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毎月ひとつ増える約束

作者: あき
掲載日:2026/11/03

婚約を破棄された翌日、形だけの結婚を頼まれた。約束は、毎月ひとつ増える。

一 口で言った約束


「君は、可愛げがない」


応接室の窓を背にして、婚約者が言った。逆光で、顔の半分しか見えない。


言われるのは、これで三回目。一回目は夜会の帰り、二回目は馬車の中。三回目の今日は、署名入りの書状という立派な形で、わたしの膝の上に載っている。進歩したなあ、と思う。


「あの、理由の欄に『可愛げ』としか書いてないんですけど。書類としては不備ですよ」


「そこが気になるのか、君は」


「気になりますよ。数字と書類は、嘘をつかないので」


人間は嘘をつくけど。たぶん今、目の前で。


「ひとつだけ、聞いてもいいですか。卒業したら領地の帳簿をわたしに任せるって話、あれはどうなります?」


「そんな話、したか?」


したよ。二年前の秋、温室で。わたしが帳簿の間違いを三か所見つけたら、君に任せたいって、目をきらきらさせて。


「覚えてないな。覚えてない約束を守れって言われても、困る」


困られた。


……なるほど。口で言った約束って、言った本人の頭から消えた瞬間に、なかったことになるのか。いい勉強になった。授業料は、婚約者ひとり分。高いのか安いのか、あとで帳簿につけておこう。


指輪を箱ごと机に置いたら、蓋の閉まる音が、びっくりするほど軽かった。


翌朝、北の辺境伯から手紙が届いた。


〈一年だけ、わたしの妻になってほしい。縁談が三十件を超えて、断る口実が尽きた。形だけでいい。月に金貨八枚。帳簿も見てほしい。約束は、全部紙に書いて渡す〉


最後の一行を、三回読んだ。


紙に書いて渡す。


……この人、信用できるかもしれない。


二 最初の二つの約束


北の辺境は、三日目あたりから雪のにおいがした。


屋敷に着いたのは日が落ちる前。馬車を降りて壁に手をつくと、石が外の空気よりずっと冷たくて、その冷えが袖口から肘まで、じわじわのぼってくる。暖房費の計上漏れだな、と思った。出迎えは、白髪の執事がひとりだけだった。


「ハンスと申します。旦那様は執務室でお待ちです」


ヴィルフリート辺境伯は、机の向こうで立ち上がった。背が高くて、目つきが鋭くて、会って三秒で叱られる覚悟をした。肩幅のわりに手が大きい。差し出された手の甲には、指の関節ごとに白い筋が走っている。何かで切った跡みたいだけど、聞かなかった。聞いていい間柄じゃない。


「ヴィルフリートだ。……遠いところを、すまない」


声は思ったより低くて、少しも怒っていなかった。


「オルガです。それより帳簿はどこですか」


彼が固まった。


しまった! 順番を間違えた。着いてすぐ帳簿の場所を聞く花嫁って、たぶん珍しい。でも、道中ずっと気になってたのだ。三年分の帳簿が箱に突っ込んである、って手紙に書いてあったから。


