第7話
この話には、
怪物も、敵も、明確な悪意も出てきません。
出てくるのは、
誰かの隣に立ちたいという、
ごく自然な気持ちだけです。
もしこの世界で、
一人でいることよりも、
誰かと一緒にいることのほうが
危険だとしたら。
それでも、
あなたは同じ影に入りますか?
⸻
第7話
同じ影の中で
避難所になった中学校の体育館には、時計がなかった。
正確には、あったはずだ。壁の高い位置に丸い影だけが残っていて、針も数字も見当たらない。誰かが動かしたのか、消えたのかはわからない。ここでは、時間を測ろうとしたものから順に失われていく。
人々は、床に等間隔で立っていた。
座る者はいない。横になる者もいない。
姿勢を変えることが「動き」になるかもしれないからだ。
俺のすぐ隣に、同じくらいの年の男がいた。
二十代後半。スーツの上着を脱いだまま、ネクタイを緩めていない。
さっきから、ずっと同じ影に入っている。
体育館の天窓から差し込む光が、わずかに傾いているせいで、影の中にいられる場所は限られていた。誰かと重ならなければ、そこに立てない。
結果として、俺たちは肩が触れるほど近くにいた。
触れている、と言っていいのかもわからない。
触れたと認識した瞬間が、危険な気がした。
彼は、声を出さずに口だけを動かした。
(……聞こえた?)
俺は、瞬きだけで答えた。
聞こえた。
さっき、遠くで。
「だるまさんが転んだ」
体育館のどこかで、誰かがそれを聞いたのだろう。
しかし、爆発は起きなかった。
代わりに、一人が、ゆっくりと崩れ落ちた。
倒れた、というより、支えを失ったようだった。
音はなく、床に触れる直前で、その人は消えた。
影だけが残った。
隣の男の呼吸が、わずかに乱れた。
それが伝わってくる距離にいることが、急に怖くなった。
俺たちは、同時に理解していた。
一人が耐えきれなくなれば、
もう一人も巻き込まれる。
ここでは、孤独よりも、他人の存在の方が危険だ。
それでも、離れられなかった。
影の外に出れば、どうなるかは明白だったからだ。
男の額に、汗が滲んでいる。
拭えない。動けない。
それでも、必死に「何も考えない顔」をしている。
俺は、ふと、どうでもいいことを思った。
――この人の名前を、俺は知らない。
その瞬間、耳元で声がした。
「だるまさんが転んだ」
近い。
あまりにも近い。
誰の声かは、わからなかった。
放送でも、子どもでもない。
すぐ隣から聞こえたような気もした。
男の肩が、わずかに震えた。
耐えきれず、彼は俺の袖を掴んだ。
掴んでしまった。
その「意思」を、世界は見逃さなかった。
白い光が、影の境界線をなぞる。
消える、と思った。
だが、消えたのは――
彼だけだった。
掴んでいた手の感触が、途中で途切れる。
重さが消え、熱が消え、存在が消える。
俺は、影の中に一人、残された。
さっきまで二人分あった影が、
今は、俺一人分しかない。
誰も、こちらを見ない。
見られた瞬間、次は自分だからだ。
声は、もう聞こえなかった。
けれど、俺は知っている。
この遊びは、
誰かと一緒にいたいと思った瞬間に、始まる。
俺は、影から動かない。
動けない。
床に残った、
彼の影だけを踏まないようにしながら‥。
止まることは、
必ずしも一人であることを意味しません。
けれど、
誰かと一緒に「残りたい」と思った瞬間、
その気持ちは、
もう動き始めています。
名前を知りたいと思うこと。
触れたいと思うこと。
支え合いたいと思うこと。
この世界では、
それらはすべて、
ほんのわずかな前進です。
もし、あなたがまだ無事なら。
それは、
誰とも影を重ねなかったからかもしれません。




