第4.1話 華の宿り木亭
後日追加したお話です
逃げるように入国を果たしたセロは、街門を入ってすぐの大通りで息を整えていた。
「あぁ~、なんとか逃げれたな。にしても、あの夫婦にはかなわんなぁ。 なぁ?」
すっかり太陽も沈んでしまった頃だというのにユグドラシルの大通りには明かりが灯り、多くの人が行き交っている。大通りを明るく照らしているのは魔法の明かりを放つ街灯だが、これだけ多くの人が夜に出歩くということは、この街が安全だという証明でもある。
セロの話し相手はもちろん、肩の上のローザであった。意味がわかっているのか、いないのか、ローザはにこやかにうなずいる。
「さてと、どうするかな…。もう時間も遅いから先に宿取っといたほうが良えやろな。」
こんな時間帯に魔物小屋が開いていいるのかはわからない。それに、ジローナの話ではこの街は結構な賑わいがあるようだった。それならば、街中の宿屋が満室になってしまう前に宿を取っておいた方がいいであろう、とセロは考える。まぁ、すでに夜中なのだから、すでに手遅れという可能性もあるのだが。
「ここは宿屋なんかな?」
というわけで、宿屋を探し始めたセロは大通りに面した大きな建物の前に立っていた。この世界の文字も読める自分にとっては宿屋探しなど簡単なものだろう。そこらの建物に取り付けられている看板を見てみればいいだけなのだから。そう思っていたセロだったが、実際の宿探しは難航していた。色々な看板が目に入り、そこに書かれた文字も読める。しかし、看板には店名が書かれているだけで、何の店だかがわからなかったのだ。
セロは目の前の大きな建物が何かしらの客商売を行っているということは雰囲気でわかるのだが、宿屋もやっているのかどうかがわからなかった。不安に抱かれながらセロが見上げている看板には“蝶の宿り木亭”とだけ書かれていた。
「ジルさん…助けて。」
この建物、中がガヤガヤとしていて、非常に入りづらい。セロが立ち呆けている大通りまで店内から漂う酒の臭いが漂い、ガチャガチャと食器がぶつかる音が聴こえてくる。ここが酒や食事を扱って客商売をしていることは間違いないであろう。しかし、この世界の常識を知らないセロが入って行っても大丈夫な場所なのだろうか。セロは救いを求める様にジローナの地図を握りしめる。
セロが握りしめるジローナの地図は、正直あにならなかった。魔物小屋は大通りに面しているのであろう、異邦人のセロにもわかりやすいようにと、簡素に描かれた地図は、大通りを示す棒線と、その両端に丸が二つ書かれているだけだった。二つの丸は街門と魔物小屋を表しているのだが、その距離感さえわからず、目立つ建物の情報等も一切ない。よくよく考えれば、この程度の内容ならば、口で言った方が早かったのではないだろうか、「街門を出て大通りをまっすぐ行けば、右手に魔物小屋が見えてくるさね。」といった具合だ。おそらく、貴重なアイテムに対して感謝を伝えたいと張り切った結果がこの地図だろう。
「…まぁ良えんやけどね。」
そんな役にも立たない地図を懐にしまったセロは意を決して、“蝶の宿り木亭”の扉を開いた。
そこはやはり、酒場であるようだった。セロは安堵の表情を浮かべる。どうやら、いきなり早打ちガンマンに狙い撃ちされるような場所ではないようだ。安心しきったセロは宿屋かどうかを確かめる目的も忘れて、異世界の生活をぼんやりと眺めていた。
ガヤガヤと騒がしい雰囲気の酒場には色んな人間がいる。人間だけでなく、明らかに獣人族と思われる者もいた。ファンタジーの世界に憧れる者ならば一度は会ってみたいと思う種族、獣人族はそういった種族の一つであろう。生前、そういったものが大好きだったセロも輝きに満ち溢れた眼差しを獣人達に注いでいた。
しかし、セロはそんな憧れの種族を見つめて暗い気分になってしまった。ここに居る獣人達はその手足に枷を付けられていたのだ、おそらくは奴隷なのだろう。
こんな光景を見られているのは誇り高い獣人にとっては酷なはずだ。セロは自分の知識にある獣人像でそう判断して、憧れの種族から視線を外す。そして、本来の目的をなす為に受付へと進んで行った。
「お姉さん、ここって宿屋もやってんの?」
「あん?」
受け付けで煙草を吹かしていた、到底、お姉さんと呼ばれるような年齢ではない女性が、仏頂面でセロに目を向ける。