「……あとで、案内する。先に、これを」


彼は咳払いをして、机の上に紙を二枚すべらせてきた。


〈一番目の約束。この結婚は、一年で終わる〉


〈二番目の約束。お互いの部屋には、勝手に入らない〉


「これだけですか」


「足りないか」


「足ります。でも、ほかにも約束したいことができたら、どうすればいいですか」


「……言ってくれれば」


「口で言うのは、やめにしません? 口で言った約束は、消えるので」


言ってから、ちょっと言いすぎたかな、と思った。でも彼は怒らなかった。ペンを取って、二枚の紙の端に何か書き足す。


〈約束を増やすときは、紙に書いて、二人で名前を書く〉


「これでいいか」


「はい。いい決まりだと思います」


「……そうか」


そう言って、彼はもう一回、咳払いをした。緊張すると咳払いが出る人らしい。覚えておこう。


約束の紙の端に、二人で名前を書いた。わたしの署名を、彼は少し長く見ていた。字が曲がってたかな。


部屋は北向きで、窓の下から冷たい風が入ってくる。ハンスが湯たんぽを二つ、寝台に入れてくれた。


「暖炉って、ないんですか」


「客間に一つだけございます。居間のは、煙突の石が崩れまして。修理を後回しにしておりまして」


後回し。それが何年目の後回しなのかは、あとで帳簿を見ればわかる。


夕食は、広い食堂の端に二人で座って、ひと言も話さずに終わった。皿の音だけが、天井の高い部屋に残る。


そして夜。わたしは、帳簿の箱を開けた。


たまらなかった。


三年分の数字が、順番もばらばらに積んである。日付の飛んだ月。合ってない合計。ひとつだけ、桁の違う支出。


「おいしそう」って、声に出てた。誰もいなくてよかった。


それと、気づいたことがひとつ。この人、自分のために、ほとんど何も買っていない。服も、家具も、「私用」の欄は三年間ほぼ空っぽ。領地の収支は、実はけっこうな黒字だ。お金がないんじゃない。自分に使うという発想が、ないのだ。


その夜、持ってきた自分の帳簿の端に、欄をひとつ作った。「出ていくときのお金」。月にもらう八枚のうち、六枚をここにためる。一年で七十二枚。王都の裏通りに、小さな帳簿の事務所を借りられる金額だ。


人情は当てにならない。数字は嘘をつかない。


三 三番目の約束


二か月目の朝、わたしは屋敷の帳簿の前で、目をきらきらさせていた。


使途不明金を見つけたのだ。


帳簿の整理が仕事の人間にとって、合わない数字は宝の山である。ここだけの話、一日中でも眺めていられる。


しかも、その数字が載っていたのは、三年間ずっと空っぽだった「私用」の欄だ。あの人が、はじめて自分のために使ったお金。気にならないほうが、おかしい。


「ハンスさん、この『木工所・小机一台、金貨二枚』って何ですか?」


インクを足していたハンスが、すっと目をそらした。


「さあ……わたくしには、なんとも」


怪しい! 横領かな、と疑い始めたところで、戸の下に紙がはさまっているのに気づいた。


〈三番目の約束。執務室の窓ぎわの机は、オルガが使ってよい〉


窓ぎわの机って、辺境伯の席だったはず。二番目の約束で、お互いの部屋には勝手に入らないことになってるから、これはその例外ってことか。


執務室に行ってみたら、彼は見たことのない小さな机にいた。ひざが机の下に入りきらなくて、体がちょっとななめになっている。


「その机で、お仕事できてます?」


「問題ない」


「ひざが」


「問題ない」


あ、わかった!


「木工所の小机、金貨二枚。あれ、わたしに窓ぎわをくださるために、ご自分用に買ったんですね」


「……ああ」


「それなら経費として妥当です。領収書は取っておいてくださいね」


「…………そうか」


彼が、長い息を吐いた。ペンを持つ手が、ぴたっと止まっている。


使途不明金が片づいて、わたしはものすごくすっきりした!


窓ぎわの机の天板には、手前のところだけ、すり減って色が変わっている場所があった。ひじをつく位置だ。何年も同じ人が同じ場所にひじをついて、できた跡。そんな席を、一か月の付き合いの嫁にあけるなんて、ずいぶん太っ腹な雇い主である。


廊下に出たら、ハンスが天井を仰いでいた。祈りかな。


四 六番目の約束


雪が降ったのは、五か月目に入った朝。窓の内側に霜がはって、わたしは帳簿の「七」を三回続けて「一」と読み間違えた。指が冷えちゃって、思うように動かなかったのだ。


そして帳簿には、またあった。


『木工所・椅子一脚(背低・特注)金貨三枚』


背低。特注。


子ども用かな。辺境伯のところに、小さなお客様の予定でもあるのかも。


そう首をひねっていたら、昼前に、紙が来た。


〈六番目の約束。冬のあいだ、客間の暖炉の前の席は、二人で分け合う〉


客間の暖炉は、屋敷でただひとつ使える火。そこを二人で分け合う、って書いてある。


なるほど。火がひとつなら、薪もひとつ分で済む。節約だ。実に経営者らしい!


