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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

情欲の犠牲者たち

作者: 真央幸枝

ひゅん、ひゅん、ひゅん。


街の集合住宅の屋根上を、風を切るように駆け抜けて、屋根から隣りの屋根へと飛び移る。

気持ちが良い。

高いところから見下ろす夜の王都の下町。

晩夏の夜風が頬をくすぐる。


暗闇の中、頼りになるのは自分自身の五感と、月明かりと、仄暗いランタンの街灯り。


足音を立てずに走れるようになり、鍛錬の成果は如実に現れている。

屋根の下で眠っているだろう住人は、まさか頭上で、妖しい美人が走っているなどとは思いもしないだろう。


実家の護衛兼、私立探偵兼、とある秘密結社所属の侯爵令嬢コリーヌはふと、その足を止めた。

屋根の下には石橋が見え、橋の真ん中辺りに、ランタンを持ったドレス姿の令嬢が佇んでいる。


「・・・エリサ様?」


コリーヌはボソリと呟いた。


コリーヌの姉マリーヌの友人、公爵令嬢のエリサがひとりでボンヤリと川を眺めているではないか。


こんな夜遅く、供もつけずに不用心な上、しかも季節にそぐわない厚手のドレスを着ていて、違和感が満載である。

コリーヌがピィーと夜空に向かって指笛を吹く。

しばらくすると、屋根の上にひとりの男が現れた。


「・・・どうした?」


「あそこに公爵家のご令嬢がひとり」


コリーヌが顎をしゃくって見せると、男は眼下の橋を見た。


「・・・入水自殺でもするつもりか」


「そうみたい。迷ってはいるようだけど」


「止めるのか?」


男は抑揚のない声で尋ねる。


「止めるし、保護もするけど、きな臭いネタが掴めそう。そこの公爵家の嫡男・彼女の兄を例の教会へ連れて来てくれない?」


コリーヌが感情も込めずに答えると、男は無言で頷き、すぐに屋根を伝って走り去った。


エリサはいよいよ決心をしたのか、欄干に身を乗り出した。川面に向かって頭から落ちようとしたその時、地上に飛び降りたコリーヌに、がっしりと下半身を捕らえられる。


「・・・こんな夜更けに身投げですか?エリサ様」


地面に足がつく。バックハグをされている彼女は身体中を震わせて、恐る恐る振り向いた。それから見知った顔に驚愕の表情を浮かべる。


「コ、コリーヌ?な、な、なんで、こ、ここ・・・」


今更ながら、死への恐れに身体が震えて止まらないエリサに、コリーヌは冷やかな笑みを浮かべると、彼女の首の一点をグッと押した。

不意のことに無抵抗だったエリサはヒッ!と小さな声を上げてから、呼吸ができなくなり、恐怖も相まってすぐに失神してしまう。


コリーヌは再び、ピィーと先程とは違う音色の指笛を吹く。

エリサを抱きかかえたまま、少しの間待っていると馬車が橋を渡って来た。


「教会へお願い」


「御意」


コリーヌと御者でエリサを馬車に運び入れ、コリーヌも乗り込むと、馬車は夜道をガラガラと走り出した。





薄暗い小さな部屋のベッドでエリサは目を覚ました。

厚手のドレスは脱がされており、簡素なワンピースに替わっている。


「目が覚めましたか。水でも飲みますか」


ベッドのそばに座っていたコリーヌに、手伝ってもらいながら上半身を起こしたエリサは、戸惑い気味にグラスを受け取った。ひと口含んだものの咽せてしまう。


「コ、コリーヌ、あなた夜遅くに何であんなところに」


「それはこっちのセリフですよ」


コリーヌは呆れ気味に言う。


「・・・・・・」


「あんな汚くて浅い川に飛び込んでも死ねませんよ」


コリーヌの無表情な瞳に、エリサの背中にゾクリと寒気が走った。


「それに入水自殺はお勧めしません。水死体のおぞましさを知っていますか?発見が遅くなれば遅くなるほど皮膚はぶよぶよにふやけて、とても見られたもんじゃありません。だからと言って首を吊るのもナンセンスですが。下の穴という穴から臓器や糞尿が垂れ流れ・・・」


