、右側の壁際の一番前にいた女性だった。



緩やかに波打つミルクティー色の髪を揺らしながら、ゲイルの前正面にその女性が立つと、早口に指示を飛ばす。




「この子を風呂に入れて温めてやってくれ。服も適当にお前が見繕ってくれて構わない」



「承りました。どうぞお任せ下さい」




ゲイルはメティルと呼んだ女の人に、私を包む上着ごと手渡そうとする。



本音を言うと、掴んでいるゲイルの服を離したくはない。



ゲイルのぬくもりから離れると、すべて儚く散ってしまうのではないかという恐怖に駆られる。



この現実が本当は夢で、目覚めればこのぬくもりは幻なのだと思い知らされるのでは。



けれどこれは私の勝手な思い込み。



不安と恐怖がまだ身体の中から抜けきっていないから。



だからさすがに、これ以上ゲイルに迷惑はかけられない。



なので素直に従い、メティルさんの腕の中に収まると、「いい子だ」と言いながら、ゲイルに頭を撫でられた。



ゲイルは私の頭から手を離すと、側近らしきあの男性を連れてどこかへと行ってしまった。



エントランスから彼の姿が消えると、壁際に並んでいた人達が一気に動き出し始める。



またその光景に驚いていると。




「では行きましょうか。私はメティル・フェルクスと申します。メティルとお呼びください」




簡潔な自己紹介の後、メティルさんは歩き出し、入り組む廊下を迷う事なく奥へ奥へと進んでいく。



もうどこかで放り出されようものなら、すぐにはこの迷路から脱出できそうにない。



連れてこられたのは、玄関と同じ造りをしている両開きの扉の前。



メティルさんが片手でそこを開けると、目に飛び込んできたのは大きな洗面台。



その奥には半透明の扉があり、メティルさんに抱かれたままそれを潜る。



すると今度は、何十人もの人が一度に入れそうな広さを誇る湯船が視界に飛び込んできた。



つまりこの部屋は、さっき洗面台があった場所が脱衣所で、ここが浴室というわけだ。



それはいいのだが、驚きの連続で感情を休める暇がない。



そんな内心を知らないであろうメティルさんに、タイル張りの床に下ろされる。




「失礼しますね」




丁寧に断りを入れてから、私を包んでいたゲイルの上着と、雨で張りついた白の服を丁寧に脱がしてくれる。




「では、綺麗になりましょうか」




にっこりと笑いながら私に話しかけると、近くに置いてあるボトルからドロっとした液体を手に取った。



彼女の言葉に頷くと、液体を手の中で泡立ててから、私の身体に手を這わせて身体にまんべんなく伸ばしていく。



とりあえず、傷にしみてとてつもなく痛い。



全身が切り傷だらけではあるけれど、洗わなければならないことに変わりはない。



それが解っているからこそ、それを顔に出したり口に出すことはしない。



黙々と私の身体についた汚れを落としてくれているメティルさんを見て、拒否する言葉を言えるはずがない。



それにこの感じは、どれだけ拒否しようとも強制的に洗われるパターンに違いない。



お互いに口を開くこともなく、淡々と時間だけが過ぎていく。



身体が洗い終わると、今度は頭を洗い始めたメティルさん。



身体と同じように念入りに洗ってくれるメティルさんに、小さく伝える。




「ありがとう………ございます」




聞こえるように言ったわけではないのに、後ろで私の頭を洗うメティルさんは。




「お礼の言葉など、とてももったいないです」




静かにそう述べたのを最後に、私達は会話を再開することはなかった。



全身を洗い終わると、ひとつ前の部屋である脱衣所に戻り、肌を伝う水気をタオルで拭き取る。



それが終わると、身体を拭いた物とは別のタオルにくるまれたまま抱き上げられて、隣の部屋に運ばれた。



その部屋の中にはたくさんのドレスが置かれてあり、そのたくさんの色で彩られていた。



それがすべて見渡せる部屋の中心辺りに私を降ろすと、身体が冷えないように素早く女物の下着や薄い部屋着を着させられた。




「ここから好きなドレスをお選びください。その後閣下に会われます」




今後の予定の丁寧な説明ではあるが、ひとつ疑問がある。




