第12話 獣の性たる故に
走った。
走った…。
奇妙な悲鳴を上げながら、
来た道を振り返ることなく、ただ走った。
つまずいた。
転んだ。
顔面から滑り込む。
鼻が擦り切れるが、セロには痛みがわからない。痛覚をなくしてしたさまったように何も感じないのだ。
そのまま地に伏して、虚ろな瞳に陥るセロ。縦に擦り剥けた鼻の傷から血が滴っている。
それでもセロは感じない。
景色が色を消していく。
代わりに闇が訪れる。
色も匂いも音すら奪い、ひたすら自分を守るため、闇の中に沈んでいく。
存在する意味すら失われ、いつしか闇と同化する。
自らゆっくり、ゆっくりと、堕ちていくように自分を消す。
闇の中にゆっくり、
ゆっくりと…。
…
…
…
…
…ゅ…。
…ぴ…。
何だろう、聞いた覚えのある音だ。
キュピ?
闇の中で心地良い音が鳴っている。
ピ〜。
何だか寂しそうだ。どうしたんだろう。
ピぃぃ〜ッ!
うるさい…。
キュピュ〜ッ! ピッ〜!!!
…
…
「…ぃ…たい…?」
ピ〜!
「…痛い! 痛いわ!!」
痛みに反射的に身体を起こしたセロ。目の前にいるのは小さな白いドラゴン。
「いったぁぁぁ〜!!!」
目の前にフヨフヨ浮いていたドラゴンがセロの鼻頭に噛み付いた。擦り剥き、血が滲み出ている傷に牙が食い込む。
痛みで転げ回るセロだが、ドラゴンは噛み付いたまま離そうとしない。
「痛い、痛いって!! ローザぁぁぁ〜!!!」
他人事のように響いていた自分の声が、ローザの名前に反応する。
瞳に写っていたドラゴンを、頭がローザと認識する。
「痛いって!! 良え加減、離せやローザ! 戻ったから!! …ったい! 噛み付くの止めろ!!」
ピ〜ッ!!
噛み付くのは止めたローザだったが、今度は蹴りと尻尾の連撃だ。
キュピ〜ッ!!
「痛いねん! 痛いねん! いだぃぃ!!!」
止まない攻撃に、セロは涙目になってうずくまる。頭を両手で覆い、腹の下に脚を丸め込む。無防備な背中を狙って、ローザは未だに蹴り続けている。
ピ〜ッ!
ゲシゲシ
「止めてぇ。」
ゲシゲシ
「止めてくれぇ〜。」
ゲシゲシ
「止めて下さいぃぃ〜!!」
ピ〜ッ!!
「くっさぁ〜!!」
やっと怒涛の連撃が鎮まったかと思うと、今度は強烈な刺激臭がセロを襲う。
「お前っ! ローザ!! それ、臭い玉やんけ!! 何勝手に取り出しとんねん!! くっさ、オェ…くっさ!」
流れる血で詰まり、マトモに呼吸出来ないセロの鼻でも、ヘドロを凝縮したような臭いだけは通ってくる。吐き気を促す臭いに、何がなんだかわからなくなる。
ローザはそんな臭い玉でキャッチボールでもしたいのか、何度も何度もセロにぶつけてくる。
セロにぶつかるたびに、強烈な刺激臭の煙を吐き出す臭い玉。
「止めろや、何やっとんねんお前はっ!!」
キュピ〜!!!
怒ったような表情で、ローザはボスの間へ続く通路を指差す。
「何や? 助けに行けっていうんか? ほっといてくれ! 僕はキバに捨てられたんや! 今更行っても迷惑なだけやろ。ただ…死体がもう一個増えるだけやないか、僕の死体がな!!」
セロの捨て鉢な台詞にローザの怒りがヒートアップ! 仁王様すら真っ青な形相で炎の鉄槌を浴びせかける。
「熱っっちぃ〜!!!」
ゴロゴロ転がり火を消すセロは、誰かの声を聞いた気がした。
「お前は僕を殺す気かっ!!」
ピ〜ッ!!
「だから行っても意味ないて! 口から湯気たててまで怒るなや!」
ピ〜ッ! ピ〜ッ!
