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見えない僕を見つけた君との5日間

作者: 日向隆人

0日目の夜


「はぁ……今日も疲れた」

 優人はそう言いながらベッドに横たわっていた。この疲れは、身体的なものではなく精神的なものだ。優人は人間関係に疲れを感じてしまい、今は引きこもり状態になっている。だから、SNSの通知はオフにしている。それでも、通知の数が嫌でも目に入ってくる。それさえも、優人にとっては無視しているという事実に対して、申し訳なさと苦しさがストレスに感じてしまう。


 そんな優人だが、1日の中で唯一、人と顔を合わせる場面があった。それは夕食時だ。夕食時は、両親と3人で食事をしていた。だが、食卓には両親との会話はなく、優人にとって、酸素が薄くなったように感じて息苦しくなる、そんな空間だった。そんな風に感じて以来、自室で食事をするようになった。食事は、母が自室の前に置いていく。最初の方は「置いとくね」と一声あったが、今となって何も言わずに置いていくため、カタッという寂しい音だけが食事の合図だった。


 両親とも顔を合わせない。次第に無関心になっているのではないか。そんなことを考えているうちに優人は徐々に1つの答えに辿り着いた。

 自分は見えていても見えていなくても変わらない、きっと家族や友人には何の影響もない。それなら、誰からも視認されなくなればいいのに……。

 そう思うようになった。


 色々なことを考えているうちに夜が更けていった。ウトウトし始めた優人は、スマホを充電し、扇風機を回して、いつものように睡眠用BGMをワイヤレスイヤホンで聞きながら眠りについた。翌日、自身の思いが現実となることも知らずに。


1日目


 翌朝、目が覚めると、5月下旬にもかかわらず、汗で服がびっしょりと濡れていた。

 大丈夫か自分? 優人はそう思いながら、時計に目をやると、そこには8:30と表示されていた。

「シャワーでも浴びるか」

 ボソッと独り言を言いながら、自室のドアを開けて、階段を降りた。1階には誰もいなかった。窓から外を覗くと車もなかった。優人は日曜日だし、どこかへ出掛けたのだろうと思い、気にも留めず浴室へ向かった。


 シャワーを浴びていると、明け方に見た夢が脳裏によぎった。それは、余命宣告される夢だった。医者から「余命5日です」と言われた優人は、笑いながら「そんなわけないじゃないですか」と冗談半分で言ったが、医者の顔に笑顔は無かった。優人からも笑顔は消え、「そんなわけないですよね」ともう1度尋ねた。すると、医者から「――――」

 ここで目が覚めた。


 シャワーを浴び終えた優人は、突然恐怖心に襲われた。しかし、夢の内容に恐怖を抱くなんて馬鹿馬鹿しい。お腹もすいたし朝食でも食べよう。そう思ったからなのか、すぐに平常心に戻り、白米とインスタントの味噌汁に箸を付けた。


 朝食を食べ終え、優人は、これからこの日曜日をどう過ごそうかと考えていると、玄関のドアが開くと同時に垂泣している母と、目に涙を浮かべながら母の背中をさする父の姿が見えた。


 両親のこんな姿を目の前にして、さすがに無視できず、何より泣いている理由が気になった優人は、思い切って口を開いた。

「お……おかえり。一体……何が……あったの?」

 しかし両親からの反応は無く、母の泣き声だけが家中に響いている。優人は、思い切って口を開いたにもかかわらず無視されたことに対して、若干の苛立ちを感じたが、それを抑えてもう一度尋ねてみた。

