-2- 伊草町(2)
伊草橋から川沿いに下流の方角へ進んで二十分程度歩いていくと、町で一番小さく古い木造の『桂橋』が架かっている。橋とはいえ老朽化の進んだその橋は修哉が幼い頃からすでに立ち入り禁止となっていた。その橋の周りは田畑が延々と続き、民家もそれほど多くは無い。そんな桂橋の袂にそのアパートは建っていた。
「ここかな……」
川沿いの二階建て木造アパート『桂荘』。築四十年を超えるアパートだ。所々にヒビの入ったモルタルの壁。正面には赤茶色に錆びついた鉄階段。こげ茶色の木製のドアが二層式の洗濯機を挟み並ぶ。いかにも田舎町の文化住宅といった風情だ。
それは修哉がふらりとこの町に帰ってきた今朝のことだった。立ち寄った駅前の床屋でのことだ。幼い頃から何度も通ったその店のたたずまいは全く変わってなかった。木製のドアをギギッと音を立てて開けると、店の主人である西山勝一は茶色いソファに座ってテレビにかじりついている。
「こんにちは」
勝一は久しぶりの来客に戸惑ったのか焦ったように立ち上がる。
「はいよ、ごめんよ。いらっしゃ……」
修哉を見て勝一はすぐさま気づいた。
「修哉かぁ! 何年ぶりだ?」
「ん……、六年くらい」
「そうか、そんなにかぁ……」
勝一の脳裏に駆け巡ったのは六年前のあの悲しみだった。途端にそのトレードマークの口髭を執拗にいじりだした。
「おっちゃん。あの、髪切ってくれる?」
「え? おう、そうか。じゃ、そこ座れ」
「うん」
テレビから乾いた金属音と共に、大きな歓声が響き渡る。勝一は仕度をしながら声を張り上げた。
「よっしゃ! 同点!」
「……あ、桜乃台の試合か」
「おう、凄いぞ。強豪校相手に互角の試合しとる!」
「へぇ」
「もう十四回だからな、こりゃ下手すると再試合かもなぁ」
白熱した夏の高校野球。テレビの中の一進一退の延長戦に、時折手を奪われながら、修哉の髪を切る勝一。
「それはそうと、今日はどうした?」
「うん、ちょっと懐かしくなって。学校休みだしブラっと」
「そうかい。こんな何も無い町に何時間もかけてわざわざ東京からこんでも、そっちの方が楽しいだろに」
「うん……。そうだね」
「今日は泊りか?」
「ん……、決めてない」
「はぁ? 宿決めとらんのか?」
「うん、かなり行き当たりばったりに出てきたから」
散髪が済み勝一はハサミを置くと、徐に電話の受話器を手に取る。誰と話しているかは分からないが、どうやら修哉の宿の手配をしているらしい。そんな話に感づいた修哉が手を振って何度もそれを拒否しようとするが、勝一は早々に話をつけてしまった。
「おっちゃん、いいのに」
「こういうお節介もこの町の名物だ。お前だって分かってるはずだろ」
「……まぁ」
「ほれ、向かいでたこ焼き屋やってた阿部さん知ってるな? 今はアパートの管理人やってんだ。そこの空き部屋頼んどいたからお世話になればいい」
「え……。でも、やっぱ悪いよ」
遠慮する修哉に勝一はやれやれといった表情を浮かべて電話台に備え付けられたメモ帳から一枚紙を破り取る。
「何度も言わせるなって……。それに、阿部さんも会いたがってたぞ。待ってろ、今こっからの地図書いてやるから」
「……あ、ありがとう」
修哉は何とも複雑な顔を浮かべている自分の姿を、目の前の鏡に投影していた。後方のテレビからサイレンの音が鳴り響く。試合は同点のまま延長十五回再試合となっていた。