毎月ひとつ増える約束
婚約を破棄された翌日、形だけの結婚を頼まれた。約束は、毎月ひとつ増える。
一 口で言った約束
「君は、可愛げがない」
応接室の窓を背にして、婚約者が言った。逆光で、顔の半分しか見えない。
言われるのは、これで三回目。一回目は夜会の帰り、二回目は馬車の中。三回目の今日は、署名入りの書状という立派な形で、わたしの膝の上に載っている。進歩したなあ、と思う。
「あの、理由の欄に『可愛げ』としか書いてないんですけど。書類としては不備ですよ」
「そこが気になるのか、君は」
「気になりますよ。数字と書類は、嘘をつかないので」
人間は嘘をつくけど。たぶん今、目の前で。
「ひとつだけ、聞いてもいいですか。卒業したら領地の帳簿をわたしに任せるって話、あれはどうなります?」
「そんな話、したか?」
したよ。二年前の秋、温室で。わたしが帳簿の間違いを三か所見つけたら、君に任せたいって、目をきらきらさせて。
「覚えてないな。覚えてない約束を守れって言われても、困る」
困られた。
……なるほど。口で言った約束って、言った本人の頭から消えた瞬間に、なかったことになるのか。いい勉強になった。授業料は、婚約者ひとり分。高いのか安いのか、あとで帳簿につけておこう。
指輪を箱ごと机に置いたら、蓋の閉まる音が、びっくりするほど軽かった。
翌朝、北の辺境伯から手紙が届いた。
〈一年だけ、わたしの妻になってほしい。縁談が三十件を超えて、断る口実が尽きた。形だけでいい。月に金貨八枚。帳簿も見てほしい。約束は、全部紙に書いて渡す〉
最後の一行を、三回読んだ。
紙に書いて渡す。
……この人、信用できるかもしれない。
二 最初の二つの約束
北の辺境は、三日目あたりから雪のにおいがした。
屋敷に着いたのは日が落ちる前。馬車を降りて壁に手をつくと、石が外の空気よりずっと冷たくて、その冷えが袖口から肘まで、じわじわのぼってくる。暖房費の計上漏れだな、と思った。出迎えは、白髪の執事がひとりだけだった。
「ハンスと申します。旦那様は執務室でお待ちです」
ヴィルフリート辺境伯は、机の向こうで立ち上がった。背が高くて、目つきが鋭くて、会って三秒で叱られる覚悟をした。肩幅のわりに手が大きい。差し出された手の甲には、指の関節ごとに白い筋が走っている。何かで切った跡みたいだけど、聞かなかった。聞いていい間柄じゃない。
「ヴィルフリートだ。……遠いところを、すまない」
声は思ったより低くて、少しも怒っていなかった。
「オルガです。それより帳簿はどこですか」
彼が固まった。
しまった! 順番を間違えた。着いてすぐ帳簿の場所を聞く花嫁って、たぶん珍しい。でも、道中ずっと気になってたのだ。三年分の帳簿が箱に突っ込んである、って手紙に書いてあったから。
「……あとで、案内する。先に、これを」
彼は咳払いをして、机の上に紙を二枚すべらせてきた。
〈一番目の約束。この結婚は、一年で終わる〉
〈二番目の約束。お互いの部屋には、勝手に入らない〉
「これだけですか」
「足りないか」
「足ります。でも、ほかにも約束したいことができたら、どうすればいいですか」
「……言ってくれれば」
「口で言うのは、やめにしません? 口で言った約束は、消えるので」
言ってから、ちょっと言いすぎたかな、と思った。でも彼は怒らなかった。ペンを取って、二枚の紙の端に何か書き足す。
〈約束を増やすときは、紙に書いて、二人で名前を書く〉
「これでいいか」
「はい。いい決まりだと思います」
「……そうか」
そう言って、彼はもう一回、咳払いをした。緊張すると咳払いが出る人らしい。覚えておこう。
約束の紙の端に、二人で名前を書いた。わたしの署名を、彼は少し長く見ていた。字が曲がってたかな。