「なぁ、何があったん?」そう言いながら、父の肩をトントンと叩こうとすると、優人の手が父の肩をすり抜けた。

「えっ?」

 優人は、目の前で起こっている状況を理解できなかった。

「なぁ……なぁ、なぁってば!」

 しかし両親は優人の存在に気づいていない。

「お願い……こっちを見て……お願い」

 それでも両親は気付かなかった。

 優人は、自分の存在が見えていないことを理解した。


 優人は、自身の思いが現実になったが、両親があれほど悲しむとは思いもしなかった。

「もう……僕なんかの心配……してないと思ったのに」そう言い、涙を浮かべながら、今起きているこの非現実的な事象から目を逸らすかのように、階段を登った。

 そして自室に入ろうとした瞬間に、ある1つの疑問が浮かんだ。優人は、その疑問を晴らすためすぐにキッチンへ向かった。

 キッチンに着いた優人はあるものを探した。そして、見つけるのに時間は要さなかった。

「あっ、あった」

 優人は、見つけた包丁を自身に向けていた。しかし、包丁を持つ手は小刻みに震えていた。優人は死への恐怖を拭いきれなかった。



「ふぅー、大丈夫……大丈夫」

 そう深呼吸をし、自身に言い聞かせた。

「よし……やるぞ……」そうつぶやいた瞬間に、包丁を腹に刺した。が感触が無かった。

「はぁー、良かった」

 包丁を持っていた手ごと自分の体をすり抜けて、自分自身の大量出血を見ずに済んだ。


 優人は、自分は死んでいるのか、まだ生きているのか、という疑問を抱いていたが、さっき行われた自殺未遂によって、さらに疑問は深まった。そして、その疑問を解決するために自分の存在が見える人を探すことにした。

 しかし、外の世界に出るという行為は、優人にとって不安の対象でしかなかった。ただ、それと同時に誰からも見えていないという孤独も感じ始めていた。そして、優人は決心した。


「大丈夫……大丈夫……絶対に大丈夫」そう自分に言い聞かせながら、ドアノブを握りしめていた。しかし、握る手は震え、足はすくんでいた。汗も額から頬を伝い、顎から地面に滴り落ちている。あとちょっとの勇気が無かった。そんな時、背後から聞こえてくる両親の泣き声。

 泣いている両親を見て、

「自分はまだ死んでなんてない。まだこの世に存在してる。それを証明したい。……待っててね」と言った。

 言ったときに母と目が合った気がしたが、恐らく見えていてほしいという願望が勘違いを引き起こしたのだろう。


 優人は、勇気を振り絞ってドアを押した。優人にとっては約1年ぶりの外の世界だった。気温は26℃。空はどんよりとした雲に覆われていた。湿度も高かったせいか、優人は少しだけクラッとした。


「どこに向かおうか……」

 そんなこと考えながら、目的地も決めず彷徨っているが、当たり前のようにすれ違う人々に僕の存在は見えていない。

「はぁ……本当に見えてないんだなぁ……」

 見えていないという現実を突きつけられ、改めて不安と孤独。そして、疑問が心の中でグチャグチャになっていた。


 ひとまず優人は、なるべく人が多いところへ行き、少しでも自分のことが見える人を探すことにした。


「まずは、駅にでも行ってみようかな……」

 最寄り駅までは徒歩6分。気温と高い湿度のせいで服が汗ばみ、とても煩わしかったが、それでも足は止めなかった。一刻も早く、この不安と孤独を拭い、モヤモヤしている僕の中の疑問を解決したかった。そんなことを考えているうちに、駅前に着いた。しかし、案の定、僕のことが見えている人は一人もいなかった。

「そりゃ、期待してなかったし。さぁ……あそこに行くか」

 こうなることは分かっていた。だから、次の行き先は決めていた。父方の祖父母の家だ。祖父母の家は、高校生の時に居候していた。

 理由は、祖父母の近くの家にある進学校に、どうしても行きたかったからだ。自宅からだと通学に1時間30分かかる。そのため、両親から許可をもらい、祖父母にもそのことを話すと、快く受け入れてくれた。祖父母の家には、夏休みや冬休みの度に泊まっていた。孫の元気な顔を見られることは、祖父母にとって生きがいであり、非常に嬉しいことだったのだろう。