夕方、客間に行ってみたら、火はもう燃えていた。暖炉の前には椅子が二脚。奥に、背もたれの高い、革の古い椅子。手前に、背の低い、木のにおいがまだ新しい椅子。昨日までは、なかった。


座ってみたら、足の裏がちゃんと床についた。


……わたしの背丈に、ちょうどいい。


『背低・特注』の、特注のほうの意味がわかった。わかったけど、これも経費である。共有するなら二脚いる。そう思うことにした。


そこへ、ヴィルフリート様が薪の束を抱えて入ってきた。


「あなたが運んでるんですか」


「ハンスが、腰を痛めた」


ハンスは今朝、わたしの前を、そんな様子もなく歩いてたのに。


彼は薪を足して、火かき棒で崩れた炭を寄せる。指の関節の白い筋が、火の近くで赤く染まって見えた。


「……寒くはないか」


「いえ。経費として——」


そこで、言葉が止まった。続かない。足元の床があったかくて、薪のにおいがする。彼が、隣の古い椅子に座った。


「……妥当です」


言い終えたとき、声が裏返っていた。聞かなかったことにしてほしい。


胸のあたりに、出所不明の温かさがある。帳簿には載せられない。


あとで廊下でハンスに会ったから、聞いてみた。


「旦那様の手って、冬になると割れるんですか」


「毎年でございます。ペンを握るたびに痛むそうで。それでもお書きになります」


「……約束の紙を、ですか」


「さようで」


ハンスは、わたしのほうを見て、口の端を少しだけ上げた。


五 八番目の約束


七か月目の夜、熱が出た。


寒い部屋で帳簿を二晩続けて見ていたのが、よくなかったらしい。夕食のころから頭が重くて、夜には寝台から起き上がれなくなっていた。数字がぐるぐる回る。借方と貸方が、ぜんぜん合わない。「七」が「一」に見えるのは、もう日課だ。


コン、と戸が鳴った。


「……オルガ」


低い声。扉の向こうだ。


「起きているか」


「はい。大丈夫、です」


「大丈夫な声じゃない」


戸の下から、紙がすべりこんできた。


〈八番目の約束。看病のあいだだけ、ヴィルフリートはオルガの部屋に入ってよい〉


署名の欄は二つ。片方には、もう彼の名前が入っている。


二番目の約束は、お互いの部屋には勝手に入らない、だ。例外を足すときは、紙に書いて、二人で名前を書く。そういう決まりを作ったのは、わたしである。


「……入らないんですか」


「入らない。署名が、ない」


ばかじゃないですか、と言いたかった。熱があるのは、わたしだ。倒れていても、約束は約束か。


ペンが、戸の下から押し込まれてきた。


寝台から床に降りて、這って、戸の前まで行った。膝が笑う。紙の上に、震える字で名前を書く。ぐにゃぐにゃだ。無効にされたらどうしよう。


紙を戸の下から返したら、すぐに扉が開いた。


「……有効だ」


それだけ言って、彼はわたしを寝台まで運んだ。落とさないように、すごく慎重に。


濡れた布が、額にのった。つめたい。それから彼は、部屋の隅の椅子に座った。寝台から一番遠い、扉のそばの椅子に。


「そこ、寒いですよ」


「問題ない」


あなたの「問題ない」は、問題があるときの言葉だ。覚えておこう。


朝までのことは、あまり覚えていない。ただ、目が覚めるたびに、同じ場所に同じ人が座っている。布がぬるくなると、黙って替えてくれる。一度だけ「寒くないか」と聞かれて、はい、と答えたら、毛布が一枚増えた。


次に目を開けたら、朝だった。熱は下がっていて、椅子には誰もいなくて、戸の下に紙がはさまっていた。


〈八番目の約束は、本日で終了とする。入室は昨夜のみ。ヴィルフリート〉


その下に、小さく。


〈署名は、読めた。有効だった〉


朝食のとき、ハンスが小声で教えてくれた。


「旦那様は、昨夜、奥様の戸の前に、二時間お立ちでした。署名が届くまで」


「……ばかじゃないですか」


「さようで」


ハンスは、とてもうれしそうだった。


六 九番目の約束


八か月目の終わりの朝、九番目の約束が来た。


〈九番目の約束。誕生日には、相手の欲しいものをひとつ聞いてもいい。答えなくてもいい〉


読んで、わたしはまた少し考えた。ヴィルフリート様の誕生日は来月、ってハンスから聞いてる。つまりこれは、自分の誕生日に何か欲しい、ってことだ。なるほど、公平だ。来月の予算に、贈り物の項目をつくっておいた。