部屋は北向きで、窓の下から冷たい風が入ってくる。ハンスが湯たんぽを二つ、寝台に入れてくれた。
「暖炉って、ないんですか」
「客間に一つだけございます。居間のは、煙突の石が崩れまして。修理を後回しにしておりまして」
後回し。それが何年目の後回しなのかは、あとで帳簿を見ればわかる。
夕食は、広い食堂の端に二人で座って、ひと言も話さずに終わった。皿の音だけが、天井の高い部屋に残る。
そして夜。わたしは、帳簿の箱を開けた。
たまらなかった。
三年分の数字が、順番もばらばらに積んである。日付の飛んだ月。合ってない合計。ひとつだけ、桁の違う支出。
「おいしそう」って、声に出てた。誰もいなくてよかった。
それと、気づいたことがひとつ。この人、自分のために、ほとんど何も買っていない。服も、家具も、「私用」の欄は三年間ほぼ空っぽ。領地の収支は、実はけっこうな黒字だ。お金がないんじゃない。自分に使うという発想が、ないのだ。
その夜、持ってきた自分の帳簿の端に、欄をひとつ作った。「出ていくときのお金」。月にもらう八枚のうち、六枚をここにためる。一年で七十二枚。王都の裏通りに、小さな帳簿の事務所を借りられる金額だ。
人情は当てにならない。数字は嘘をつかない。
三 三番目の約束
二か月目の朝、わたしは屋敷の帳簿の前で、目をきらきらさせていた。
使途不明金を見つけたのだ。
帳簿の整理が仕事の人間にとって、合わない数字は宝の山である。ここだけの話、一日中でも眺めていられる。
しかも、その数字が載っていたのは、三年間ずっと空っぽだった「私用」の欄だ。あの人が、はじめて自分のために使ったお金。気にならないほうが、おかしい。
「ハンスさん、この『木工所・小机一台、金貨二枚』って何ですか?」
インクを足していたハンスが、すっと目をそらした。
「さあ……わたくしには、なんとも」
怪しい! 横領かな、と疑い始めたところで、戸の下に紙がはさまっているのに気づいた。
〈三番目の約束。執務室の窓ぎわの机は、オルガが使ってよい〉
窓ぎわの机って、辺境伯の席だったはず。二番目の約束で、お互いの部屋には勝手に入らないことになってるから、これはその例外ってことか。
執務室に行ってみたら、彼は見たことのない小さな机にいた。ひざが机の下に入りきらなくて、体がちょっとななめになっている。
「その机で、お仕事できてます?」
「問題ない」
「ひざが」
「問題ない」
あ、わかった!
「木工所の小机、金貨二枚。あれ、わたしに窓ぎわをくださるために、ご自分用に買ったんですね」
「……ああ」
「それなら経費として妥当です。領収書は取っておいてくださいね」
「…………そうか」
彼が、長い息を吐いた。ペンを持つ手が、ぴたっと止まっている。
使途不明金が片づいて、わたしはものすごくすっきりした!
窓ぎわの机の天板には、手前のところだけ、すり減って色が変わっている場所があった。ひじをつく位置だ。何年も同じ人が同じ場所にひじをついて、できた跡。そんな席を、一か月の付き合いの嫁にあけるなんて、ずいぶん太っ腹な雇い主である。
廊下に出たら、ハンスが天井を仰いでいた。祈りかな。
四 六番目の約束
雪が降ったのは、五か月目に入った朝。窓の内側に霜がはって、わたしは帳簿の「七」を三回続けて「一」と読み間違えた。指が冷えちゃって、思うように動かなかったのだ。
そして帳簿には、またあった。
『木工所・椅子一脚(背低・特注)金貨三枚』
背低。特注。
子ども用かな。辺境伯のところに、小さなお客様の予定でもあるのかも。
そう首をひねっていたら、昼前に、紙が来た。
〈六番目の約束。冬のあいだ、客間の暖炉の前の席は、二人で分け合う〉
客間の暖炉は、屋敷でただひとつ使える火。そこを二人で分け合う、って書いてある。
なるほど。火がひとつなら、薪もひとつ分で済む。節約だ。実に経営者らしい!