「お姉さん?」
「うん、部屋借りれるんやったら借りたいんやけど、それと、簡単な食事は…この酒場で取れるんかな?」
セロは入り口から店内を見まわした時には、“蝶の宿り木亭”が宿屋であることを理解していた。ここは二階につながる階段があり、その先には小分けになった部屋がいくつもあった。その部屋の扉には番号が記されていたのだが、ここが宿屋でなければなんだろうか、セロはそんな確信を得ながら話していた。
「あぁ部屋ね…まぁ、ウチは確かに宿屋もやってるからね、大丈夫だよ。宿泊だけなら値段は800G、夕食代金込みだけど良いかい?」
お姉さんという言葉が自分に向けれたものだと悟った仏頂面の女性は、若干やわらかくなった表情で説明してくれた。やはり“お世辞”というのは、どんな世界でも共通の武器になるようだ。
「十分ですわ、ほな一泊お願いします。」
宿泊料金が高いのかどうかなんて、セロにはわからない。比べる対照を知らないのだから当たり前だ。それよりも、簡単に宿がとれたことに安堵していたセロは、ふと首を傾げる。支払いはどうすればいいのだろうか、そんな戸惑いを見せているセロだったが、受付のお姉さんは訝しがる様子も見せずに優しく諭してくれた。
「ウチのクリスタルはそこにあるよ。軽く触れてくんな。」
クリスタルとは、この世界での電子財布のようなものだ、タッチするだけで金銭の行き来が可能な機能は、ジローナとのやり取りの時も経験していた。どうやらお金のやり取りは全て、このクリスタル経由で行えるようだと悟ったセロは、自分のクリスタルでそっと触れる。
「あいよ、そんじゃあこれが部屋の鍵だよ。夕飯はウェイターに部屋の鍵を見せればいいからね。悪いけど、メニューは選べないよ。選びたかったら、別で支払ってくんな。他の商品も酒場に降りてくれば選べるようになってるよ。」
「いえ、用意してもらえる料理で良えです。ほな、また後で。」
「ふ~ん、受け身な男なんだね。」
そういって二階に向かうセロに受付のお姉さんが笑顔で手を振ってくれていた。元の世界では頭を下げて客を見送るが、この世界では手を振るのだろうか、まぁ、大きな違いはないから受け入れやすい。
部屋は本当に寝る為だけの造りだった。一人用のベッドと小さな丸机がおいてあるだけだ。どうやら壁の造りもそれほどのようで、隣の部屋から物音が聞こえてくる。何かしらの作業をしているのだろうが、食事が終った頃には静かになっていて欲しいものだ、今日はゆっくり休みたい。部屋には換気用の窓はあるが、取り付けられている位置が高く、大きさも手のひらサイズしかないので、外の景色を見ることも出来そうにない。まぁ、外には闇が広がっているだけであろうが。
部屋でくつろぐことの出来ないセロは荷物を置いた後、すぐに一階の酒場へと取って返す。そういえば、ローザは寝てしまっていたので、毛布を掛けて置いてきた。
「すんません、配膳をお願いします。」
「っ…!? わかった。」
セロはウェイターに部屋の鍵を見せていた。ウェイターは女性の犬の獣人だった。奴隷として働いているのだろう、足枷が付けられていた。
(たぶん、存外な態度で扱われてんのやろな。)
セロは普通に接していただけなのに、ウェイターは驚愕の表情を浮かべていた。最初はその表情の意味がよくわからなかったが、去り際の尻尾を見た時になんとなく喜んでいるような気がした。
それにしてもこの酒場には人が多い。酒場としてだけではなく、宿屋としてもなかなか繁盛しているようで、食事を終えたのか、酒瓶片手に二階へと上がって行く男女も多いようであった。宿をとるのであれば、冒険者や旅人と言った人間が多いと思っていたセロだが、二階に向かう人間の中には到底旅にそぐわないような煌びやかな服装をした人間もいた。そういった人間が奴隷を連れていることも多く、部屋の前で護衛をするように立ちんぼになっている獣人もいる。もしかすると、宿屋に泊るのは金持ちのステータスになるのだろうか。
そんな人間観察をしながら、この世界の常識について思案していると、ウェイターの獣人が食事を運んでくれた。
「ありがとう。」