帳簿には、また謎があった。


『王都菓子店・焼き菓子(小)予約 金貨半枚』


来客の予定はない。誰の分だろう。


その二日後の朝は、いつもより早く目が覚めた。帳簿の端に日付を書いて、気づく。今日は、わたしの誕生日だった。


誰にも言ってない。最初の紙の、生まれた日の欄に書いただけだ。


朝食の席で、彼が顔を上げた。


「欲しいものは」


スプーンが、皿の上で止まった。


「……ありません」


「そうか」


「本当に、ありません」


「答えなくてもいい。そう書いた」


パンの皮を割る音が、天井の高い食堂の端から端まで、一度行って帰って消えた。


盆の端に、小さな焼き菓子がのっていた。


「あ!」


菓子屋の予約だ。


「使途不明金、これだったんですね。誰の分かと思ってました」


彼は窓のほうを向いた。耳が赤いのは、暖炉が近いせいだろう。ここは食堂で、暖炉はないけど。


「……欄に、書いてあった。生まれた日が」


窓に向かって、言われた。ああ、あの欄。


わたしは菓子を食べた。経費として妥当である。おいしかった!


スープの湯気に目を落としたまま、言った。


「居間の暖炉って、直さないんですか」


「後回しにしている」


「煙突の石が崩れてるんですよね」


「ああ。見積もりは、取っていない」


「取ってもいいですか」


「君の仕事ではない」


「帳簿は、わたしの仕事です。修理のお金の欄が空いてるのが、気になります」


彼はしばらく黙っていた。それから、パンを置いた。


「……好きにしろ」


「紙に書いてください」


彼の口の端が、少し動いた。笑った、んだと思う。


昼すぎに、戸の下に紙が入っていた。


〈十番目の約束。暖炉の見積もりは、オルガが取ってよい。ただし、お金はオルガが払わなくていい〉


最後の一行は、よくわからなかった。


七 縁談の使者


十か月目の昼、王都から客が来た。


縁談の使者だった。ある伯爵家の家令で、手土産の菓子が立派。応接室で、彼は笑顔のまま三十分、自分の家の三女の自慢をした。


「閣下には、ぜひ我が家の娘を。もちろん、奥様がいらっしゃるのは存じております。ただ、その……」


家令の目が、わたしを上から下まで見た。


「奥様は、帳簿のお仕事をなさっているとか。実務に強い方は、貴重ですな。夫人としては、いささか——」


あ、はい、可愛げはないです。慣れてます。わたしは笑顔のまま、紅茶を飲んだ。


「出ていけ」


ヴィルフリート様が、立ち上がっていた。


声は低くて、平らだった。怒鳴らないのが、いちばん怖い。


「妻は、この家の三年分の帳簿を、半年あまりで合わせた。礼を言うのは、わたしのほうだ」


家令の笑顔が固まった。


「それを侮る者に、娘を預ける気はない。お帰りを」


手の甲の白い筋が、いつもよりずっと白かった。


家令は、菓子を置いたまま帰った。


応接室が静まり返った。彼は立ったまま、窓のほうを見ている。耳の先が、赤い。


「……断って、よかったか」


しばらくして、彼が言った。


「先に、君に聞くべきだった」


「縁談除けとして、完璧でした」


「……そうか」


彼の肩が、ほんの少し下がった。たぶん、ほっとしたのだろう。縁談が片づいて。


そう処理した。


夜、戸の下に紙が入っていた。


〈十一番目の約束。縁談の返事をする前には、オルガに聞く〉


手続きとして、妥当である。


八 来ない紙


十一か月目の初日、戸の下には何もなかった。


昼にもう一度見た。夕方にも。寝る前にも見たけど、床は冷たい木のままだ。


十一番目の約束までは、毎月、月のはじめの三日以内に来ていた。三日たって、五日たって、七日目の朝になっても、戸の下は空っぽ。


忙しいのかな。もう書くことがなくなったのかな。そう思ったところで、考えるのをやめた。どっちも、あんまり本当らしくない。


その日の午後、帳簿の数字を二回間違えた。この屋敷に来てから、はじめてのことだ。数字を間違えるなんて、わたしの人生の汚点である。


廊下で、ハンスが屑かごを運び出すところに会った。かごは丸めた紙でいっぱいで、ふちからこぼれた一枚が床に落ちる。拾おうとしたら、わたしより先に、ハンスがかがんで拾った。