「アッつぃ!! 止めろや! ピーピー、ピーピー、お前はヤカンか!?
オカン! ヤカンが湯気吹いとるで!? って、何で一人でボケとんねんっ!!」
ピ〜ッ!
「熱いっちゅ〜ねん! オモんなかったんはわかっとるわ!
っっ…熱っっ!! お前はぁぁ!!」
バシッ!!
セロはローザに手を上げた。ブタれたローザは宙を舞い、地面に落ちて怒りを込めた顔を上げる。
両親を知らないローザはもちろん、父親に殴られたことなどないだろう。
クピュ〜…。
顔を伏せ、頼りなく鳴くローザ。
「あっ…。」
小ドラゴンの怒りの声が止んだ。セロの叫び声が途絶えた。先ほどまでの喧騒が嘘のように、唐突に沈黙が訪れた。
小さなドラゴンの瞳が潤んでいる。セロはジンッと痛む手のひらを意識する。
「あの…すまん。絶対にやったらアカンことをしてもうた。こんなことせん為に言葉があるのに、僕は…伝える手段を間違えた。ホンマにすまん…。」
クピィ…。
申し訳なさそうなセロの視線を捕えたローザは、その首を通路に向ける。ここぞとばかりにセロの罪悪感に訴えかけるとは、なかなかローザも賢しいようだ。
「…。」
罪悪感。
たったいま小さなドラゴンにしたように、肉体的な苦痛を与えたわけではない。キバを殴ろうと思った事すらない。それでも同じような罪悪感がセロを苛む。「キバに捨てられた。」自分で口にした言葉を心の中で反芻する。自分は本当にキバに捨てられたのだろうか。キバは必至で自分のことを頼ろうとしてくれたのではないのだろうか。
死ぬかもしれない…間違いなく死ぬだろう。扉越しに見た黒狼は恐怖を押さえ込んでも到底勝てそうな相手ではなかった。何せ早過ぎて、何も見えなかったのだから。その姿を見る前にボスだというだけで感じた恐怖、あの黒狼はセロの想像を上回っていた。
速度はそのまま力となる。あれだけの速度で体当たりでもされたならば、交通事故も真っ青のダメージを受けるのではないだろうか。
でも、そんな無謀な戦いに一人で挑んでいる友がいる。こんなヘタレの自分をギリギリまで奮起させようとしてくれた奴がいる。
「…わかった。僕も男や、腹くくろっ! …ふ、二人でやったら何とかなるかもしれんしなっ!!」
声が震えている。怯えているのが丸わかりだった。
「…。殴ってしもうたけど、一緒に来てくれるか?」
ピィ〜ッ!!
元気な声で一声鳴くと、セロの肩、マイホームへと舞い戻るローザ。元から全身を恐怖で震わせているセロだったが、ローザが左肩に触れた瞬間、その震えを余計に自覚してしまう。
セロは大きく深呼吸をした。
震えていても良い。動いてくれれば良い。空気中に漂う勇気を集めるように、大きく、ゆっくりと息を吸い込んだ。ツンとした刺激臭が鼻を刺激する。セロは周りの状況が見えてきた自分に安堵する。そんな感覚を思い出させてくれた玉に目線を移す。
セロは臭い玉を拾い上げて、顔を上げた。
「…っっ!! そうかっ!
僕はなっっんてアホなんや。相手は狼やんけ、嗅覚鋭いデカワンコや! こんな当たり前のことに気付かんかったなんて…。
ローザ! 急ぐで! 死に急ぎの脳筋猫に頭の使い方を教えたらなアカン!」
(やっと気付いたか、バカめがっ!)