夕方、客間に行ってみたら、火はもう燃えていた。暖炉の前には椅子が二脚。奥に、背もたれの高い、革の古い椅子。手前に、背の低い、木のにおいがまだ新しい椅子。昨日までは、なかった。
座ってみたら、足の裏がちゃんと床についた。
……わたしの背丈に、ちょうどいい。
『背低・特注』の、特注のほうの意味がわかった。わかったけど、これも経費である。共有するなら二脚いる。そう思うことにした。
そこへ、ヴィルフリート様が薪の束を抱えて入ってきた。
「あなたが運んでるんですか」
「ハンスが、腰を痛めた」
ハンスは今朝、わたしの前を、そんな様子もなく歩いてたのに。
彼は薪を足して、火かき棒で崩れた炭を寄せる。指の関節の白い筋が、火の近くで赤く染まって見えた。
「……寒くはないか」
「いえ。経費として——」
そこで、言葉が止まった。続かない。足元の床があったかくて、薪のにおいがする。彼が、隣の古い椅子に座った。
「……妥当です」
言い終えたとき、声が裏返っていた。聞かなかったことにしてほしい。
胸のあたりに、出所不明の温かさがある。帳簿には載せられない。
あとで廊下でハンスに会ったから、聞いてみた。
「旦那様の手って、冬になると割れるんですか」
「毎年でございます。ペンを握るたびに痛むそうで。それでもお書きになります」
「……約束の紙を、ですか」
「さようで」
ハンスは、わたしのほうを見て、口の端を少しだけ上げた。
五 八番目の約束
七か月目の夜、熱が出た。
寒い部屋で帳簿を二晩続けて見ていたのが、よくなかったらしい。夕食のころから頭が重くて、夜には寝台から起き上がれなくなっていた。数字がぐるぐる回る。借方と貸方が、ぜんぜん合わない。「七」が「一」に見えるのは、もう日課だ。
コン、と戸が鳴った。
「……オルガ」
低い声。扉の向こうだ。
「起きているか」
「はい。大丈夫、です」
「大丈夫な声じゃない」
戸の下から、紙がすべりこんできた。
〈八番目の約束。看病のあいだだけ、ヴィルフリートはオルガの部屋に入ってよい〉
署名の欄は二つ。片方には、もう彼の名前が入っている。
二番目の約束は、お互いの部屋には勝手に入らない、だ。例外を足すときは、紙に書いて、二人で名前を書く。そういう決まりを作ったのは、わたしである。
「……入らないんですか」
「入らない。署名が、ない」
ばかじゃないですか、と言いたかった。熱があるのは、わたしだ。倒れていても、約束は約束か。
ペンが、戸の下から押し込まれてきた。
寝台から床に降りて、這って、戸の前まで行った。膝が笑う。紙の上に、震える字で名前を書く。ぐにゃぐにゃだ。無効にされたらどうしよう。
紙を戸の下から返したら、すぐに扉が開いた。
「……有効だ」
それだけ言って、彼はわたしを寝台まで運んだ。落とさないように、すごく慎重に。
濡れた布が、額にのった。つめたい。それから彼は、部屋の隅の椅子に座った。寝台から一番遠い、扉のそばの椅子に。
「そこ、寒いですよ」
「問題ない」
あなたの「問題ない」は、問題があるときの言葉だ。覚えておこう。
朝までのことは、あまり覚えていない。ただ、目が覚めるたびに、同じ場所に同じ人が座っている。布がぬるくなると、黙って替えてくれる。一度だけ「寒くないか」と聞かれて、はい、と答えたら、毛布が一枚増えた。
次に目を開けたら、朝だった。熱は下がっていて、椅子には誰もいなくて、戸の下に紙がはさまっていた。
〈八番目の約束は、本日で終了とする。入室は昨夜のみ。ヴィルフリート〉
その下に、小さく。
〈署名は、読めた。有効だった〉
朝食のとき、ハンスが小声で教えてくれた。
「旦那様は、昨夜、奥様の戸の前に、二時間お立ちでした。署名が届くまで」
「……ばかじゃないですか」
「さようで」
ハンスは、とてもうれしそうだった。
六 九番目の約束
八か月目の終わりの朝、九番目の約束が来た。
〈九番目の約束。誕生日には、相手の欲しいものをひとつ聞いてもいい。答えなくてもいい〉