「失礼を」


「いえ。……多いですね」


「旦那様は、書き損じが多うございます」


そういえば、インク壺は先週から減ってない。ハンスがインクを足すのは、約束の紙が来る前の日だったのに。


帳簿の新しい欄には、こうあった。


『地図・北の海岸一帯 金貨一枚』


領地の外の地図。海。


仕事の準備だろう。そう思おうとして、思えなかった。


夜、職人の見積もりを広げた。最初は八十枚だったのを、三日かけて交渉して、金貨六十五枚まで値切った。出ていくときのお金は、いま六十六枚。値切れるだけ値切って、ぎりぎり足りる額だ。


払える。払ったら、出ていく先がなくなる。


出ていくときのお金は、わたしの盾だった。その盾を、暖炉ひとつのために手放すなんて、数字の人間としては不合理にもほどがある。


十番目の約束には「お金は払わなくていい」って書いてあった。払っちゃいけない、とは書いてない。


どうして払うのか、自分でもうまく言えない。冬のあいだ二つの暖炉を使い分ければ、薪が節約できるから。そう考えて、薪の話をするのが今日で二度目だ、と気づいた。


職人に頼む手紙を書いた。紙は、王都の貸し部屋の下見票の裏。ちょうどいい大きさの紙が、それしかなかった。そういうことにした。ペンを持つ手が、いつもより少しだけ遅い。