「ゲイルに、会うのですか?」




また彼に、会うことが叶うのだろうか。



それはとても、嬉しいことだった。



あのことが、彼と出会ったことが夢ではないと、確かめることができる。



メティルさんを見上げながら尋ねると、彼女は少し驚いた顔をした。



けれどそれはすぐに崩れ、優しい微笑みが浮かぶ。




「はい、そうです」




メティルさんの肯定の言葉と同じタイミングで、部屋の扉が叩かれた。




「どうぞ」




片側だけ扉が開くと、顔を覗かせたのは、眼鏡をかけた男性だった。



手には小さな木箱の取っ手が握られている。




「閣下からこちらに怪我人がいるとお伺いしたのですが………」



「先生、この子です」




メティルさんは私の背に手を添えると、先生と呼んだ男性の方に身体の方向を変えられる。



彼は私の全身を見ると、なんとも言えない表情をしてこちらに歩み寄ってくる。




「………酷いな。とりあえず椅子に座らせてもらえるかい?」



「承りました」




彼の希望通りに、メティルさんは部屋の隅に置いてあった椅子を持ってくると、それに座るように言う。



素直に従って、メティルさんの助けを借りながらも椅子に腰かける。



すると、私を目線を合わせるように、身体を屈めた男性と視線が絡む。



彼の瞳もまた、綺麗なエメラルドグリーン。




「初めまして。僕はロッシュ・ティアログ。職業は大公家付きの医官だ。先生でもいいし、ロッシュと呼んでもらって構わないよ」




諭すような優しい口調で紡がれた言葉に頷くと、ロッシュさんは私の手を取った。




「ここには君の治療で来たんだ。傷を見せてもらえるかい?」



「はい」




少しの抵抗があったものの、治療と聞いては黙って従うしかない。



しかも彼は、閣下から伺ったと言っていた。



つまりロッシュさんはゲイルが差し向けた人で、しかも医官。



治療を受けなければ心配をかけるだけだ。



ロッシュさんは木箱を開き、茶色の小瓶を取り出してその中身を手のひらに出すと、もう片方の手の指で私の脚の傷に塗りこんでいく。



さっきのお風呂の時よりも、滲みる。




「《深淵なる森》を走ってきたんだってね。それを聞いて驚いてしまったよ」



「なぜ驚いたのですか?ゲイルも、とても驚いていました」



「それは、あの森が幻獣達の住処だからだよ」



「幻獣………」



「そう。簡単に言うと、魔力を持った獣という感じだね」




幻獣。



それを聞いた瞬間、なぜか酷く懐かしく、酷く寂しくなった。



それを紛らわすようにして、ロッシュさんに問いを重ねる。



脚の切り傷にはもう薬を塗り終えたのか、今度は両腕に薬が塗られていく。




「幻獣の住処の森には、どんな幻獣がいるのですか?」



「さぁ。僕は見たことがないから解らない。小型の幻獣もいれば、大型の幻獣もいるとは聞いたことがあるけど」



「そう、なんですか」




ロッシュさんには申し訳ないけれど、その回答を聞いた瞬間、私が求めた答えではない気がした。



残念な気持ちがあることを知らないふりをして、私はまた彼に質問をしていった。



取り留めもない会話を続けている内に薬は塗り終わったようで、何箇所かには布があてがわれていた。



それについてロッシュさんに尋ねると、傷が深かったからと答えられた。



確かに、布がある部分は特に痛みを感じる。



治療を終えたロッシュさんだったが、部屋を退室しようとした時顔だけを振り向かせて。




「明日また薬を塗りに訪ねるから、そのつもりでいてね」



「あ、はい」




驚きつつも焦って返事をすると、ロッシュさんは満足そうに笑って、今度こそ部屋を出ていった。



扉の閉まった音を聞き届けると、今まで静かに見守ってくれていたメティルさんが口を開いた。




「では、改めて服を選びましょうか。お好きな物をお選びくださいね」




頭上からかけられるメティルさんの言葉に、緩慢な動作で椅子を降り、ドレスの近くに寄る。



どれもとても綺麗で、レースや宝石の装飾がされている豪華なものだった。



その中で、ひとつのドレスに目が止まる。



それは青の、装飾が薔薇の刺繍だけの、とてもシンプルなドレス。