読んで、わたしはまた少し考えた。ヴィルフリート様の誕生日は来月、ってハンスから聞いてる。つまりこれは、自分の誕生日に何か欲しい、ってことだ。なるほど、公平だ。来月の予算に、贈り物の項目をつくっておいた。
帳簿には、また謎があった。
『王都菓子店・焼き菓子(小)予約 金貨半枚』
来客の予定はない。誰の分だろう。
その二日後の朝は、いつもより早く目が覚めた。帳簿の端に日付を書いて、気づく。今日は、わたしの誕生日だった。
誰にも言ってない。最初の紙の、生まれた日の欄に書いただけだ。
朝食の席で、彼が顔を上げた。
「欲しいものは」
スプーンが、皿の上で止まった。
「……ありません」
「そうか」
「本当に、ありません」
「答えなくてもいい。そう書いた」
パンの皮を割る音が、天井の高い食堂の端から端まで、一度行って帰って消えた。
盆の端に、小さな焼き菓子がのっていた。
「あ!」
菓子屋の予約だ。
「使途不明金、これだったんですね。誰の分かと思ってました」
彼は窓のほうを向いた。耳が赤いのは、暖炉が近いせいだろう。ここは食堂で、暖炉はないけど。
「……欄に、書いてあった。生まれた日が」
窓に向かって、言われた。ああ、あの欄。
わたしは菓子を食べた。経費として妥当である。おいしかった!
スープの湯気に目を落としたまま、言った。
「居間の暖炉って、直さないんですか」
「後回しにしている」
「煙突の石が崩れてるんですよね」
「ああ。見積もりは、取っていない」
「取ってもいいですか」
「君の仕事ではない」
「帳簿は、わたしの仕事です。修理のお金の欄が空いてるのが、気になります」
彼はしばらく黙っていた。それから、パンを置いた。
「……好きにしろ」
「紙に書いてください」
彼の口の端が、少し動いた。笑った、んだと思う。
昼すぎに、戸の下に紙が入っていた。
〈十番目の約束。暖炉の見積もりは、オルガが取ってよい。ただし、お金はオルガが払わなくていい〉
最後の一行は、よくわからなかった。
七 縁談の使者
十か月目の昼、王都から客が来た。
縁談の使者だった。ある伯爵家の家令で、手土産の菓子が立派。応接室で、彼は笑顔のまま三十分、自分の家の三女の自慢をした。
「閣下には、ぜひ我が家の娘を。もちろん、奥様がいらっしゃるのは存じております。ただ、その……」
家令の目が、わたしを上から下まで見た。
「奥様は、帳簿のお仕事をなさっているとか。実務に強い方は、貴重ですな。夫人としては、いささか——」
あ、はい、可愛げはないです。慣れてます。わたしは笑顔のまま、紅茶を飲んだ。
「出ていけ」
ヴィルフリート様が、立ち上がっていた。
声は低くて、平らだった。怒鳴らないのが、いちばん怖い。
「妻は、この家の三年分の帳簿を、半年あまりで合わせた。礼を言うのは、わたしのほうだ」
家令の笑顔が固まった。
「それを侮る者に、娘を預ける気はない。お帰りを」
手の甲の白い筋が、いつもよりずっと白かった。
家令は、菓子を置いたまま帰った。
応接室が静まり返った。彼は立ったまま、窓のほうを見ている。耳の先が、赤い。
「……断って、よかったか」
しばらくして、彼が言った。
「先に、君に聞くべきだった」
「縁談除けとして、完璧でした」
「……そうか」
彼の肩が、ほんの少し下がった。たぶん、ほっとしたのだろう。縁談が片づいて。
そう処理した。
夜、戸の下に紙が入っていた。
〈十一番目の約束。縁談の返事をする前には、オルガに聞く〉
手続きとして、妥当である。
八 来ない紙
十一か月目の初日、戸の下には何もなかった。
昼にもう一度見た。夕方にも。寝る前にも見たけど、床は冷たい木のままだ。
十一番目の約束までは、毎月、月のはじめの三日以内に来ていた。三日たって、五日たって、七日目の朝になっても、戸の下は空っぽ。
忙しいのかな。もう書くことがなくなったのかな。そう思ったところで、考えるのをやめた。どっちも、あんまり本当らしくない。
