4話ー2
「止めろ…!」
俺は腕を力任せに振って、決死の抵抗を試みる。だが、俺の手首をつかむ手は、万力のように締め付けてびくともしなかった。もう片方の腕も掴まれて、一切の抵抗を封じられる。
「これは僕のわがままなんだけど…。僕以外に、慧一にとって心を許せる人間ができたのには、少し妬いてる」
JJと風呂に入ったこと。LIOに貧血気味かと誤解され抱き寄せられたこと。同じベッドで眠ることがあること。他のメンバーとも物理的に距離が近くなっていること。
汐人がそのことを言っているのだと、すぐに思い当たる。
「あれは、ただの仲間内のコミュニケーションう………あッ……!!!」
汐人は喋るために口を離し、また再び俺の腕に歯を立て、ギリギリと力を強めていく。
「慧一はそう思ってても、向こうは違うかもしれないし」
「あッ!!!…………はアッ……」
汐人は俺の拒絶など眼中に入れず、愉しそうに俺の腕を噛む。ギリギリと力を加えて皮膚を食い破り、離し、また噛みつこうとしている。新しい遊びを覚えたかのように。
「ごめん。慧一に心を許せる仲間ができたのは祝福すべきことだってわかってる」
「嫌だ………」
俺は与えられる痛みに外聞もなく怯え、過ちを否定するように、頭を横に振る。汐人が再び俺の手を取り、歯を近づけていくのがスローモーションのように目に入る。
「痛………ああッ……………いあッッ………ッ…………はァ、あッ………ゔ、アッ……………はあッッ…………あ………あああッ………………い………ひ…は、ああッッ!!…………は…あ……い……あッ………!!!あッ………はあッ……………は………………は…あ………はァ…はァ………」
口の端からは唾液が流れ落ち、目からも痛みによる生理的な涙がダラダラと零れ落ちる。両腕を掴まれ拘束されていては、拭うこともできない。
拷問は意識が遠のくほどの時間、続いた気がした。だが時計に目をやるとわずか時間にすると数十分のできごとだったらしかった。
俺の両の前腕―― 肘から手首までの間に、隙間なく赤黒い歯型の模様が刻まれるまで、皮膚を食い破られる痛みは続いた。腫れあがった両腕は激痛を訴え、息は上がり心臓はドクドクと音を立てる。
明らかに男の大きな歯型が無数に刻まれ異様な様相になった腕は、歯型の主の執拗な執着を雄弁に語る。傷や変色は化粧で隠せるだろうが、腫れはどうしようもない。俺は奥歯をギリリと噛み締める。
ベッドの上。ようやく解放された俺は、仰向けに横たわったままで息を荒げていた。
目の前の男から顔を背け、乱雑に顔を手で拭った。涙と唾液と鼻水と汗とが混じり合ったものをシーツへとなすりつける。
汐人がホテル仕様の箱に入ったティッシュペーパーを、場違いな気遣いを発揮して差し出してくる。この男は育ちがよいことを思い出す。俺はそれをベッドの下に叩き落とした。
「……汐人は俺がアイドルを目指すのを応援してくれていた。おまえは誰だ。汐人じゃないなら触るな」
「ごめん慧一。外から見える腕に傷跡を残したのは、確かに……悪かったよ。見えない場所……胸や腹だと、苦痛が強すぎるかもしれないから腕にしたんだけど。脚にしたらよかったね」
設定温度を下げていた空調からの冷たい風が、酷く熱を帯びた両腕の肌を撫でていく。
汐人はやにわに俺を起こし、俺を背中から抱きしめるように、腕を回してくる。抵抗しようと、その胸を押し返そうとして、気が付く。これは抱きしめられているのではない、拘束されているんだ。
恐る恐る汐人の顔を振り返ろうとする。しかし真後ろに陣取った汐人の表情はうかがいしれない。汐人は耳元ですまなそうに告げた。
「もう一つ謝ることがある。実は…痛いのはこれからが本番なんだ」
「な………」
両腕に隙間なく刻まれた赤黒い歯型。それがふいに青白く発光し始める。内側から強く発光する。これまで見た中で最も強い輝きを放つ。
「あッッ…………!!!」
耐え難い苦痛。
暴れる身体を汐人の腕が押さえつけてくる。
腕の傷を介して直接送り込まれた汐人の遺伝子が、爆発したように暴れ始めたのがわかる。これまでのじわじわとした浸食とは様相の異なる劇的な浸食。
その下層から薄っすら顔をのぞかせていく、自分でないなにか。俺を侵食し拡散し広がっていく。自分の身体が明け渡されていく現実を、なすすべもなく受け入れさせられる。
「はァ、はッ、はぁッ…!!……ッ……」
冷静さを欠き、何も考えられなくなってくる。思考が散らかり、際限なく拡散していく。
無残な両腕を隠さないと。明日のコンサートの衣装を調整してもらわなければならない。しかしなんと言えばいいのだろう。
明日はステージで、身体に叩き込んだ振付、初めて獲得した居場所、オーディション番組、外見がトラブルの種になり阻害される日々、汐人との出会い、他人が信じられないこと、汐人の死。
暗くなっていく視界。これまでの人生がチカチカと瞬きながら交錯していく。
次第に煌めきは幼少期の頃の記憶にまでさかのぼっていく。
施設。少年の頃の自分。
どうして僕には僕のことを無条件で大事にしてくれる人がいないんだろう。
どうして。
いないなら獲得しにいくしかない。無償で永久に約束される愛、恋人にそれを求めるべきなんだろう。
だがその対象がたった一人だと信用ができない、何らかの拍子に失われないとどうして言えようか。できるだけ多く、多くの人間に。