エリサがうっと、吐き気を催した。嘔吐はしなかったものの、その顔色はひどく悪い。


「・・・もう十分よ」


エリサが言う。


「でもわたくしは死ぬのを諦めないわ」


「なぜ?」


コリーヌがエリサの両手を取り、優しく握り締める。


「・・・言いたくないわ・・・」


「それは糞ブルーノに関わることだから?」


侯爵令嬢のコリーヌにとっては格上の貴族令息にも関わらず、敬称もつけず、むしろ『糞』などと言ったので、エリサは目を見開いた。


「あのクズ野郎が糞だってこと、聡い連中は知っていると思いますけどね?」


普段の穏やかな口調とは違うコリーヌに、エリサは若干の戸惑いを感じ始めているようである。


「・・・あ、あの、それより、ここはどこかしら?」


「ここは教会の一画にある避難所です。暴力や虐待などから子女を保護するためにあります」


「暴力や虐待・・・」


エリサはコリーヌの言葉を繰り返した。


「そうです。ここは安全ですよ。エリサ様を苦しめる糞はやって来ません」


エリサは息を飲んで、コリーヌを凝視した。


「・・・あなた、女性騎士団に入団してみたり、でもすぐにクビになったり、かと思ったら、迷い猫探しなんてしてみたり。侯爵令嬢らしかぬ女性だとは思っていたけど・・・」


「いたけど?」


コリーヌは話の先を促す。


「想像以上かも知れないわね」


「そうかも知れないし、そうでないかも知れません。

人間なんて、所詮はちっぽけな生き物ですからね」


平民ならともかく、貴族が『ちっぽけな生き物』などと表現するとは。エリサは思わず、クスリと笑みを浮かべた。


「そう言えば、子どもの頃、公爵家(わがや)のお茶会で、コリーヌは芝生で側転や宙返りとかして、おば様にひどく怒られていたわね」


「子どもがお上品にジュースなんぞ飲んでいられません。身体を動かしてナンボです」


「・・・あの頃は楽しかったわ」


エリサは目を伏せた。長いまつ毛が揺れている。


「エリサ様、なぜ死のうとしたのです?」


単刀直入に聞いてくるコリーヌの真剣な眼差しに、エリサはふぅーと長い息をついた。





「僕と婚約解消したいだって?」


ある日の定例茶会で、ブルーノ公爵令息はエリサの屋敷に来るなり、開口一番にのたまった。


エリサは父親に頼んで、以前から婚約していた公爵家嫡男、ブルーノとの婚約解消を願い出ていた。

理由はもちろん、子爵令嬢アメリとの浮気と、金品をたかってくるからである。本当ならば、有責の破棄にしたいのだが、兎にも角にも婚約者の座から一刻も早く降りたかった。もう金輪際、関わりたくはない。

そのくらい嫌悪感を抱いていた。


以前、父親に『ブルーノに浮気相手の装飾品の支払いをさせられている』と相談したところ『自分で解決するように』などと言われかなり失望した。

だが、父の公爵はブルーノをとっくに見切っていたのだ。いつエリサが婚約を白紙に戻すと言ってくるのか待っていたと言われ安堵した。


「そうですわ。あなたと結婚してもわたくしには何のメリットもありませんから」


婚約解消の申し立てに激怒されたのか、ブルーノは自分の父親に殴られたようで頬を腫らしていた。


「こっちには都合が悪い」


ブルーノは切れた唇を大きく開けないよう、指で庇いながら言う。


「あなたの都合など関係ございません。浮気三昧な上、金品をたかられたのではたまりませんわ。

わたくしはあなたの金庫ではありませんのよ」


「夫を立て、夫を支えるのが妻の務めだ」


ブルーノの勝手な言い分に、エリサは心底呆れた。一体全体、どのような紳士教育を施せば、このような頓珍漢な男が育つのだろうか。


「わたくしはあなたの妻ではありません。それにもうすぐ婚約者でもなくなりますわ。速やかにお帰りくださいませ」


「僕は解消するつもりはない」


「アメリ子爵令嬢を妻にすればよろしいのでは?