セロのお礼の言葉に再度驚いたのか、大きな目をパチパチと瞬かせている獣人がいた。獣人は黙したまま、しばらくその場に留まっていたので何か話があるのだろうかと首を傾げるが、特に返答はない。まぁ、とりあえず食欲を満たそうと固いパンを引きちぎり、スープに浸して食べる。食事は想像していたよりも美味しかった。パンが硬いのと、スープは少しだけ灰汁っぽかったのだが、野菜の味が色濃く染み出たスープは食べたことのない深みがあった。
「うん、いい感じや。」
この食事はこのウェイターさんが作ったものなのかもしれない。セロの食事の様子を覗き込むようにして伺っていたのだ。セロは美味しいと感じてはいるのだが、それをどう表現して良いかがわからないまま、思ったことを口にした。それでも満足したのか、獣人は笑顔を浮かべて仕事へと戻って行った。
そんな獣人の尻尾を眺めながらのほほんとした雰囲気を浮かげていると、入れ替わるようにセロへと向かってくる女性がいた。
「どうだい、うちの飯はうまいかい?」
そう言うのは、先ほど受付に居たお姉さんだった。
「空きっ腹に染み込んでく味ですね。」
「そうかい、そりゃ嬉しいね。ところでアンタは用意して欲しいって言ってたけど、本当にこっちで選んでいいのかい?」
「??」
セロは首を傾げてお姉さんを見つめる。このお姉さんは何のことを言っているのだろうか。
「どうしても指名するのが嫌なら、私なんてどうだい?」
「指名…ですか?」
そこまで、口にして何かに気付いたセロは周囲を見回す。この店を良くみれば「ドンペリ入りました~」的な雰囲気が漂っているではないか。そして、二階に上っていくのは男女の周囲にはピンクなオーラが漂っている。
セロは異世界ということや、獣人族の存在に目を奪われて選ぶ店を間違えてしまったのかもしれない。セロはお姉さんが訝しがるのも構わずに、大きく見開いた瞳で周囲をキョロキョロト見回していた。そして、目の前のお姉さんへと視線を戻したセロは、年輪の刻まれた表情で妙に艶のある吐息を吐きだす女性を見た。
一体何を想像しているのだろうか、セロの顔が青ざめ始める。目の前の女性をお姉さんと呼んではいるが、実年齢はいつお迎えが来てもおかしくないような方に違いない。それはセロの範囲外内の方だということなのだ。
「あっ、いや僕は寝に来ただけなので、そういったのは別に良えんです。それに金銭に余裕があるわけでもありませんし、未熟すぎて懐的にも男としても、お姉さんみたいな美しい方には釣り合いませんて。」
なんとかしなければ、この体がとんでもないことになってしまう。冷や汗を流すセロは一気にまくしたてた。
「ふふふ、嬉しいこと言ってくれるじゃないか、アンタならタダでやってあげてもいいんだよ? 昔の私はこの街一番の稼ぎ頭だったんだ、優しく教えてあげるよ?」
セロの動揺具合が熟女の琴線を刺激したらしい。熱した視線をひっさげて、艶っぽさをましたお姉さんが顔を近づけてくる。
(ここでお姉さんに教育してもらったら、どうなんねやろ…同年代の女性では満足出来んようになってしまうかもしれん。…そっ…それはそれで得難い体験なんかも知れんけど、アカン。アカンねや。)
妙に艶のあるお姉さんが接近してきたことで、身体のどこかが若干反応し始めた。無知な自分が恥ずかしすぎて穴があったら入りたい、そんな気分を抑える為に、セロは必死に言い聞かす。
「いや、やっぱりお姉さんは僕にはもったいないですわ。今日、授業を受けてしもたらお姉さんの高等技術がどれほど凄いものなのかを理解できへんでしょう。まだまだ青臭い自分はもう少し修行を積んでからお姉さんをもらいに来ます。僕のわがままですが、そん時はお姉さんに見合う十分な授業料をお支払いしますので、それまで待っていてくれませんか。」
これで納得してもらえるのだろうか、セロは滝のように流れる冷や汗を感じていた。
「ん~そうかい? 私もいつまでも待てるわけじゃないんだけどね…まぁ、そう言うなら、早めに来てくれなよ。」
どこか寂しそうな微笑を浮かべながらお姉さんは去って行った。どうやらセロは窮地を脱したらしい。
セロは唐突に訪れて、唐突に去って行った窮地に呆然としてしまう。激しい動悸が収まって、自我を取り戻したセロは残りの食事をかっこんで、自室へと走りかえって行った。
そこで訪れた更なる試練、隣室から聴こえてくる物音を聞かないようにセロは布団の奥に入り込んで眠るのだった。