 しかし、僕が引きこもりになってからは1度も会っていない。だから、万が一、僕のことが見えたら……と考えると少しだけ怖かった。

「まぁ、見えるわけないよな……」

 そう言いながら、改札口に着いた。ただ、何も持たずに家を出たため、切符を買うお金など、もちろん持っているはずもなかった。

「駅員さんにも、見えるわけないだろう」

 そうは口にしたものの、少しの不安を感じながら、切符を買わずに改札を通ろうとした次の瞬間、改札のゲートが閉まり、駅員さんが

「切符、持ってる?」そう問いかけてきた。

 確かに僕と目が合っている。僕に言っているに違いない。そう確信して

「すみません、買いわ」

「大丈夫、切符の買い方分かる?」

 駅員さんは僕が話しているのを遮って、そう言いながら駅員室から出てきた。

「あの……僕のこと見えてますか?」と問いかけるも反応は無かった。

 まさか、僕じゃない?そう思って後ろを振り返ってみると、そこには、小学校低学年ぐらいの男の子がいた。駅員さんはその男の子に話しかけていたのだ。

「 ん、待てよ。駅員さんに見えていないのは分かったけれど、改札は何で閉まったんだ? 」

 そう思って改札をよく見ると元から閉まっていた。

「はぁ、何だ……。」と自分が勘違いしたことに対して呆れてしまった。

 そして、見えていないことへの孤独感を持ったまま、改札口をすんなりと通った。

「まぁ、祖父母の家へ行けるからこれはこれでいいか…………。いや、行くことが目的になってる。まずは、僕が見える人を探すことだ。そして……僕自身が生きているのか。それとも……」

 本来の目的を見失えば、疑問の解決から遠のいてしまう。疑問を解決するために最善の行動をしよう。


 そう胸に誓いながら、階段を降りて、ホームで電車を待った。

ホームには、日曜日ということもあってか、親子連れが多かった。ただ、田舎の駅なので、普段からこの駅の利用者は、そう多くはなかった。


 そういや1つ、もしも電車が満員だったら試したいことがある。もちろん、見えていないのをいいことに法に触れるようなことはしない。

 試してみたいのは、満員電車の中に僕は乗ることができるかどうかだ? 

 物理的に入ることのできないスペースに入るとどうなるのか? それを試したい。

 それなら、壁と壁の隙間にでも入って試せばいいだって! 恐らくそれはできない……はずだ。僕のことが見えていない人が、触れることができないのであって、物質には触れることができる……ということは、あれは一体どういうことなんだ。


 僕は今朝、包丁で自殺を試みたが、包丁を持った手ごと体をすり抜けた。ただ、僕は僕自身に触れることができる。つまり、僕が持った物や触れているものは、僕と同じで周りには見えていない。だから、その物自体の存在がこの世に有るのか無いのか不明だから、すり抜けてしまうということだろう。


 つまり僕は、満員電車でどれだけスペースがなかったとしても、乗ることができてしまう。しかも、隣の人とぶつかる心配もないからすごく快適に。自由自在に操ることができるなら、多くの人がこの不思議な能力を欲しがることだろう。そんな都合のいい能力なら、僕も欲しい。しかし、現状みたいな能力なら、誰しもがいらないと言うだろう。

 こんなことを考えているうちに、待ちに待った電車がやってきた。しかし、電車はなぜか通り過ぎていった。

「あっ、今の回送電車だ。そりゃ、通り過ぎていくわけだ」

 寂しい独り言を言いながら待つこと5分、次の電車がやってきた。この電車はきちんと止まった。

「良かった……。止まった」

 ボソッとそう言いながら、電車内に乗り込んだが、想像していたよりも電車内はすいていた。いつもなら、ワイヤレスイヤホンをし好きな音楽を聞きながら、ぼーっと窓から外の景色を眺めていたが、今はそうはいかない。そもそもスマホもワイヤレスイヤホンも家に忘れた。

 僕は、僕自身のことが見えている人を探すため、車両を行ったり来たり、たまに乗客をのぞき込んだりしたが、特に電車内で騒ぎになることなく、車掌さんのアナウンスが普段と同じようにされていた。予想していた結果だった。


***


 そして、2回乗り継いで、祖父母の家の最寄り駅についた。


 乗り継いで最寄り駅に着く間も、見えていれば絶対にできないことをした。

 具体的には、高校生が読んでいる本を取ろうとしてみたり、座席に座っているおじいさんの肩を揉もうとしてみたり、すごくタイプな可愛いお姉さんがいたから思い切って抱きつこうとしたりした。けれど、取れなかったし、揉めなかったし、抱きつけなかった。結果は、やはり変わらなかった。


 優人は、最寄り駅から徒歩で10分の祖父母の家を目指した。空は、電車に乗る前よりもさらに曇っていて、少し雨の匂いもしてきて、今にも雨が降りそうだった。だから、優人は駆け足で向かった。