他のどんな豪華なドレスよりも、それが気に入って見入っていると。




「それになされますか?」




後ろで控えていたメティルさんの言葉にひとつ頷けば、彼女はそれを手に取ると、それと一緒に私を部屋の奥へと案内する。



その部屋の奥の壁は、一部分だけ鏡が貼られており、全身鏡とかそういう問題じゃない気がするのは私だけだろうか。



変なところで自問自答していると、いつの間にかメティルさんが私にドレスを着せていた。



柔らかな着心地に感動していると、私の周りを一周しながら、メティルさんはドレスの形を整えていく。



七分丈の青のドレスを着た自分を見て、これが本当に自分なのかと疑いたくなるほどに見違えた。




「とてもよくお似合いですよ。さ、あちらへどうぞ。紅茶をご用意致しますので」




言いながら、ドレスを部屋の隅に追いやってテーブルや椅子を部屋の中心に並べるメティルさん。



用意されていた少し高さのある白い靴に脚を滑らせてから、そちらに近寄って、また彼女の助けを借りて椅子に座る。



椅子から降りる時ならまだしも、椅子に乗る時が一番困る。



さっき軟膏を塗ってもらった傷口が開こうとするからだ。



ドレスの上から布が貼られた部分を擦りながら少しの間待っていると、目の前に出されたソーサーに乗ったティーカップ。



その中にはとてもいい香りのする紅茶が入っていた。




「本当はお茶菓子があるとよいのですが、生憎、今は切らしているのです。今回はご容赦を」




頭を深々と下げながら、謝罪の言葉を口にしたメティルさん。



それに驚いて、ティーカップを持とうとした手を引っ込めて、彼女の方に顔を向けて慌てて言葉を組み立てる。




「あっ、いえ、そんな、謝らないでください。本当なら私は、こんな待遇を受けるべきではないのに、むしろお世話をしてくださって、本当にありがとうございます」



「そんな、お礼だなんて。これは仕事でありますから、そのようなお言葉をかけてもらうなど、とても嬉しく思います」




冷めないうちに、と促され、カップに口をつける。



すると、紅茶の良い香りが、鼻腔から抜けていくのが解る。



加えて紅茶の温かさが、さっきの治療の合間に冷えてしまった身体を温め直してくれる。




「すごく、美味しいです」



「お褒めに預かり、光栄です」




メティルさんとも打ち解け、他愛ない会話の合間に、出された紅茶を少しづつ飲み下していく。



カップの中身が空になる頃、部屋の扉がノックされたかと思えば、対応するためにメティルさんが扉を開けた。



姿は見えないが、訪ねてきたのは綺麗な服に身を包んだ男の人だった。



その人と少しの言葉を交わして、メティルさんは私の方に振り向き。




「では、閣下のもとへお連れします」




その言葉が終わる前に、私は椅子から降りて彼女に近づいた。



先に出るように背を押され、部屋の外へと出ると、そこには案の定男性も立っていたのだが、その人がまさか。




「大公閣下お呼びだ」



あの、私が苦手とする男性とは思いもよらなかった。



彼とメティルさんの間に挟まれて、痛む身体に鞭を打って必死に歩く。



それからどれくらい歩いたのだろう。



一向にゲイルの部屋に着く気配はなく、私には、ただ同じ場所を歩いているようにしか見えない。



すると、やっと男性が足を止めた。



少しだけ周りを見渡すと、それぞれの部屋の扉の感覚が広くなっている気がする。



それに、何かの動物をあしらった模様が多い。



確かこの模様、ゲイルの上着にも、刺繍で施されていたような気がする。




「ここが閣下の部屋だ」




男性が説明してくれる少し後ろで、彼が部屋の扉をノックする音が聞く。




「閣下、キーシュです。例の子供をお連れしました」



「入れ」




ゲイルの返答が聞こえると、男性は私の方を向いて、「行くぞ」と声をかける。



慌てて彼の側に行き、扉を開けた彼に続いて礼をしてから足を踏み入れる。



そこは、私がさっき着替えた場所よりもまた豪華な造りで、そもそも広さが違う。



けれど、壁一面に置かれている本棚のせいか、広さに反して開放感は感じない。