家格が問題かも知れませんが、公爵家の手に掛かれば、造作もないことでしょう」


エリサはウンザリ気味にため息をついた。


「アメリは公爵家の妻としては相応しくない。遊ぶ相手としてはこの上ないが、品格も知性も社交性も全てにおいて君に劣る。僕の子を産むのは君が一等相応しい」


ブルーノはさも当然だと言わんばかりに頷く。

遠縁とはいえ、王家の血筋を引くふたり。

だがエリサはゾッとした。この男は女性を愛玩や所有物としてしか見ていない。女性の心や気持ちなどお構いなしなのだ。

エリサは呼び鈴を鳴らして、すぐさま侍女を呼びつける。

そうしてぐだぐだ御託を並べるブルーノを早々に追い出した。


しかしもうすぐ婚約は解消、というところで事件は起こったのである。





「・・・わたくしは馬車で移動中、ゴロツキに攫われて、あの人(ブルーノ)が隠れていた連れ込み部屋に連れて行かれて襲われたのです」


静かな部屋にガタッ!と大きな物音が響いた。

エリサがビクリと肩を震わせ、コリーヌは眉をひそめる。


「ご安心ください。ネズミかなにかでしょう」


コリーヌはエリサの手を握り続けていた掌にきゅっと力を込めた。


「・・・その後はショックと恐怖で茫然自失で。しばらく塞ぎ込んでしまって・・」


ブルーノは卑劣な男だった。必死で抵抗するエリサに違法薬物を盛り、意識混濁としたところに、ただ乱暴にスカートだけを捲り上げて、事に及んだのである。

ドレスを脱がせても着付けられないし、既成事実だけが欲しかったのだから。

それに誇り高き公爵令嬢のエリサが、誰かに訴えることはしない確信もあった。

おまけに、エリサに同行していた御者や侍女までも脅す徹底ぶり。悪知恵だけはよく働く男である。


「・・・わ、わたくしは初めてだったのに。あんな乱暴な扱いされて・・・」


「・・・・・・」


コリーヌは無言であったが、その瞳には怒りが滲んでいた。


「そうしたら、月のものが来なくなっ・・・」


そこまで言って、エリサはううっと涙を流す。


「お願い。コリーヌ。わたくしを死なせて。悪魔の子など身籠りたくないの。産みたくないのよ」


ここは教会だ。この件が教会側に知られたら、堕胎を認めない教会はエリサを監禁でもして、意に沿わない妊娠出産を強いるだろう。

そうして生まれた子どもは当然のように、ブルーノ側の公爵家に引き取られるに違いない。

それがさも正義、神への忠誠とでも言わんばかりに。

かと言って、エリサを遠くに逃し、堕胎手術を勧めることもエリサ自身は望まないだろう。


ブルーノに襲われた時点で、エリサは奈落の底へ落ちてしまったのだ。


「冷酷だと言われようと、非道だと言われようと、わたくしには死の選択しかないわ」


「・・・・・・・」


「いやなの。無理なの。毎日が苦しいのよ」


とめどなく流れるエリサの涙を、コリーヌは手を離して、ハンカチで拭うと、そっと抱きしめる。


「誰にもエリサ様に命令も支配もさせません。

エリサ様の人生はエリサ様のものです。

・・・私にはエリサ様を思いとどまらせる術がありません。

誰に非難されようとも、私は貴女の意志を尊重します。

それに悪いのは罪を犯した糞ブルーノと、それに気づかなかった周りの愚かな人間たちです。

しっかり見ていれば、襲われた日、あなたの様子がおかしかった事に気づくでしょう。

段々とあなたの体調が悪くなってきた事に気づくでしょう。

親もきょうだいも友人も使用人たちも誰も気にもとめなかった。

それは最大で最悪の罪です」


コリーヌの言葉にエリサは声を殺して泣き続けた。


「・・・これは毒薬です」


いつから持っていたのか、コリーヌが上着のポケットから小瓶を出した。


「・・・・・・」


エリサは濡れた瞳を小瓶に向けた。