「はぁ、雨が降ってくる前についてよかった」

 祖父母の家に着いた。しかし、鍵が掛かっていた。

「買い物にでも行ってるんだろう」

 祖父母はいつも、ポストの中に家の鍵を入れていることを知っていた。

「ここにあるんでしょ」

 そう言いながらポストを開けると、案の定そこに鍵があった。

「よし」

 優人は小さくガッツポーズをした。

 もちろん、祖父母の家を目的地にした理由は、祖父母には自分が見えているのかを確認するためだった。でももう1つ、腹ごしらえをするためでもあった。

 「まぁ、祖父母が帰ってこないことには確認のしようがないし、カップ麺でも食べて待つか」

 そう独り言をつぶやきながら、ポットに水を入れてお湯を沸かすことにした。お湯が沸くのに6分、カップ麺ができるのに5分、カップ麺を食べ終えるのに猫舌なこともあり10分、計21分経った。しかし、一向に帰ってくる気配はなかった。

「食後のアイスでも食べるか」

 そう言いながら、冷凍庫を開けてアイスを選んでいると、インターフォンが鳴った。家のカメラを見ると、そこには段ボールを持った配達員が立っていた。

「すみません、今の僕には受け取れません。また、再配達に来て下さい」

 もちろんこの声は、配達員には聞こえていないが、申し訳ないという、謎の罪悪感から謝罪の言葉が出た。

「それにしても、じいちゃん、ばあちゃんはどこ行ってるんやろう。もう17時30分なのに」

 そう言いながら、スプーンでアイスをすくっていると、ある物が目に入ったと同時に絶望した。


 カレンダーに、旅行と書いていた。しかも、今日から2泊3日だった。優人はショックのあまり、持っていたスプーンを落とした。

 優人は焦燥感に駆られた。為す術が無く、ただどうすればいいのかパニック状態だった。


「やばい……どうしよう……本当にマジで…………」

 頭が回らなかった。

「考えろ、考えろ……自分」

 必死で考えた。今までで1番考えた。考えて、考えて、考えた。


 この状況で優人が取るべき最善策は、そのまま祖父母の家に泊まり、帰りを待つことだっただろう。食事もあるし、お風呂にも入ることができる。ただ優人は、一刻も早く自分の存在を見つけて欲しかった。だから、優人は考えた末に、すぐに立ち上がり玄関に向かい、靴を履いて外へと飛び出した。


***


 何も考えず、ただひたすらに、見つけて欲しいという一心で町を走り続けた。ぽつりぽつりと雨も降り始めたが、そんなの微塵も気にせず、ゴールのないマラソンを始めた。

 駅前、商店街、ショッピングモールなどとにかく人の多い所へ行って見える人を探して、見える人がいなければまた、次の所へ行ってを繰り返した。

 やがて辺りは暗くなり、雨は本降りとなって、どうすればいいか分からず、自暴自棄になっていた。

「もう……疲れちゃったよ…………。死んだら、見てもらえない孤独や不安から……解放されて楽になれるかな……」

 それでも、疲れた足がまだ動こうと、見える人を探そうと、一歩一歩進んでいる。心で死にたいと思っていても、体は必死に生きたがっている。

「はぁ……やっぱり死ぬのは怖いもんな」

 雨に濡れてびしょびしょになりながら、そう呟いた。

「もう……家に帰るか」

 そう言って駅へと向かった。


***


 時刻は20時を回っていた。日曜日ということもあってか、駅前は人が多く賑わっていた。びしょびしょの優人が見えていれば、周囲の人々の視線は優人に集まっているはずだ。しかし、誰一人として気にせず、明日からまた月曜日が始まる憂鬱を紛らわせるかのように、この日曜日の夜を歓楽していた。


 優人が改札口を通ろうとした時、

「水瀬くん」

 すれ違う人々の中から、聞き覚えのある声が優人を呼んでいる。

「僕じゃないだろう……まず、見えてるはずがない。多分、同性の人を呼んでるんだろう」

 優人は一瞬でも期待した自分が馬鹿馬鹿しく思えた。でもまた、今度はさっきよりも近い距離で、

「水瀬優人くん、そんなにびしょ濡れでどこ行くの?」

 恐らく、びしょ濡れの水瀬優人は、この空間に自分しかいないと思い、後ろを振り返った。

「久しぶりだね。ってか、何でそんなに驚いた顔してるの」

「二宮綾佳……さん? えっ、僕のこと見え……てるの?」

「見えてるってどういうこと? ちゃんと見えてるよ。びしょ濡れの水瀬くんが」

 ようやく僕のことが見える人が現れて、「良かった」という言葉と同時に思わず涙がこぼれた。

「どうしたの? 大丈夫?」

 止めようと思っても、涙がどんどん溢れて止まらなくなった。


 綾佳は、優人が周囲の人に見えていないことなど分かるはずもなかったが、泣き崩れている優人が、まるで見えていないかのような雰囲気に対して不思議に思っていた。

「何があったの?」

 そう綾佳に訊かれるが、優人は泣いているため言葉を発せない。


 もちろん、綾佳にだけしか優人の存在は見えていない。そのため、泣き崩れている優人に目線を合わせるためにしゃがんでいた綾佳は、他の人から見ればしゃがんで見えない何かを見ている変わり者にしか見えなかった。そのため、すれ違う人全員に見られていた。さすがに視線が気になった綾佳。