装飾品や調度品の類も、そんなに華美ではない。



そんな部屋の中にある長椅子に、さっきの服と違う物に身を包むゲイルが座っていた。



彼と視線があうと、またあの優しい笑みを浮かべてくれた。




「着替えたのか。似合ってるよ」




感想の言葉に、頭を下げてお礼を示す。



ゲイルが私の態度に頷くと、今度は私の隣に立つ男性に視線を向ける。




「キーシュ、下がっていろ」



「はい」




言葉通り男性が部屋を退出すると、ゲイルはまた私に言葉をかける。




「さて、紅茶でも飲みながら話をしようか」




ゲイルの提案に頷き、あまりヒールの音を立てないようにして側に寄っていく。



距離が近くなるごとに、彼の存在を感じられるようになる。



それだけで、彼と出会ったことが嘘ではないと確かめられる。




「座るといい。傷が痛むだろう」




彼の気遣いにお礼を述べてから、彼と机を挟んで向かい側にある長椅子に腰かける。



ゲイルは長机の上に用意されていたティーポットから、その隣に並べてあるふたつのティーカップに同じ量の紅茶を注ぐ。




「はい」



「ありがとうございます」




私の座る前に置かれた紅茶の入ったティーカップに手をかけて、口をつける。




「………おいしい、です」




メティルさんが淹れてくれた紅茶も、文句のつけようがないほど美味しかった。



けれど、ゲイルが用意してくれた紅茶はその上をいった。




「口に合うようでよかった。それよりも、キミに聞きたいことがあるんだが、いいか?」



「はい」




頷きながら、ソーサーの上にティーカップを置く。



居住まいを正して、ゲイルの澄んだ瞳を真正面から見つめる。




「キミの名前はなんだ?」



「私の、名前………」



「あぁ」




私の、名前。



あれ。



私の名前は、何?



しかも、森の中を走る以前の記憶が、ない。



なんで?



どうして?



全部の記憶が、ないの?




「ゲイル………」



「どうした?」



「私、は………私は何者なのですか?」



「どうしたんだ、急に」




驚いた表情をしたゲイルは、持っていたティーカップを置いて私が座る隣に腰掛けた途端、私は彼の香りに包まれた。



抱きしめられていることを自覚すると、彼のぬくもりが余計に涙を誘う。




「私っ………何も、ないんです。何も思い出せないんです………!自分の名前も、生まれた国も、何もかも、解らないんです………っ」




取り乱して泣きじゃくる私の背中を、ゲイルが撫でてくれる。



優しい手つきで。



彼は、すべてが優しい。



些細な仕草ひとつでさえ、優しすぎる。



その優しさで、私を包み込んでくれている。



出会った瞬間から、ずっと。




「なら、私がキミに名を与えよう」



「名前………ですか………?」



「あぁ。私からの名は、嫌か?」



「………嫌じゃ、ないです………」




そう答えると、ゲイルは私の身体を離し、頬に伝っている涙を指先で拭ってくれる。



優しい笑みを顔に浮かべて、今度は私の頭を撫で始める。



そして、ゆっくりと、はっきりと、私に言い聞かせるように、ゲイルは言葉を紡いでいった。




「ならば、キミの名は__________」











懐かしい夢を見た。



"私"が、生まれた日の記憶。



天蓋に囲まれたベッドの中、一人目覚める。



暖かな陽射しが、部屋の窓を経由してベッドの中にも差し込んでいる。



そんな暖かなベッドで身体の上体を伸ばしてから、天蓋の外に出る。



窓に近づいて、カーテンを引いた。



途端に、朝の陽射しと風で部屋の中が満たされる。



深呼吸をしていると、二回叩かれた部屋の扉。




「はい」




返事をすると、両開きの扉の片側が開いて、使用人の一人が現れる。




「おはようございます。__________シルヴァレータ公女殿下」




静かに、けれど緊張を含んだ声で、"私"の名を呼んだ侍女。



今日もまた、日常が始まる。

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