4話 美世さんの優雅な一日。
ある朝、美世はいつも通り小鳥の声で目を覚ました。開けたカーテンの隙間から注ぎ込まれる陽の光が、薄暗かった部屋を明るく照らした。電気ケトルに水を入れてお湯を沸かす。その間に顔を洗い、寝巻きから私服に着替えるとお湯の湧いた音が響く。サッとインスタントコーヒーの粉を取り出すと、お湯を注いだマグカップにサラサラと流した。ゆっくりかき混ぜて、ブラックコーヒーの香りを楽しむ。
美世の1日の始まりは、いつもこうだ。コーヒーの香りで眠気を覚まし、さて今日は何が起こるのかと考えを巡らす。いつもいつもこのエノキコーポラスには騒ぎが絶えない。何をしようとしなくても、何かが起こってしまうのだ。そしてそれが美世の楽しみでもある。
そう、まさにその時であった。訪問者を知らせるチャイムの音が、狭い1Rの部屋に響く。はーいとのんびり返事をしながらマグカップをテーブルに置き、その招いた覚えのない客の確認のため玄関に向かった。
ガチャリと開けられた扉の先にいたのは、40歳半ばほどの男性が一人、真っ赤な薔薇の花束を持って立っていた。
「美世!あの女とは離婚した。結婚しよう!!」
自信満々に差し出されたその花束。本数は恐らく100本もありそうに思える。薔薇の香りが鼻腔を擽る。男は今世紀最大のキメ顔で、美世の返事を待っていた。
その男の顔を見て、そしてその花束を見て、美世は首を傾げた。その品やかな指で顎をなぞると、やっと口を開いた。
「あら……。あなたはどなたかしら?」
その言葉に、一瞬時が止まったかのような沈黙が訪れる。バサっと、花束の落ちる音がした。
「……………………え?」
間抜けな声が響き渡る。今日という日も愛も変わらず、慌ただしいエノキコーポラスの1日が始まった。
「榎井一元です」
「さ、桜志緒です……」
お茶の匂いの漂う6畳一間に、志織と先ほどの男が向かい合って座っていた。襟がパリッとしている高そうなスーツに、バリバリに固められたオールバック。キラリと光るのは金箔だらけの腕時計。どう見ても場違いである。志織は肩身の狭い思いを感じつつ、なんでいつもじいやの部屋なのだろうと首をかしげた。
じいやがコトリとお茶を置く。短く礼を言うと、一元と名乗った男はまるで酒を一気飲みするかの如く飲み干すと、湯呑みをちゃぶ台に叩きつけた。
「どうしたら、美世に思いだじでも"ら"え"る"の"だろ"ゔがああぁぁぁぁ!!」
声をあげて泣き崩れる。見た目の印象との良くないギャップを感じ、志緒はヒッと小さく悲鳴をあげた。若干体も引く。まるで酔っ払いのように泣きじゃくる一元の姿には、なんだかちょっと偉そうな人という印象は払拭された。むしろ、かなり親近感が湧く。
「うーん……。一元さんは美世さんとお付き合いしていた頃、どういった風に接していましたか?」
だいぶ一元の状態に慣れた志緒は、小さな子供にしてやるように彼の背中をゆっくりさすっていた。だいぶ落ち着きを取り戻した一元は、うーんと唸りながら首を傾げて考え込む。
「食事を奢ったり、プレゼントしたり……」
それって貢いでるんじゃ……。と、喉まででかかった言葉には丁重にお帰り頂くようお願いする。けれども一元の口から出てくる言葉はどう聞いてもそのようにしか聞こえない。美世も悪い女だったのだなあと溜め息を吐いてみても、一元は本気で必死のようであったし、その様子がかなりいたたまれない。
止まらない一元の貢ぎ話しを聞き流しながら、志緒は思案する。自分だったら、どうしたら貢いでくれた男の事を思い出すだろうか。いや、そんな経験など皆無なため、全く思いつかない。
「同じことをして、思い出してもらいましょう!」
思いついたのは、当たり障りのない方法しかなかった。それを聞いた一元も、それはいい考えだと手を打つ。美世さん、早く思い出してあげてください。と志緒は天に祈った。
