難民達の休日
休日はいつも憂鬱だった。
やることがきめられていない一日は終わりが見えない鬱屈とした日常がいつまでつづくのだろうという不安な気持ちを思いだしてしまうから苦手なのだ。
暦は4月の中頃に差し掛かるぐらいだった。一般的に4月は出会いと別れの季節と言われる。変化をいつも期待させてくれるこの月はわりと好きだ。ただ、今年は私にとって高校生活2年目を迎える年で昨年の入学式のような大きい変化はまあないだろうと若干期待値は低い。それでも長かった春休みが明日ようやく明けてくれる。真っ暗闇のトンネルの出口がみえたかのような気持ちだった。
春休みの間に積もりに積もった気持ちが急に溢れて落ち着かなくなった私は行く場所も決めずに家を飛び出した。時刻は午後4時、家には誰も居なかったのでこの期を逃したくはなかった。後々の“保護者”からの尋問対策にリビングの机の上には適当に友達から呼ばれたから行ってくると走り書きのメモを残しておいた。
都心部まで走る電車に乗って地元から3駅先の地域に到着してから雨が突然降ってきた。
しとしとと静かに落ちる輝きを帯びた細い糸。控えめに降る春の雨はそんなに嫌いではないのだけどタイミングが悪かった。もう少し早ければ傘を持ってきたのに。空はたしかに少し曇っていたが昨日テレビでみた天気予報では雨が降るとは言っていなかったからすっかり油断していた。
傘を取りに戻るには家からの距離はもう大分離れてしまっている。
そんなに雨の量も多くないから傘を差さなくてもすぐに止むだろうと無理矢理楽観的に考える。私は駅舎をでて素朴な駅前通りを歩く。
この辺りは私が通う高校の友人の家もあってそれなりに訪れることが多い場所だった。通りには美容院や喫茶店など小さな店がぽつぽつと立ち並んでいた。今日はどこかに立ち寄る気分ではないけど、いくつかのお店の店員さんとは買い物をする度にちょっとした雑談をよくする程度には顔見知りだ。
見知った場所で一人ひたすら歩くだけで時間が消費されていく。
土砂降りの雨ではないといっても打たれ続けているため、衣服はすっかりと湿り気を帯び体の熱を奪っていった。しかし、このときはそれを不快とはあまりおもわず、むしろ心の泥が洗い流されるような妙な安心と火照りすぎた頭が冷えていくような落ち着きを感じていた。軽く現実逃避しているかもしれない。
店先に置かれた看板を店内に運んだり、窓のブラインドやシャッターを下ろすといった一日の撤収作業に取りかかる店も出始めてきた。その流れに合わせかのように雨の音に混じって防災無線を利用した夕方のチャイムが少し遠くで流れる。どんよりとした空の下で響く夕焼け小焼けの高いメロディーは哀愁を感じさせる。時間をかけてゆったりとながれていた童謡は終わりを惜しむように余韻をしばらく残して鳴り止んだ。それを合図に以降は、それぞれ帰る場所にむけて足を運ぶ人が増える。通りの人気は一気に少なくなった。
どんなに歩き続けていてもどうやらこの胸の内の空虚な靄を晴らす出来事は起こらないようだ。どうしようもない時ほどそうなのかもしれない。誰かに声をかけてもらったところで応じる言葉も余裕も今はないからいいやと、理性は現実を受け入れようとする。
しかし、感情はそう簡単に納得しないようだった。性懲りもなく歩みを止めず宛てもなく見知った道を歩き続けた。私はこうと決めたらこだわり続けてしまう頑固な性格だった。
やがてお店が建ち並ぶ通りを抜けて住宅街に続く道に足を踏み入れる。周囲は閑散として道を照らす灯りは少ない。警戒して人通りの多い場所にひきかえす方が安全なはずだが、ここまで一人で歩いている時間が長いと、人混みの中で常にまとわりつく孤独感から少し逃れられたようで妙な落ち着きを覚えてしまう。
思わず、はあ………と長いため息をつく。途端に体全体の力が急に抜けて歩く足が重くなりはじめる。外だからと耐えていた涙をせき止めるダムは今にも決壊しそうだった。頭の中では混乱と焦りが泡みたいにふつふつと無数に沸き、外に吹き出さないようにと無理矢理に押さえている鍋蓋をすぐにでも取っ払ってしまいたくなった。本能のままこのまま溢れさせてしまったらどんなにいいだろうか。私はたまらず濡れた黒いアスファルトの上を衝動のままに駆ける。