「……気が強くて、したたかで、傷つきやすくて、人を信じられなくて、でも信じてみたいと思っている、慧一。できる限り多くの他人に深く刺さり記憶に残り続けたい強い望みを持つ、可愛い慧一。」
「!!」
ふいに俺の左の中指と薬指がピクリと動いた。
気のせいだろうか、俺の意思と関係なく。俺でない何かが俺の指を動かしている。そう察して、ぞっとするものが背中を駆け上がる。
「なに……?」
「動いた」
耳元で汐人が囁いた。
動いたとはどういう意味だろう。気味が悪くなって、抵抗するように指先に力を入れる。
だが、今度は明確に俺の意志ではない力で、左手の指がバラバラに動く。動きを確認するようにうごめいている。
自分の身体が意志と関係なく勝手に動く、未知のおぞましい感覚に本能的に身の毛がよだつ。
「動く、慧一の指…」
「ひッ………」
「細やかに動く、ダンスで磨いた先端まで妖艶に魅せる指先」
自分の意志では指一本左手を動かせなくなっていて、左の手を動かす権限を完全に奪われたことがわかる。
次に勝手に左の肘がぎこちなく動いていく。手首、肘、肩関節。左腕全体の制御を完全に奪われるのを、俺は戦慄して見ていることしかできなかった。
「しなやかに動く、しっかり筋肉がついていて柔軟性も非常に高い。慧一の執念と努力の結晶。素敵な腕だね」
隙間なく歯型の模様が刻まれ、内側から強く発光する異様な様相の左腕。
それが確認するように、ゆっくりと明確に意思を持ち、覚えのある動きをしていく。美しく動かされる指先。これは叩き込んだ振付だ。身体に覚えこませたこともできるらしい。勝手に動き続ける左腕。
次に勝手に動き始めるのは右手の小指と薬指。
俺は抵抗しようと、右手の指に力をこめ、必死で頭を左右に振ったが、汐人の肩のあたりに頭を擦り付けただけだった。
「嫌だ……」
――この命はとっくに汐人の手中にある。いつから。
汐人と出会い、汐人由来の血液がこの身に発生した時か。それとももっと前、死んだはずの汐人の気配を、黛壮汰のSNSに見出したときか。
隙間なく噛まれた、一切の自由が利かない両腕からは、絶えず燃えるような激痛が襲い来る。脈動するたびに、もうこの腕は汐人のものであると、支配を主張してくる。
支配した両腕で渾身の力で俺の首を絞め、謎の怪死を遂げさせることもできる。脚を支配することも時間の問題だろうから、窓に向かって歩いていき、居場所がバレるのや盗撮の防止に1cmも開けることを禁じられているカーテンを開け放つと、そこから音もなく飛び降りることもできる。
数日はネットニュースやSNSは、奇怪な訃報で持ちきりになるだろう。
大型合同フェスへの出演を翌日に控えた、飛ぶ鳥を落とす勢いの新人アイドル。けれどそれも、新たな話題が投下されれば嘘のように忘れられていくだろう。
アイドルらしく、なるべく美しく殺してもらえると、メンバーたちが被る被害は最小限で済む。戦略に長けた事務所は、俺の死さえもセンセーショナルにエモーショナルに仕立て上げて、プロモーションの材料に使うだろう。事務所にとっては、俺の存在なんてその程度の材料でしかない。
急にいろいろな考えが脳内を巡って、現実から逃避したい防衛本能だったのかもしれない。
不意にその思考の糸が途切れた瞬間、せき止めていたはずの混じりけのない本音が一気に満ちる。
「助けて…」
瞬く間に、原始的な恐怖感が脳内を覆いつくす。
死にたくない。
死にたくない。死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたく………
「………どうしてこんなことをするんだ。おまえの血が望むからなのか」
背中からの拘束はもうとっくに解かれていた。そうする必要がなくなったからだ。両腕は完全に制御を奪われ、肩からだらりと垂れ下がっているだけになっている。
怯え逃れようとした勢いで、ベッドから転げ落ちる。しまったと思い、アイドルとしての矜持が、無意識に顔を庇おうと肩を先に出そうとする。
だが間に合わず顔を強打する寸前。汐人の手のひらが、床と俺の頬の間に入る。力強いそれが、俺の顔をすくい上げ、床とぶつかる衝撃から守る。
力なく床に転がったまま、汐人の表情をうかがう。毛足の長めのカーペットが、脚にまとわりつく。
「……どういうつもりだ」
「慧一。今の慧一の気持ち、とてもよくわかる。思い出して、目の前が真っ暗になるほどに」
汐人は感情の読めない目をしていた。
彼の目を見ているうちに、ふと自分に起きることを受け入れるだけで、いっぱいいっぱいになっていた思考が拡散する。
汐人はそれまでの扱いが嘘のような手つきで、丁寧に、俺の身体を抱き上げる。全体重を預ける形になり、緊張が走る。だが汐人はそれを意に介さない様子で、丁寧に俺の身体をベッドの上に戻す。
汐人は、俺が先ほど床に叩き落としたティッシュの箱を拾う。何枚か引き出すと、俺の顔を丁寧に拭うことを何度か繰り返す。ひどい顔をしているだろう。乱れた髪に軽く手櫛を通して整える。俺の顔を正面から覗き込み、こぎれいになったか確認する。
テーブルセットの椅子を引くと、汐人はそこに腰掛ける。少しの物理的な距離が生まれ、ほんの少しだけ俺は安堵の息をついた。