その日の午後、帳簿の数字を二回間違えた。この屋敷に来てから、はじめてのことだ。数字を間違えるなんて、わたしの人生の汚点である。
廊下で、ハンスが屑かごを運び出すところに会った。かごは丸めた紙でいっぱいで、ふちからこぼれた一枚が床に落ちる。拾おうとしたら、わたしより先に、ハンスがかがんで拾った。
「失礼を」
「いえ。……多いですね」
「旦那様は、書き損じが多うございます」
そういえば、インク壺は先週から減ってない。ハンスがインクを足すのは、約束の紙が来る前の日だったのに。
帳簿の新しい欄には、こうあった。
『地図・北の海岸一帯 金貨一枚』
領地の外の地図。海。
仕事の準備だろう。そう思おうとして、思えなかった。
夜、職人の見積もりを広げた。最初は八十枚だったのを、三日かけて交渉して、金貨六十五枚まで値切った。出ていくときのお金は、いま六十六枚。値切れるだけ値切って、ぎりぎり足りる額だ。
払える。払ったら、出ていく先がなくなる。
出ていくときのお金は、わたしの盾だった。その盾を、暖炉ひとつのために手放すなんて、数字の人間としては不合理にもほどがある。
十番目の約束には「お金は払わなくていい」って書いてあった。払っちゃいけない、とは書いてない。
どうして払うのか、自分でもうまく言えない。冬のあいだ二つの暖炉を使い分ければ、薪が節約できるから。そう考えて、薪の話をするのが今日で二度目だ、と気づいた。
職人に頼む手紙を書いた。紙は、王都の貸し部屋の下見票の裏。ちょうどいい大きさの紙が、それしかなかった。そういうことにした。ペンを持つ手が、いつもより少しだけ遅い。
その夜、帳簿の端の「出ていくときのお金」の欄に「残り、金貨一枚」と書いた。字はいつもと同じ大きさで、まっすぐに並んでる。
九 十二番目の約束
暖炉の火は、四度目でついた。
丸めた紙に火をつけて煙道にかざし、冷えた煙突を先に温める。それをしないと、煙は上にのぼらないで、部屋に戻ってくるのだ。三回は、戻ってきた。
薪を組んだのは、職人にまかせなかった分。煙突の掃除は終わっていて、灰をかき出した炉の底には、塗り直したばかりの漆喰の白と、まだ乾ききらないにおいが残っている。
扉が二回、叩かれた。
「旦那様が、執務室でお待ちです」
ハンスは用件だけ言うと、廊下のろうそくの芯を切りに行ってしまった。いつもなら、ここで何かひと言足していく人なのに。
執務室の机に、紙が一枚。インクはまだ乾いてない。「十二」の「二」の字の横に、ペン先を長く止めたときにできる、丸いしみがある。
〈十二番目の約束。一年が終わったら、オルガは行きたいところで暮らす。かかるお金は、わたしが出す〉
三回、読んだ。
いつもなら、ここで経費に落とす。薪のため、仕事のため、節約のため。三番目から十一番目まで、全部、そうしてきた。
今夜は、理由が三つ浮かんだところで、手が止まった。どれも、紙には書いてない。
後ろで床が鳴った。ヴィルフリート様が扉のわきに立ってるのが、振り向かなくてもわかる。
「……インクが、まだ乾いていない。しみは、気にしないでくれ」
気にするなと言われても、気にするに決まってる。
「確認します」
紙の端をつまんだまま、振り向かずに言った。
「『かかるお金』に、上限の記載がありません」
「上限は、ない。北でも、海でも、どこでも」
海。地図だ。あの使途不明金は、これだったんだ。
「……それと、この丸いしみは、書き損じじゃなくて、このまま正本でいいんですか」
咳払いが、三回入った。
「しみも、そのままでいい。正本だ」
屑かごいっぱいぶん書き損じたこの人が、この一枚だけは、書き直さなかった。
親指をしみの横に置いたまま、動かせない。手が冷たい。
「ペン、お借りしてもいいですか」
「……ああ。君の紙でもある」
ペンが、柄のほうを向けて差し出された。指が触れないようにしてくれたんだとわかる。わたしも、触れないように受け取った。
「この紙の下に、わたしの側の一行を足します。口では言えないので、書きます。読み上げはしません。書き終えたら、読んでください」