その夜、帳簿の端の「出ていくときのお金」の欄に「残り、金貨一枚」と書いた。字はいつもと同じ大きさで、まっすぐに並んでる。


九 十二番目の約束


暖炉の火は、四度目でついた。


丸めた紙に火をつけて煙道にかざし、冷えた煙突を先に温める。それをしないと、煙は上にのぼらないで、部屋に戻ってくるのだ。三回は、戻ってきた。


薪を組んだのは、職人にまかせなかった分。煙突の掃除は終わっていて、灰をかき出した炉の底には、塗り直したばかりの漆喰の白と、まだ乾ききらないにおいが残っている。


扉が二回、叩かれた。


「旦那様が、執務室でお待ちです」


ハンスは用件だけ言うと、廊下のろうそくの芯を切りに行ってしまった。いつもなら、ここで何かひと言足していく人なのに。


執務室の机に、紙が一枚。インクはまだ乾いてない。「十二」の「二」の字の横に、ペン先を長く止めたときにできる、丸いしみがある。


〈十二番目の約束。一年が終わったら、オルガは行きたいところで暮らす。かかるお金は、わたしが出す〉


三回、読んだ。


いつもなら、ここで経費に落とす。薪のため、仕事のため、節約のため。三番目から十一番目まで、全部、そうしてきた。


今夜は、理由が三つ浮かんだところで、手が止まった。どれも、紙には書いてない。


後ろで床が鳴った。ヴィルフリート様が扉のわきに立ってるのが、振り向かなくてもわかる。


「……インクが、まだ乾いていない。しみは、気にしないでくれ」


気にするなと言われても、気にするに決まってる。


「確認します」


紙の端をつまんだまま、振り向かずに言った。


「『かかるお金』に、上限の記載がありません」


「上限は、ない。北でも、海でも、どこでも」


海。地図だ。あの使途不明金は、これだったんだ。


「……それと、この丸いしみは、書き損じじゃなくて、このまま正本でいいんですか」


咳払いが、三回入った。


「しみも、そのままでいい。正本だ」


屑かごいっぱいぶん書き損じたこの人が、この一枚だけは、書き直さなかった。


親指をしみの横に置いたまま、動かせない。手が冷たい。


「ペン、お借りしてもいいですか」


「……ああ。君の紙でもある」


ペンが、柄のほうを向けて差し出された。指が触れないようにしてくれたんだとわかる。わたしも、触れないように受け取った。


「この紙の下に、わたしの側の一行を足します。口では言えないので、書きます。読み上げはしません。書き終えたら、読んでください」


立ったまま、一気に書いた。署名の最後の払いが、ちょっと震えた。


〈追記。オルガは、行きたいところで暮らす。行きたいところは、この屋敷です。ただし、新しい契約は、明日、書面で結ぶこと。 オルガ〉


紙を、彼のほうへ押しやる。


彼は紙を両手で取って、同じ行を二回なぞった。


「……読んだ。…………明日、書面で。約束する」


口で言った約束だ。「口じゃ無効です」と言いかけて、やめた。耳が真っ赤だったから、今夜だけは、有効にしておく。


ペンを返した。受け取る手が、一度、空をつかんだ。


「それと、報告が一件あります」


視線を机の隅の帳簿に逃がして、早口で言った。


「明日の契約の前に、お伝えしておきます。居間の暖炉の修理費は、わたしが職人に払いました。残りは、金貨一枚です」


「……は」


「十番目の約束には『払わなくていい』ってありました。『払ってはいけない』とは、ありませんでした」


彼は何か言いかけて、やめた。それから言った。


「ためていただろう。帳簿の端に、毎月。事務所を、開くために」


見られてた。隠してはいなかったけど、見られてるとは思わなかった。


「ありました」


「あった」


「もう、ありません」


彼が、まばたきを一回した。


「……では、事務所は」


「当分、開けません」


彼は何か言おうとして、口を開けて、閉じた。


「……見せてくれ」


「いまですか」


「いま」


歩幅が合わなくて、居間に向かう廊下で、途中から彼のほうが前に出た。


居間の扉を開けると、熱が顔にきた。


暖炉の前に立った彼は、黙って手をかざした。その指の関節には、冬のたびに割れた跡が、白い筋になって残っている。ペンを握るたびに痛むんだって、前にハンスが言ってた。火の色がその筋の上を動くのを、わたしは少し後ろから見ていた。


「客間は」


「もう、使わなくていいです」


「……そうか」


それだけだった。それだけで、彼の肩が少し下がったように見えたけど、見えただけかもしれない。


*


翌朝、居間のテーブルに、新しい紙が一枚。


ハンスは何も言わずに朝食の盆を二つ置いていって、盆のわきにインク壺を添えた。ふたに、足したばかりのしずくの跡がある。


背の低い椅子と、革の古い椅子。彼はもう座っていて、わたしが座るまで、パンに手をつけなかった。


紙には〈新しい契約。一番目の約束〉とだけ書いてあって、その先は白い。


「何を書くんですか」


「朝は毎日、ここで食べる」


「約束にしなくても、毎日来ますけど」


「書く」


彼はペンを取った。握る前に、一度だけ息を吐く。


わたしはスープの湯気を顔に受けながら、その字が紙に落ちるのを待った。ペン先は、止まらなかった。


「ところで」


パンをちぎりながら、聞いてみた。


「どうして、わたしだったんですか。縁談は三十件あったんですよね」


彼は少し黙ってから、言った。


「取引の写しに、訂正の紙が入っていた。帳簿の間違いが、三か所、直してあった。……字が、まっすぐだった」


三か所。二年前の秋、温室で。


「それ、わたしの……」


「婚約が危ないと、王都の取引先から聞いた。手紙は、その前に出した」


あの人が手を離す前に、この人は、もう手紙を書いていたのか。


「でも、わたし、可愛げがないそうなんですけど」


「可愛げは、知らない」


彼は窓を見て、それからこっちを見た。


「帳簿が合うと目が光る人が、わたしは、いいと思う」


咳払いが、また入った。


わたしの耳が熱いのは、スープのせいだ。たぶん。


彼が、わたしの耳を見た。


「耳が、赤い」


「スープのせいです」


「……そうか」


彼が、声を出して笑った。この人が笑うのを、わたしは初めて見た。


その夜、帳簿の端の欄の名前を書き換えた。「出ていくときのお金」を消して、「ここにいるお金」と書く。残高は、金貨七枚。事務所を借りるには、全然足りない。


出所不明だった温かさも、出所はもうわかっている。


まあ、いい。


使途不明金は、これでゼロになった。

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