何てことをローザが思っていたら嫌なのだが、なんとなく、セロはローザに踊らされているような気がしてしまう。
セロは走る。
小さな希望を見つけたから。それがどの程度の効果があるかもわからないのに、希望に縋り付いて走る。ボスへの扉は開いている。その前にキバの姿はもちろんない。
「僕が来るのを待つ訳ないか…。アイツの期待裏切ってもうたもんな。」
セロは入り口で中の様子を伺った。
「キバぁぁ〜!!」
ちょうどその時、黒狼に胸を割かれたキバは、崩れるように倒れるのだった。
全身から血を流しているのが、ここからでもわかる。比べて黒狼に傷はない。素早さに長けたキバでさえ、この黒狼には手も足も出なかったようだ。
黒狼は倒れた白猫に最期の一撃を加えようと、注意深く近づいていく。
「させるかバカ犬!! 喰らえっ! 魔物玉!!」
紅白のボールではないが、中からポケットサイズのモンスターが出てきそうな勢いで臭い玉を投げつけるセロ。
臭い玉は黒狼に当たることはなかった。が、それはセロも期待していない。地面とぶつかった衝撃で臭い玉から紫色の煙が舞い上がる。部屋の外にいても鼻がもげそうな臭いがボスの間を埋め尽くす。
煙が晴れると、鼻頭を抑えて転げ回る黒狼がいた。
「よっしゃ! キバ、待っとれよ。あんなワンころ、すぐにぶっ倒してやるからな!」
予想通りの展開を確認したセロは、ようやく一歩を踏み出した!
友のピンチに関わらず、ここまで頑なに部屋の中に入ろうとしない辺りがどうしようもなくヘタレである。
転がり続ける黒狼に一気に近づいたセロは無抵抗な敵を叩きまくる。
両手に剣を装備して、何も出来ない黒狼に全ての恨みを叩きつける。
「お前の所為で鼻血が出たんや! ローザに火ぃ吹きかけられたんや! キバに愛想尽かされたんや!!」
見事な責任転換だった。
青ムニの剣と、初期装備の鉄の剣が青と白の光を反射する。
「がっはっはっはっ!! この世は我のものだ! 悔しかったら抵抗してみるが良い!!」
調子にのって、何処ぞの悪役のような笑い声を響かせるセロだったが、実は内心必死だ。
臭い玉の効力が切れれば、黒狼に対抗する力はない。短期決戦でケリを着けるために二刀流を選んだのだ。
「くそっ! はよ死ねや、はよ、いんでまえ!!」
なかなか死なない黒狼に焦りが大きくなったのか、両足までも使い出した。
「くらえっ! セロ流、四刀流!!」
格好良さげな技名を叫んでみたが、両手を振り回し、両足をバタバタさせている姿はあまりに滑稽だ。そもそもセロの両足は刀ではない。一体どこが四刀流だというのだろうか。
それでも、必死に殴り続けるセロの願いは天に届いたようだった。黒狼は鼻頭を抑えたまま、悲痛な断末魔を上げると、輝く塵に姿を変えた。
滑稽な方法で倒されたのが黒狼のプライドを傷付けたのか、最期の瞬間、黒狼の瞳には輝く水滴が残されていた。
「はぁ…はぁ…はぁ。がっはっはっはっ!! 黒狼、討ち取ったりぃ!!」
両手を天に突き出し、声高らかに勝鬨を叫んだセロは、思い出したかのようにキバのもとへと走る。
「キバ!! キバ!! 大丈夫かっ!? 返事せぇ!!」
返事はない。屍でもない。
呼吸はしているが、意識のないキバは、全身を朱色に染めて横たわる。黒狼の一撃がキバの胸を縦横に切り裂いていた。土色の装備で防御力は格段に上がっている筈なのに、胸当てごと割かれた傷はかなり深い。
一刻の猶予もなさそうだ。
「くそっコレどないしたら良えんや!」
一目で重症だと見てとったセロは、すぐに薬草を取り出した。薬草片手に悲痛な声を上げるセロ。どうみても、今のキバは薬草を飲み込めそうに無い。
「くそっ! 噛み砕いて口移しかっ!?」
アカン! それはヒロイン登場までとっとかなアカン!!