ふと狭くなった視界の前方に小さな橋がうつった。脇には花弁が大分散って青い葉っぱの混じった桜の木が川沿いに数本並んでいた。ありふれた春の光景だったけど、何かに吸い寄せられたかのように橋に近寄る。しばらくここで落ち着こうと思った。
欄干の下の地面には薄紅の桜の花びらがびっしりと鱗みたいにこびりついていた。ほんの少し前まで枝いっぱいに花弁を纏わせた桜の木々をもてはやす花見客がここに集まっていたことをふと思い出す。目の前の光景と比較してやっぱり春は一瞬で儚いなと思いつつもこれくらい潔く散ってしまったほうがかえって桜も一年心穏やかに過ごせるかもしれないとも思った。
黒い眼には辺りの地面にポイ捨てされた酒の空き缶やたばこの吸い殻が映っていた。
人はどこまでも勝手だった。
橋の下をのぞくと川が流れていた。ごおごおと小さく唸るような音が周囲に響いている。
すこし荒く早いその水の流れにどうにでもなれと自分を任せてしまいたくなった。
途端涙が一滴頬をすべる。するとそれを皮切りに次から次へどんどんあふれていく。まあ雨が降っているから他の人間には気づかれないだろうと思い、私は顔を橋の下に向けた状態で声を殺してしめやかに泣いた。私は泣き場所を探していたのかもしれない。
「ちょっといいかな。」
すると背後から突然声がかかる。
わたしはびくっと、体を小さく震わせ、油の回っていない機械のようにぎこちない動作で後ろをふりむく。目の前には黒い傘を差しジャケットとジーンズをあわせたカジュアルな装いの中年男性がいた。男はとにかく身長が高かった。150センチの学生の私の背丈より30センチほど高いかもしれない。
筋肉がそれなりにあって下から見上げると少し迫力がある。頭の中で警報がなる。
未成年に急に声をかける知らない大人にはあまり良いイメージがなかった。知らない大人の甘い言葉には気をつけようというポスターに書かれていそうな言葉が脳内をよぎる・今すぐ逃げないと。理性が逃げろと指示をしているのに体は言うことをきかずその場に凍り付いてしまっている。
「ごめん、突然こんなおじさんに声かけられても怖いよね。」
相手を睨み付けるように凝視している私の様子に男はあわてて言葉を足す。
「泣いているようにみえたから、なんだかほっておけなくて。」
男の声は慌てていて若干早口だったけれども、低すぎず高すぎない落ち着いた声の調子だった。言葉の一音一音がひっかかることなく耳から胸の奥中心にまっすぐストンと落ちるかのような不思議な音をしていた。お寺の和尚さんが突く鐘の音をなぜか思い出した。
私は少し余裕を取り戻して、何か言葉を返さないと心配してくれる相手に失礼と思い言葉を返す。
「えっと・・・別に大丈夫です。心配しなくても、今日がそういう気分だっただけですから。」
でてきた言葉は年頃の少女らしいかわいさがない無愛想な返事だった。
「そっか。若い子もいろいろあるよね。でも風邪をひくと後が大変だから。これを使って。」
男は、さっとポケットから少し大きい緑色の折りたたみ傘を出した。
「そんな悪いです。」
思いも寄らない親切に反射的に私は距離をとって男の善意を拒絶した。甘えたらそこからつけ込まれるかもしれないと警戒したからだ。心の中は捨てられた猫のように壊れやすく繊細で周囲への不信感で溢れていた。拒絶する意思を頑なにくずさず距離をとったままでいる私に男は少し困ったように言葉をさらにかけた。
「いや、そのままの状態でいられると俺の気分が悪いから。受け取ってくれないかな。」
あくまでかけられる言葉は提案ではあったけれども、雨にぬれることも厭わず迷いなく腕をまっすぐとのばす姿がなんだか黙って見ていられなかった。根気比べに負けた私はバトンのように折りたたみ傘を受け取る。受け取る間際に左手の薬指に目が行った。太くしっかりとした指に収まる銀色に輝く華奢な指輪。なるほどもっているものの余裕か。ならこの瞬間だけはうけとっておこうと、自分自身に無理矢理納得させて受けとるためにのばした腕をすばやく引きあげる。
ひきあげた後にたばこの濃い臭いが後を追うようにまとわりついてきた。目の前の大人の日常を想像させる臭いだった。
「ありがとうございます。」
いろいろ男に対して思うところはあるものの受け取った親切に対して軽い一礼と一緒にお礼の言葉は一応返す。