立ったまま、一気に書いた。署名の最後の払いが、ちょっと震えた。
〈追記。オルガは、行きたいところで暮らす。行きたいところは、この屋敷です。ただし、新しい契約は、明日、書面で結ぶこと。 オルガ〉
紙を、彼のほうへ押しやる。
彼は紙を両手で取って、同じ行を二回なぞった。
「……読んだ。…………明日、書面で。約束する」
口で言った約束だ。「口じゃ無効です」と言いかけて、やめた。耳が真っ赤だったから、今夜だけは、有効にしておく。
ペンを返した。受け取る手が、一度、空をつかんだ。
「それと、報告が一件あります」
視線を机の隅の帳簿に逃がして、早口で言った。
「明日の契約の前に、お伝えしておきます。居間の暖炉の修理費は、わたしが職人に払いました。残りは、金貨一枚です」
「……は」
「十番目の約束には『払わなくていい』ってありました。『払ってはいけない』とは、ありませんでした」
彼は何か言いかけて、やめた。それから言った。
「ためていただろう。帳簿の端に、毎月。事務所を、開くために」
見られてた。隠してはいなかったけど、見られてるとは思わなかった。
「ありました」
「あった」
「もう、ありません」
彼が、まばたきを一回した。
「……では、事務所は」
「当分、開けません」
彼は何か言おうとして、口を開けて、閉じた。
「……見せてくれ」
「いまですか」
「いま」
歩幅が合わなくて、居間に向かう廊下で、途中から彼のほうが前に出た。
居間の扉を開けると、熱が顔にきた。
暖炉の前に立った彼は、黙って手をかざした。その指の関節には、冬のたびに割れた跡が、白い筋になって残っている。ペンを握るたびに痛むんだって、前にハンスが言ってた。火の色がその筋の上を動くのを、わたしは少し後ろから見ていた。
「客間は」
「もう、使わなくていいです」
「……そうか」
それだけだった。それだけで、彼の肩が少し下がったように見えたけど、見えただけかもしれない。
*
翌朝、居間のテーブルに、新しい紙が一枚。
ハンスは何も言わずに朝食の盆を二つ置いていって、盆のわきにインク壺を添えた。ふたに、足したばかりのしずくの跡がある。
背の低い椅子と、革の古い椅子。彼はもう座っていて、わたしが座るまで、パンに手をつけなかった。
紙には〈新しい契約。一番目の約束〉とだけ書いてあって、その先は白い。
「何を書くんですか」
「朝は毎日、ここで食べる」
「約束にしなくても、毎日来ますけど」
「書く」
彼はペンを取った。握る前に、一度だけ息を吐く。
わたしはスープの湯気を顔に受けながら、その字が紙に落ちるのを待った。ペン先は、止まらなかった。
「ところで」
パンをちぎりながら、聞いてみた。
「どうして、わたしだったんですか。縁談は三十件あったんですよね」
彼は少し黙ってから、言った。
「取引の写しに、訂正の紙が入っていた。帳簿の間違いが、三か所、直してあった。……字が、まっすぐだった」
三か所。二年前の秋、温室で。
「それ、わたしの……」
「婚約が危ないと、王都の取引先から聞いた。手紙は、その前に出した」
あの人が手を離す前に、この人は、もう手紙を書いていたのか。
「でも、わたし、可愛げがないそうなんですけど」
「可愛げは、知らない」
彼は窓を見て、それからこっちを見た。
「帳簿が合うと目が光る人が、わたしは、いいと思う」
咳払いが、また入った。
わたしの耳が熱いのは、スープのせいだ。たぶん。
彼が、わたしの耳を見た。
「耳が、赤い」
「スープのせいです」
「……そうか」
彼が、声を出して笑った。この人が笑うのを、わたしは初めて見た。
その夜、帳簿の端の欄の名前を書き換えた。「出ていくときのお金」を消して、「ここにいるお金」と書く。残高は、金貨七枚。事務所を借りるには、全然足りない。
出所不明だった温かさも、出所はもうわかっている。
まあ、いい。
使途不明金は、これでゼロになった。