最初に思いついたのは、花を贈るということであった。最初の時点で失敗しているのではないかと危惧した志緒に、思い出の花を渡せばきっと思い出してくれると一元は意気込み早速と花を買いに外へ向かって行く。すぐさま追いかけた志緒を横目に、一元はなぜか上機嫌であった。
「薔薇の花言葉はいくつかあってね、桜くん」
「は、はい?」
歩きながらも一元は語る。一歩一歩が大きい彼に追いつくため、志緒も小走りになる。
「私が送ったのは108本の薔薇なのだが、その花言葉は『結婚しよう』なんだ」
得意げにウンチクを語るその姿には、やはりお金持ちで偉そうな人という印象はない。むしろ、クラスの人気者になりたがる中学生男児のようであった。
「てことは、あの花束だけでもプロポーズだったんですね」
「そういうことだ。けれど私はロマンチックにプロポーズをしようとするあまり、大切なことを忘れていた」
熱く語る一元を尻目に、それは一般人的な感覚なのではないのかと志緒は胸の内で思う。誰でも見知らぬ(この場合は覚えていないだが)相手から108本の薔薇を渡され、「結婚しよう」だなんて言われたら驚くだろう。というかむしろ引くだろう。最終的には警察沙汰になりかねない。
「美世に対する愛だ!」
そんな志緒の考えなど露ほども知らず、一元は本当に元気良く言い切った。
「愛、ですか」
「そうだ、愛だ!美世はそれを思い出させようとしているのだ!!彼女への愛を持ってすれば、プロポーズなど完璧!!薔薇の力など必要ないのだ!!!」
イマイチ納得のいかない志緒など目もくれず、朗々と捲し立てる。理解できない志緒は首を捻るばかりだ。
そうして辿り着いたのは、エノキコーポラスか、少しだけ離れた小さな花屋。ここの主人である老父とは買い物帰りに挨拶をするぐらいの間柄だ。
「すまない、この金額で最高の花束を作ってくれ」
と言って、一元は花屋の主人に3万を渡した。志緒と花屋の主人の動きが止まる。
さんまん?花束に? 金持ちの感覚はわからない。主人と志緒は顔を見合わせた。こんな小さな花屋には大層な花なんて置いてない。そんなことを知らないようで、一元は続ける。
「花は、ラズベリーとアイスランド・ポピーとチューリップと………」
ズラズラと述べられる花の名前はどんどん聞いたことのないものまで増えていき、とうとう花屋の主人が泣き出すほどであった。その様子を見て反省したような一元は、後は主人のセンスに任せると一旦花屋の外に出る。とは言っても、ここの花なんて高が知れている。そうなると3万の価値を出すためにはどうしても量を増やすしかなく、主人も頑張って指定された花を使ってはみたが、出来上がったものはそれはそれは大きなはなたばであった。
「この花は全て美世の好きな花なんだ」
「あ、そうなんですか」
今まで見た中で1番の大きさを誇る花束を見て、志緒も何を言っていいかわからないようであった。その大きさは、おそらく薔薇108本の花束を超えるであろう。色とりどりで綺麗ではあるが、なにぶんでかい。こんなもの渡されたら困るなというのが、志緒の正直な感想であった。
一方何故か上機嫌な一元は、その大きな花束を大切に抱えては走り出しそうなほど軽い足取りでエノキコーポラスに向かっていた。成功する気満々のようだ。好きな人と結ばれる為ならば、3万円の花束を用意することなんて、何の苦でもないのものなんだろうな。金持ちは。志緒は思う。けど、自分が金持ちだったら……。ダメだ、想像がつかない。
「さあ美世、受け取ってくれ!!」
チャイムを鳴らして数秒で出てきた美世に、その花束を突き付ける。花の匂いが三階の廊下中に広がった。しかし、美世は受け取ろうとしない。
「あら、素敵な花束……だけど、ごめんなさい。私、花は苦手なの。匂いがキツイんですもの」
バサっと花束が落ちる。3万円が廊下に散らばって行く。そこなんですか、美世さん。志緒は心の中で突っ込んだ。
「え、映画なんでどうでしょう?ロマンチックな映画でも見てたら、思い出してもらえますよ!
