-1- 伊草町(1)
緑に染まる広大な夏の山々。ひときわ澄んだ空気を漂わせる風の音。見上げれば青いグラデーションの空。母親とはぐれた子供のように、小さな白い雲がゆっくりと空の海を泳ぐ。絵に描いたような大自然のふもとでは、田畑で農作業にいそしむ人々の姿。ここは伊草町。
この町の観光名物と言えば温泉が挙げられていた。都会から少々離れたこの町に、ひと時のやすらぎを求めて訪れる観光客も少なくはない。尤も、それもこの町の魅力の一つに過ぎなかった。都会に疲れた人間に人間を取り戻してくれる町。それが伊草町だ。
大自然に囲まれたこの伊草町に、時の流れはせかさない。静かにゆったりとこの町の時間は流れていく。それでもあと少しすれば、山々は真っ赤に染まる。汽笛を鳴らす汽車のように、秋の訪れが遠く聞こえてくる八月の終わり。
町の中央を横切るのは川幅広く遠浅の伊草川。上流と下流を山で囲まれたこの伊草町は、いわば陸の孤島でもあった。穏やかに、緩やかに、山々から運ばれてきた清流せせらぐ伊草川の源流は日本の名水百選にも選ばれるほど、透明度の高い澄んだ水で知られていた。普段は穏やかに流れ、魚も多く生息する綺麗な川である。
だが、近年の地球温暖化の影響からか、どしゃぶりの雨の日が増えつつあるこの町。上流で雨の降った日は、山から土色に濁った水が、突然濁流となってやってくる。その場が晴れていようと水嵩が急激に高まることもしばしば。普段は膝丈ほどの水深占めるこの川。対岸までの視界は良好とはいうものの、川を横切ることは自殺行為でもあった。
休日ともなれば川原には日向ぼっこや釣りを興じる人、ボール遊びにやってくる近所の子供たち。ただそれは、片側の堤防だけに見受けられる風景。あの日、対岸から人影の消えたいびつな風景。
遡ること六年前。簡単に振り返ることも許されない悲しみの歴史は、決して伊草町の人々の心から消えることはなく、六年前の八月の終わりを迎えたまま。ただ、この自然に興味を示さない部外者のみが「風化」という言葉で片付ける。この町の時は止まっていた。六年前からも。いや、ひょっとするとその前からも。
その伊草川に架かる町一番の大きさを誇る伊草橋。この橋は町に唯一設けられた伊草駅から、町内にある山際の集落まで一直線で結ばれた県道の通る橋。ただ、県道といっても田舎町の道。交通量などしれたものだ。そしてこの六年間、伊草の住民がこの橋を渡り山際の集落に向かうことは殆ど無かった。
そんな伊草橋の端で一匹の柴犬が道端の花と戯れていると、通り掛かった一人の青年。白いTシャツにジーンズ姿の彼はその犬の前で立ち止まり、甘えるような瞳をしたその犬の頭を軽く撫でてやると、橋の欄干に鎖で繋がれた看板に目をやる。風雨にさらされ錆びついたその看板には六年間の結界が刻み込まれていた。
「関係者以外立ち入り禁止……ねぇ」
その看板が誇示するかのように、この伊草の大自然にあまりにも不釣り合いな鋼鉄製のフェンスが伊草橋を遮っている。この橋の向こうは、六年もの永い月日が流れた今もなお、時間は止まっていたのだった。
「俺も一応、関係者なんだけどなぁ……」
青年はその犬に問いかける。もちろん、投げかけた言葉が響くことは無いと知りながら。
「じゃあな」
犬に別れを告げると青年は伊草川の堤防沿いを再び歩き出したのだった。
彼の名前は坂上修哉、二十一歳。薄っぺらな緑のリュックを背負い、この街並みを小高い堤防からただ眺めつつ歩いてゆく。彼の眼に映るその街並みは、六年前と何も変わっていなかった。それは彼が時折見せる柔らかな笑みに表れていた。
伊草川の堤防の土手は幅二メートルほどの砂利道になっており、ジョギングやサイクリングが楽しめる遊歩道となっていた。とぼとぼと当てもなく歩く修哉に、その声が突然耳に入ってくる。
「おーい。修哉! 修哉じゃろ!」
聞き覚えあるその声に、修哉は土手の上からキョロキョロと辺りを見回す。すると、田んぼの脇を通るあぜ道で、大きく手を振る白髪の老人に気付く。
「やぁ、じいちゃん。久しぶり」
それは関本泰三。修哉が幼い頃、いつも可愛がってくれた近所に住む元町内会長だった。屈託ない笑顔を浮かべ手を振る泰三に、修哉が手を振り返し少し声を張り応える。
「元気そうだね!」
だが、耳の遠くなった泰三は、その声が聞き取れず眉をしかめて耳を傾ける。
「ハァ?」
それほどの距離ではない。修哉は笑みを浮かべ「前より酷くなってないか……」と小声でぼそっと呟くと、今度は腹から精一杯声を出した。
「じいちゃん。元気そうじゃない!」
二度三度頷き、にこやかに笑みを浮かべる泰三に、修哉もホッと胸をなでおろすと。
「ハァ? なんじゃって?」
泰三はさらに深く耳を傾けた。修哉は脱力感のあまり肩を落とすと、諦めた顔をして手を振った。
「じゃあ!」
そう言うと修哉は先を急ごうと歩き始めた。するとその姿に泰三は、焦った素振りを見せて声を張り上げた。
「しゅっ、修哉! 女の子泣かせると罰が当たるぞ! こりゃっ」
その言葉に驚いて一瞬振り返り泰三を見る修哉。すると泰三は大きく何度も手を振り、ニコニコと屈託ない笑顔を送ってくるのだった。
「どういう意味だよ……」
苦笑い浮かべ「分かった、分かった」と、手を挙げて踵を返し歩きはじめる修哉。泰三はそんな修哉の背中を見送りながら、腰に手を当てて高笑いするのだった。
「あんま、会いたくなかったなぁ……」
ふらふらと歩きながら修哉はボソッと呟く。もちろん、泰三が憎いわけでは無い。この地で命を棄てる思い。一度は決意したその思いが、温かさに触れて鈍る事が怖かったのだ。