海の底へ連れていく
とある青年と、とある人魚の物語
重い。そりゃあそうだ、何たって今200Lもある水の塊を運んでいるのだから。
何故運んでいるかって、そりゃあこの水槽の中にいる人魚を海に帰してあげたいからだ。今も水槽の中から僕を心配そうに見つめている、この美しくて優しい人を。
物心ついた時から、彼女は水族館の中で展示されていた。僕が生まれるよりずうっと前、海洋研究チームが捕獲したらしい。それから何十年経っても人間のように老いることなく、水槽の中でのんびり揺蕩い、たまに水槽の向こうにいる人間たちに笑いかけて、この中で暮らしていた。
いや、人間たちがそう暮らさせていたのだ。自然のものは自然にあるべきなのに、研究チームは「まだ研究が終わらないから」とか言って彼女をずっと水槽の中に閉じ込めている。
でも僕は知っている。彼女は帰りたがっているんだ。
ある日僕が海の絵葉書を持って通りかかった時、彼女はそれに強い興味を示した。なのでそっとそれを水槽に近づけたら、まじまじとそれを見つめて、悲しそうに微笑んだ。
「……帰りたいの?」
僕らの前には分厚いガラス板の仕切りがあって、届かないと知りながらもつい問いかけてしまうと、彼女はこちらを見てこくりと首を縦に振った。
帰りたいんだ。
当たり前だ、ずっと海で暮らしてきたのにこうやって人間に捕まって、ずっと家に帰れないまま暮らしているなんて嫌に決まっている。
だから、ずっと彼女を無事に帰す方法を探していた。
大きくなって働ける年齢になって、水族館のスタッフになり、実績を積み重ねてとうとう彼女のいる水槽の担当になった。
そして今日、深夜の警備の目を掻い潜って、彼女を水槽ごとこうして海へとキャリーカートで運んでいる。
正直重いし、カートの車輪の音が響くたびに誰にも聞こえませんように、とドキドキして心臓が口から飛び出しそうだけど、これも全て彼女の為だ。
「もう少しだからね。」
心配そうな彼女を安心させる為に笑いかけると、彼女は僅かにまた頷く。ああ、早く笑顔にさせてあげたい。
施設を何とか抜け出して、とうとう水族館から1番近い海辺までやってきた。自分が溺れない程度にカートごと海へ入って、水槽の蓋を開ける。波の力で何とか水槽を横倒しにすると、彼女はするりと海中へと潜り始めた。
ああやっぱり帰りたかったんだ、とその姿に思わず笑顔が漏れる。
別れの挨拶がないのは寂しかったけど、家に帰れるとなったらそんなことに構ってられないだろう。そう納得して海から上がろうとすると、急にズボンを海から引っ張られた。
「うわ……っ?!て、君か、びっくりした。」
何と、足元に彼女がいた。僕を見て、寂しいのか眉尻を下げてくれている。
「まだ僕のことを気にかけてくれるの?嬉しいけど、君は家に帰らなきゃ。」
それでも首を横に振る彼女はまだグイグイと引っ張ってきて、このままじゃ溺れそうで、慌てて僕も首を横に振る。
もしかして一緒にいたいと思ってくれているのかな、なんて。
「気持ちは嬉しいよ、ありがとう。でもほら、久しぶりの家だろう?また他の人間に見つからないうちに、帰った方がいいよ。」
そう促すと、彼女はようやく僕のズボンから手を離し、ヒレをパシャリと振って沖へと泳ぎ出した。
もうあの姿を水槽で間近に見ることは出来ないけれど、やっぱり綺麗だったなあ、と思い返す。もう見れなくなるのは寂しいけれど、でも人間のエゴで彼女を縛っちゃいけない。
さて、僕もここから離れないと。きっと大騒ぎになるし、仕事はクビになるだろうけど、それくらいの責任は取らなくちゃ。
月明かりに照らされた真っ暗な海。
もう見えなくなった彼女。彼女が泳いで行った方向を眺めながら、昔僕も彼女みたいに海の中で泳ぎたい、と彼女に語ったことがあったなあ、と思い出す。もしかしたら、さっき僕を引っ張ったのはその言葉を覚えててくれたのかな。
でももう10年も前のことだ、きっと忘れているだろう。
そう言い聞かせながら帰途につく僕はまだ知らない。
翌朝予想通りクビになって、仕方がないからアルバイトで食い繋いでいた僕を彼女が迎えにくることも。そのお迎えの方法は、人魚らしく海を伴ってやってくることも。
そしてそのせいで、この街が沈むことも。
僕は、何も知らなかったんだ。