「そ、そうだな!そうしよう!!」
第二回目の作戦は、志緒の思い付きから始まった。それに続けて発せられた一元の声は、どう聞いてもから元気だ。
「確か近くに新感覚の映画館が出来たんですよ」
思い出したように、志緒が言う。確かチラシがあったような……と、勝手にじいやの部屋を漁り出した。
「ほう、一体どういうものかね?」
新感覚という言葉に惹かれたらしく、一元も食いついてくる。その様子に安堵して、志緒は続けた。
「なんか、プラネタリウムみたいに寝転んで、天井に映し出されるみたいです」
はい、と見つけ出したチラシをちゃぶ台に乗せる。そこには「新感覚!まるでプラネタリウムのような映画館!!!」という見出しと「要予約」という注意書きがされていた。住所もここからそう遠くないようだ。
よし、と意気込んだ一元に、当たり前のように志緒もついていく。志緒自身もその映画館に興味はあったので、できれば一緒に予約なんてしてみようかという魂胆であった。
「1人5万円になります」
受付嬢の機械的な言葉に、志緒の目論見は外れる。確かにこの映画館はフロントからしてとても上品なつくりになっているし、来ている人たちも一般庶民とは少し違う空気を纏っている。チラチラと志緒を遠くから覗いている人たちは、庶民はお呼びではないのだと言っているようだ。ならばあんな貧乏人しかいなさそうなエノキコーポラスにチラシを入れないで欲しい。志緒は理不尽な怒りを感じていた。
まあそんなことなんて関係もなく、一元は2人分のチケットを買った。ことが成功したら報酬として自分の分もチケットを買ってもらおうかなとど、志緒は考えを巡らしてはいた。しかし、それもなんだかあり得ないような気がしてならない。まあつまり、一元と美世はなんだか一緒になりそうな気がしないということだ。
「美世、今晩空いていたりしないか……?」
先ほどの失敗があったせいでか、なかなか強く出れない一元だった。玄関先で繰り広げられるこのよくわからない恋愛ドラマは、まるでダメ男が別れた女に言い寄っているみたいだ。けれど、実際にそうであったりもする。
「まあ、どうかしたのかしら?」
ダメともイイとも取れない返事を受け、ぐっと尻込みをするように一元は言葉を詰まらせる。ここで引いたら男が廃りますよー、と志緒は影ながら、本当に影ながらも背中を押して見た。それが届いたのかそうじゃないのか、少し自信のなさそうな声で、一元は続ける。
「映画でも行かないかと思ってだな」
そう言って、チケットを差し出した。これは決まっただろうと志緒は何と無くガッツポーズを決める。こんな珍しくてロマンチックな映画館なんて、滅多に行けるもんじゃない。好きでもない相手でも、チケットを用意してくれたなら1度行ってみようぐらいは思うだろう。そのままトントン拍子で思い出してもらえれば、全て上手く行く。
しかし、そんな志緒の思惑も、淡く脆く崩れ去った。
「あら素敵。でもごめんなさいね。この映画もう1人で見ちゃったのよ」
チケットがハラリと落ちていく。ああ、勿体無い。そう思いながら、志緒は廊下に散って行く10万円を見送った。
「…………。お、お食事なんてどうですか?きっと美世さんもお腹が空いていますよ!!」
「……………そ、そうだな。そうしてみよう」
元気付けるように発した言葉も、一元に元気を取り戻すことは出来ないようだ。
それもそうだろう。今日だけで彼は3回も美世に振られてしまったのだから。それでもめげないだけ、精神的には丈夫なのだろう。
「そうなったらすぐに予約を入れなければ」
「え?」
食事、ランチ。ランチと言ったら予約。その思考についていけない。携帯を取り出して何処かに電話をかけ始めた一元をまるで遠い水平線を眺めるかのように志緒は見ていた。
「すまない、そう本日のランチだ。最高のフレンチの店を手配してくれ」
この話し方は、おそらく部下の人だかにかけているのだろう。こんな休日の昼間に、上司の恋愛事に付き合わさせるなんてかわいそうだと志緒は思う。
「ん?1人8万?構わん!すぐに予約を入れろ!!」
はー。ランチにはサラッと8万使うのかー。さすがセレブは違うなあ。だんだん、志緒の感覚も麻痺してきたようであった。8万もあったら、そうだなぁ。コンビニでジュースが600本ぐらい買えるのだろうか。そう考えて見てもイマイチピンとこない。
「美世はフレンチが好きなんだ。きっと喜ぶに決まっている!!」
電話を切った一元はまたよくわからない自信に満ち溢れていた。そのポジティブさは分けてもらいたいぐらいだ。
「あら、ハンサムさん。今度は何かしら?」
どうやらこの現状を楽しんでいるような美世はすでに玄関前で2人を待っていた。
「食事でもどうかな?美味しいフレンチを予約したんだ」
少しだけキザっぽく、ナンパをするでもなくただ、口説くように、何処と無く甘い空気を作り出す一元。しかし、そんな空気なんて全く関係ないとでも言うように、美世は言った。
「まあ、フレンチ。素敵ね。でも、今は手料理が食べたい気分なの」
「て、手料理……」
予想外の言葉に、一元も返す言葉がないようであった。咄嗟に志緒が声をかける。
「一元さん、頑張ってください!!ここでサクッと作ったら思い出してくれますよ!!」
「と言っても何を作ったらいいのか……」
「お茶漬け」
は?