「ううん、できればすぐ使って。それと、その傘だけど返さなくていいよ。丁度捨てようと考えていたところだから。煮るなり焼くなり好きにして。」
真面目さをかくすような少し砕けた話し方だった。
受け取った傘を改めてみると真新しいものだった。使われていたとしても一度か二度かもしれない。私はその場で折りたたみ式にしては少し大きめの傘をひろげる。
ちょっとくらい強い風がふいても動じないくらい骨組みがひとつひとつ頑丈で丁寧に使用すれば長く使えそうだ。使わずに放置するのも可哀想だなとおもった。
「おじさん、大人も色々あるんですか?」
池に一つ小さな石を投げるようにぽつりと目の前の男に小さく問いを放つ。この水面をくずしてやりたいと好奇心がうずいていた。
「え、まあ・・・そうかもね。どうして?」
困ったような曖昧な答えが返ってくる。更なる波紋を期待して私は会話を続ける。
「うーん、雨の日にこんなところを歩いてこんな会話をしているから、そう思ったのかもしれません。」
「ふむ…今日だけじゃなくて、いつも空いた時間があるとこのあたりを歩いてはいるけどね。」
つぶやく男の姿はよくみると身なりはビシッと整えてあり清潔な出で立ちではあった。けれど表情は少し覇気がなく瞳の光がかげっているように感じられた。
「そういうときって歩くこと以外で他に何かしていることってありますか?」
「あまり。強いて言うなら歩いている人を見ているかな。」
「え、知らない人を見るのって楽しいです?」
男から思いも寄らない答えが返ってきて好奇心に突き動かされてつい続けて聞き返してしまう。人間なんてそれぞれ自分のことしか考えていないのに観察することの何が楽しいのだろう。
「楽しいというか俺は見ていると落ち着く。疲れて余裕がないときほど周りは見ているよ。」
「ふーん。よくわからないです。」
「人を見ていればわかるよ。」
男はすこし楽しそうに笑う。もしかして今私を子供扱いしているのかもしれない。
「私が見ても相手は見ないじゃないですか。一方的でつまらないですよ。」
私はすこしすねた調子でつっけんどんに返す。
頭の中では先ほどまで一人で通りを歩いていた時間が再生されていた。あの時間まで巻き戻ってその行動をまねしてみてもよりいっそう胸の中の孤独が深まる気しかしなかった。
「まあまあ、俺はそういう習慣をつづけていた自分に今日は感謝したい気分だけどね。」
男は私の姿をじっと見つめて言葉をそのままつづける。
「ああ……そろそろ君も家に帰った方が良いよ。濡れた服のまま外にいると風邪をひくし、あんまり女の子がそんな格好していると悪い男が寄ってきてしまう。」
「は?」
思わず飾ることを忘れて内面の感情のまま声が出てしまった。
先ほどの落ち着いたおじさんの話し方とはうって変わった浮ついた若い男のような言葉を聞いて上がっていた心の熱が急激に冷めていくのを感じる。鳥肌がたち魔法が解けるように思考が現実にむいていく。とっさに胸の辺りを覆うように腕で隠した。既婚者の成人男性のくせに未成年の高校生をどんな目で見ているんだ?やっぱり危ない大人じゃないかコイツ?
「じゃあ、気をつけて。」
男は私から一歩距離をとると右手をゆっくりとはたはたと振った。
私は、逃げるように推定ロリコンおじさんから背を向けて走り出した。
これ以上変な人間に遭遇しまいと可能な限り最短距離で急いで家に帰った。
少女が慌てて立ち去ったあと男は苦笑しその場でどんよりとした空を見上げた。そしてぽつりと呟く。
「失ったあの日から5年。俺の心はずっとあそこに置いたままだったんだが。」こぼした言葉と一緒に熱いしずくが一滴頬を伝った。どこか力がぬけたような表情だった。
今に現を抜かしたら空にいる彼女は浮気したと怒るだろうか、それとも安心するだろうか。考えてもわからなかった。雨の日はたばこが吸いづらくて煩わしい。
男は口寂しさを落ち着かせるため待つ人がもういない抜け殻の部屋にむけてゆっくりと帰宅した。
帰る場所のない二人の休日はこうしてあっけなく終わった。
日常はもう少し続くが、翌日は雨があがりよく晴れた青空だった。
青空のもと行われた始業式の日思いがけず男と少女は講師と生徒として少女の高校で再会する。
人生が大きく狂うまであとわずかだった。




