老執事と、母の残した灯火
領地の境界線を越え、霧の深い山道へと差し掛かった時。
ボクの後ろから、規則正しい、けれど重みの感じられない足音が響いた。
「坊ちゃま、少々歩みが早すぎますな。老人の体には、この山道は酷でございます」
振り返ると、そこには見慣れた、けれど今のボクには一番意外な人物が立っていた。
アグニール公爵家に四十数年仕えている老執事、バルトだ。
背筋はナイフのように真っ直ぐに伸び、使い込まれた燕尾服には埃一つついていない。その手には、ボクの着替えや日用品が詰まった大きな革鞄が握られていた。
「……バルト? どうしてここに? 君は屋敷に残って、父様たちに仕えなきゃいけないはずじゃ……」
ボクの問いに、バルトは歩みを止めることなく、ただ穏やかに眼鏡のブリッジを押し上げました。
「坊ちゃま。私は、紅茶の淹れ方を忘れた主人には仕えぬ主義でしてな。あそこの空気は少々……焦げた茶葉のように鼻につくようになりました」
彼は淡々と、けれど父様たちへの痛烈な皮肉を口にしました。それは、かつて一度も公爵に逆らわなかった彼からは想像もできない言葉だった。
「バルト、君まで苦労することはないんだよ。ボクはもう、アグニールの名も、未来も失ったんだ」
バルトは立ち止まり、ゆっくりとボクを振り返りました。その瞳には、憐れみではなく、静かな、深い湖のような光が宿っている。
「坊ちゃまは、あの方によく似ておいでだ」
「……あの方?」
「かつて私に、『一番大事なものは、目に見える力(魔力)ではない』と……そう教えてくださったお方です。私はその『教え』を最後まで守り抜くと、あの日、心に決めましたので」
バルトの視線は、ボクの背後……遠く、今は亡き母様が愛した庭園のあった方角を向いている。
母様が遺してくれたのは、家系図の席ではなく、この老執事という名の「盾」だったのかもしれない。バルトは直接的な言葉こそ口にしていないが、その立ち姿が、何よりも強くボクを肯定してくれているようだ。
「さあ、参りましょう。道端の石ころを眺めていても、腹は膨らみませぬ。リーニャ嬢から頂いた包みから、香ばしい良い匂いがしておりますよ」
バルトはボクの小さな荷物を片手でひょいと持ち上げると、まるで散歩でもするかのような優雅な足取りで、不毛の地へと続く道を示す。
お読みいただきありがとうございます!
若輩ながら精進しますんだからー!