「お茶漬けが食べたいわ」
まさかのお茶漬け。いや、お茶漬け美味しいですよ?私も大好きです。でも、フレンチとお茶漬け比べるならフレンチでしょう。
「シェフを呼べ!最高のお茶漬けを作るんだ!!」
気付いたら一元はまた携帯で電話をかけているようであった。あなたはそれでいいんですか、お茶漬けに負けたんですよ?8万のフレンチがお茶漬けに負けたんですよ?その予約どうするんですか。破棄ですか。じゃあ私に下さいよ。そう思っても、口には出さない志緒であった。
少しすると美世の部屋に数人のシェフらしき人たちが上がり込み、やれご飯を炊くだのやれ材料の確認だのわいわいいいながらお茶漬けを作ろうとしている。6畳ワンルームの部屋のキッチンでは狭いようで、作業がなかなかはかどらないようだ。
料理開始から30分。まだまだ材料の下ごしらえが済んでいないようであった。このままだと13:00も超えてしまいそうだ。
「お腹が空いちゃったわね、桜さん」
「あ、………はい」
正直、本当にそうであった。インスタントでもいいから今すぐ食べたいぐらいの空腹だ。そしてなにより、最高のお茶漬けとかなんか変に手の込んだ物なんかよりも、庶民的な味のほうが好みな気がするのであった。
「待ちきれないわ、じいやのところでいただきましょう?」
「え。あ……」
そう言うと、さっさと美世は部屋から出て行く。そしてじいやの元へと向かったのだろう。料理に手一杯なシェフや一元は、美世が出て行ったのにも気付かない。
「さあ美世!一元特性茶漬け、名付けて美世の為の愛のお茶漬け〜フォアグラとキャビアを添えて〜」
それから1時間ほどして、やっとお茶漬けが完成した。おそらくいろいろと手の込んだ、高級感のある、美味しいお茶漬けなのだろう。そして、一元はそれを誰よりもまず美世に食べてもらいたいだろう。しかし、その美世はというと、ここにはいないのだ。
「あのー、一元さん。美世さん、待ちきれなくて食べに行っちゃいました」
「何!?」
お茶漬けが手からこぼれ落ちる。寸でのところで志緒がミラクルキャッチをしなければ、美世の部屋は大惨事になっていただろう。
「…………。………。…………………。そうだ!デートなんてどうでしょう?遊園地とか、行って!」
「…………………………………そうだな。そうしよう」
心なしか、一元の声にハリがなくなってきている。
「今回は、直接美世にデートを申し込もう」
毎回毎回、準備してからの誘いで失敗してしまっている。今回は、それを逆手にとって先に美世の予定を聞いてしまおうという一元の考えであった。
早速美世の部屋へと向かう。待ち構えていたように、玄関前に美世が立っていた。
「美世、水族館にでも行かないか」
「いいわよ」
いいわよいいわよいいわよ…………。
動きの止まった一元に、志緒は慌てて駆け寄った。
「やったー!!やりましたね、一元さん!!」
背中を叩いたり、目の前で手を振ったりと、必死に一元の魂を体に戻そうと苦心する。
「あ、ああ。ようやく辿り着いた!!」
ようやく戻ってきた魂と共に、ようやくやってきたチャンスに喜んでいると、見兼ねたように美世が言葉を投げた。
「それで、水族館はどこかしら?」
「あ……」
今回はあらかじめ予約などを入れていない。場所も調べてはいない。けれど、そんなこと言ったら、またチャンスが逃げてしまう。
「こ、こっちだ。美世。少し歩こうか
」
「ハンサムさん、まだ水族館につかないのかしら?」
「あ、あと少しだ……」
そういう一元も、歩き疲れたようで声に元気がない。むしろ、美世の方が涼しい顔をしている。
「見つかりましたよ!」
「どこだ!?」
さっきから携帯で調べまくっていた志緒の言葉に食いつくように反応する。読み込みを待つ黒い画面を睨んでいた志緒は、パッと現れた明るい詳細ページに声を曇らせた。
「…………ここから車で3時間です」
「…………………………」
2人で押し黙る。顔を見合わせた。車で3時間となると途方もない遠さだろう。今から車を手配するのか?いいや、流石に時間がかかる。もし車が来たとしても、まだ3時間もかかるのだ。