こんな窮地にバカな事を考えるセロ。セロの中ではどうしても譲れない事らしく、他の方法を思案する。
ちなみに、口移しでも効力はある。
「何やねん! 僕ここ来たばっかやぞ!? こんなん何もわからんねんぞ!! 友達キバしかおらんねん!!」
それなら、口移しすれば良いと思うよ。
「くそぉぉぉ!!!」
苦し紛れに薬草を傷口にのせてみるセロ。どうしても口移しはヒロインまで温存しておきたいようだ。
すればいいのに…フレンチキッス。
男同士で…。
傷口の上に乗せられた薬草は、先程の黒狼のように輝く塵へと姿を変える。傷口が心なしか癒されているようだ。
「良えんか? これで良えんか? 良えんやな!? 薬草なら捨てる程あるんじゃボケぇぇ!!」
ジュラルミンケースから腐る程の札束が放り出されるように、百を超える薬草が皮鞄から吐き出される。青ムニ戦で手に入れた全ての薬草を惜しげもなく使用する。
山のような薬草に埋れたキバは顔だけちょこんと出している。さながら眠れる薬草のお姫様だ。ここで目覚めのキッスをプレゼント!
とはいかないのが残念だ…。
「…どや?」
不安気に見守るセロ。
瞬間、眩い光がキバを包み込む。閃光弾を超えるような光に視界が真っ白になったセロは、浮遊城での誰かのように、目を抑えて騒ぎ立てる。
ボンヤリと視界が戻った瞳に、すっかり傷口が塞がったキバの姿が映し出された。
「キバぁぁ!!」
胸に耳を当てる。力強い心臓の鼓動が聴こえる。
「生きとる! 生きとるで! 良かった…良かったなぁ…キバ。」
また視界がボヤける。
涙で視界がボヤけてしまう。
キバの名前を叫びながら、しっかり抱きしめ涙を流す。
「…せ、ろ…?」
あまりの騒ぎにキバが意識を取り戻す。
「てめぇ!! 離れろヘタレ野郎! お前とは絶交だ!!」
「アカンて! 安静にしとかな!」
目が覚めていきなり大声を上げたせいで、目眩が起こるキバを、セロが優しく諭す。
意識のないキバを揺さぶって安静にさせなかったのはセロなのだが…。
まぁ、祝いの席に野暮な言葉はなしにしよう。
「黒狼はっ!?」
「大丈夫や。もぉおらん。」
「何で!? お前がやったのか?」
「そうや。僕がいてもうたった。キバの分も殴りつけといたったから安心しぃ。」
自分が手も足も出なかった相手をヘタレが一人でトドメを刺した?
にわかには信じがたい事実にキバの目が泳ぐ。確かにここはボスの間で、黒狼の姿はすでにない。それでも事実を飲み込み難く、部屋中のあちこちを見渡していたキバの瞳が一点に留まった。
二股人参のようなその姿。今の内にコソコソ逃げ出そうとしていたその根っこは、視線が合って凍りつく。
キバの様子がおかしいことに気付いたセロは、視線の先を辿る。
「「あぁ〜!!!」」
二人の叫び声は全く同時だった。
凍りついていたマンドラゴラ。
二人が探していたその魔物は、二人の叫び声に驚き、ノミの心臓でショック死してしまう。
幸運にもーーセロにとっては当然かもしれないが、攻撃判定はセロに下り、ついに目的の秘薬、マンドラゴラの根を手に入れたのだった。
余談だが、この階層にはボス以外には、マンドラゴラしか出現しない。しかし、ノミの心臓のマンドラゴラは黒狼の気配だけでショック死してしまうため、黒狼が生きている限り姿を現すことがないのだ。
二人は秘薬を手に入れた。
ついでに犬たる習性か、黒狼が隠していた埋まった宝箱も見つけてしまった。
宝箱の中には入手困難、奇跡の秘薬、マンドラゴラの根が千を超えて隠されていたのだ。
黒狼は勇者の現れないボスの部屋で退屈な日々を送っている間、知らず知らずの内に大量に手に入るマンドラゴラの根を持て余していたのかもしれない…。
いつもご愛読いただき本当にありがとうございます。
このお話で“第1章 秘薬マンドラゴラ”が終わります。
また、リアルの仕事が忙しくやはり週に2回の更新は難しい為、次章より週1で月曜日の更新となります。
日々の生活の中で、私の小説に憩いを求めておられる方々には申し訳ございませんが、ご理解願います。