「これを服毒すれば、眠るように逝けるでしょう」


「・・・これをわたくしに?」


「条件がひとつありますが」


コリーヌの言葉にエリサの目に困惑の色が浮かんだ。


「ご家族に看取られながら使用して下さい。

たくさん話し合って、決めて頂きたいのです。

もし・・・服毒すると決めたとしたら・・・

彼らには生涯罪を背負って頂かなくてはなりません。

・・・もちろん、毒を渡した私も同罪です。

なぜなら何の落ち度もない尊い若い命をふたつも失くすのですから」


隣りの部屋でエリサの兄が慟哭する声が聞こえた。

エリサが驚いたようにコリーヌを見つめたが、コリーヌは冷たい表情で、


「今さら泣き喚いたところで遅いんですよ」


と苦しそうに吐き捨てた。



そうして・・貴族御用達のドレスショップで、ブルーノとアメリにエメラルドの髪飾りを奪われた数日後、エリサは服毒に至ったのであった。





王国の王太子と東国の姫君の婚約の儀もつつがなく終わり、夜通し続いた夜会明け、ディドレス姿のコリーヌとアルドリック第二王子の姿が墓地にあった。


「季節が一周しましたね・・・」


コリーヌはエリサの墓に花束を供える。姉マリーヌとエリサの兄もしばらくしたら結婚式を挙げるだろう。

エリサの両親はあれから一気に老け込んでしまい、早々に隠居生活を送りたいのだそうだ。


ブルーノ側の公爵家は、家督が別の親族に移った。

次期当主予定の息子が謹慎中にも関わらず、酒場の逢引き部屋で、浮気相手と全裸で繋がったまま串刺しのように刺殺され、首を取られたのだ。

前代未聞の醜聞であったが、公爵家は存続している。

浮気相手のアメリの子爵家は、とうに取り潰しとなっていたが。


「安らかに眠っているでしょうか」


「眠っているだろう」


「糞男共は一掃されましたものね」


「・・・綺麗な格好して、糞なんて言うのはやめなさい」


アルドリック王子が眉をひそめる。


「うんこお坊ちゃま達は一掃されましたわ」


そしてコリーヌは王子の肩に頬を寄せ、抱きついた。


「ぎゅっとしてください」


アルドリックはちょっと驚いたものの、コリーヌの背中に腕を回す。


「もっと強く抱きしめてください」


コリーヌは言った。王子が力を込める。


「もっともっと強く」


「・・・そんなに腕に力を込めたら、息ができなくなるだろう?」


アルドリック王子はコリーヌを心配そうに覗き込む。


「いいのです。あなたに強く抱きしめられるたびに、生きているのだと実感します」


そうしてコリーヌもアルドリック王子に回した腕に力を込めた。


強くなりたい。心も身体も。

次こそは大事な人たちをしっかり守れるように。


アルドリック王子はコリーヌをきつく抱きしめ、秋の気配を感じさせる空を見上げた。

端正な顔立ちが切なげな表情に変わる。


コリーヌは憤るだろうから言わないが、ブルーノはエリサに執着はしていたように思う。そこに愛情があったのかはどうか、本人ではないから定かではないが、歪んだドス黒い感情は抱いていたようだ。執着して、縛りつけて、自分の元に据え置いていたいと渇望していたと感じる。何とも愚かな男で、同情の余地は一切ないが。

ブルーノの首は複数の貴族からの依頼だったのだ。

あのままブルーノたちを野放しにしておけば、貴族間で違法薬物が蔓延する恐れがあった。


強くありたい。

愛する者を守れるように。


アルドリック王子とコリーヌは、互いにぎゅうぎゅうと抱き締め合い、それからふっと笑みを交わしたのであった。

いつもありがとうございます!

申し訳ありません。

感想フォームは閉じさせて頂いております。

m(_ _)m

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