「もう、退屈。私帰るわ」
ついに美世が声をあげた。そのまま踵を返して、エノキコーポラスに帰ろうとする。その様子に、一元がしがみつくように叫んだ。
「ま、待ってくれ!!」
立ち止まった美世は、振り返らなかった。しかし、それでも一元は言葉を止めなかった。
「これは、全て美世への愛の形なんだ。全て私を思い出してもらいたかっただけなんだ。私はただ、美世、お前を愛しているだけなんだ!」
そして、懐から、おそらくずっと持っていただろう結婚指輪を取り出すと、美世に向けて開けた。
「結婚してくれ、美世!!」
とうとう美世は振り向いた。そこには、少し崩れたオールバックで、よれてしまったスーツを着てきて、心身共に疲労しきったような男が立っていた。
美世の目が細められる。
「私があなたと一緒にいて楽しかったのは、私たちがちゃんと愛し合っていたからよ。興味のない物だって、退屈な時間を過ごしたって、それだけで幸せだった」
美世の言葉に、一元の目に光が指す。
「美世…………!!」
「けれど、あなたはもう私を愛してない。あなたはただ逃げてきただけよ。私をあなたの逃げ道にしないでちょうだい」
美世の表情は、寂しげだった。そんな美世を見て、一元の目からは光が無くなる。
「美世………………」
呟いた言葉とともに、指輪はまた仕舞われた。それをただ、美世は寂しげに見つめていた。
「そうか、私は。美世、お前はわかっていたんだな。私よりも私のことを。私の愛を。確かに私は愚か者だ。そんな私にお前は勿体無いな」
すまなかった。そう言うと、一元は去って行った。1度も振り返らずに。その背中は寂しそうであった。
「彼は、奥さんと別れる理由が欲しかったのよ」
「え?」
「初めの頃はお互い愛し合っていたわ。本当に。けれども、彼はだんだん奥さんとの話が多くなった。愛のある話ならいいのよ。私は愛が好きだから」
美世の言葉には、暖かさと懐かしさと寂しさと愛しさを感じられた。それは、やはり彼と彼女は愛し合っていたからなのか。
「けれど、彼は奥さんとの不満ばかりを言うの。そして私と比べるの。他人と比べられるなんて嫌よ。私は私だもの」
その言葉には、寂しさしか感じられなかった。美世も彼を愛していたのだ。そう、志緒にはわかった。
わかったけれど、それが本当かはわからなかった。
「私は、壁のある恋なんてしたくないのよ」
そう言うと、美世もまた歩き出す。エノキコーポラスへと向かって。
そしてある朝、美世はいつも通り小鳥の声で目を覚ました。開けたカーテンの隙間から注ぎ込まれる陽の光が、薄暗かった部屋を明るく照らした。電気ケトルに水を入れてお湯を沸かす。その間に顔を洗い、寝巻きから私服に着替えるとお湯の湧いた音が響く。サッとインスタントコーヒーの粉を取り出すと、お湯を注いだマグカップにサラサラと流した。ゆっくりかき混ぜて、ブラックコーヒーの香りを楽しむ。
いつも通りの1日の始まりだ。コーヒーの香りで眠気を覚まし、さて今日は何が起こるのかと考えを巡らす。いつもいつもこのエノキコーポラスには騒ぎが絶えない。何をしようとしなくても、何かが起こってしまうのだ。そしてそれが美世の楽しみでもある。
そう、まさにその時であった。訪問者を知らせるチャイムの音が、狭い1Rの部屋に響く。はーいとのんびり返事をしながらマグカップをテーブルに置き、その招いた覚えのない客の確認のため玄関に向かった。
「美世!結婚してくれ!!」
そう言って見せつけられた結婚指輪を眺め、首を傾げてこう応える。
「あなた、誰かしら?」
「またですか!美世さん!!!」
「知らないわよ。だって覚えてないんだもの」
傷付いた訪問者はやはり志緒が面倒を見ることとなり、その被害者は後を絶たない。
こんなことに巻き込まれる自分の身にもなってくれ、と志緒は頭を抱えた。
「ちなみに、美世さんの交際相手って何人ぐらいなんですか?」
「そうねぇ。一晩一緒に寝てくれたら教えて「お断りします」