「ちょっと、場所変えよ」

 そう言って駅内から出て、夜道を相合い傘をして2人は無言で歩いた。お互い肩がぶつからないようにと、2人の間には少しの隙間があった。綾佳は、優人が泣き止むまで待った。

 そして、泣き止んだ優人は階段を上りながら、今日あった出来事を綾佳に話そうと口を開いた。

「あのさ……僕」

「待って、着いた。話は中に入ってから聞くね」綾佳は笑顔でそう言った。

「ちょっと待って、ここって二宮さんの……」

「そう。このアパートの103号室に住んでるの。大丈夫、一人暮らしだから。」

 優人は心の中で、一人暮らしだったらなおさらダメだろとツッコんだ。

「そんなにびしょ濡れだと風邪、引いちゃうよ? ささっ、早く上がって」

「分かったよ……。お、お邪魔します」

 優人は綾佳に急かされ部屋に上がった。部屋の間取りは1R。ほんのり柑橘系の香りが部屋中に広がっている。

「一旦、これで拭いて。大体拭き終わったらお風呂沸かしてあるから入って」

 そう言って綾佳は優人にタオルを渡した。

 タオルで濡れた髪や顔を拭いていると、タオルからほんのりフローラルの香りがした。

「さっきから匂いばかり気にして気持ち悪いな」

 優人は独り言を言いながらお湯に浸かっていた。

「まさか僕のことが見える人がいたなんて……」

 そんなことを呟いていると感傷的になり、また涙がこぼれそうになった。

「あっ、着替えどうしよう」

 そんなことを考えながら浴室を出ると、案の定着替えがなかった。

「二宮さん……あのーそのー、僕が着れる服とかある?」

 申し訳なさそうにそう言った。

「あっ、忘れてた。そうだよね。全部濡れちゃってるから着れないよね。ちょっとだけ待ってて。すぐ買ってくるね。」

 そう言って綾佳は部屋を飛び出しコンビニへ向かった。5分後、綾佳は帰ってきた。

「ここ置いとくね」

 綾佳が優人の着替えを用意してくれた。優人は浴室から出ると、そこにはコンビニで買ってきてくれたパンツと、綾佳の高校時代の体操服が置いてあった。

「二宮さんの体操服だけど……着てもいいの?」

 そう問いかける。

「いいよ」

 ただ一言、そう返ってきた。本当にいいのかと優人は自分に問いかけながらも、本人がいいって言ってるしと自分を納得させた。

 そして綾佳の体操服をきた。優人が170cmで綾佳が169cmとほぼ同じ身長だったため、サイズ的には問題なかった。しかし、異性の同級生の服を着ているという事実に優人は緊張していた。


***


 お風呂から上がると座っていた綾佳が立ち上がった。

「私もお風呂入るから座って待ってて。あっ、覗いたりしないでよね」

 そう冗談っぽく言いながら、浴室へ入った。

 優人は待っている間、座りながら部屋を見回した。

「ちゃんと整理整頓してて、僕の部屋とは大違いだ」

 女性の部屋に入ることが初めてだった優人は、少し興奮しながらも、綾佳以外には見えていない事実と向き合っていた。

 そして待つことと10分、綾佳がお風呂から上がって部屋着を着ていた。

「水瀬くん、コーヒー飲む?」

 綾佳が訊いた。優人は綾佳の濡れた黒髪があまりにも妖艶すぎて見とれていたので、綾佳の問いかけを聞いていなかった。

「おーい、コーヒー要らないの?」

 聞こえなかったと思い、もう一度綾佳は訊いた。

「欲しい、ホットの砂糖多めで」

 優人はそう答えた。

「水瀬くん甘党なの? かわいい」

 そう言いながら綾佳は優人にコーヒーを入れた。

「どうぞ」

 綾佳はできたコーヒーを優人の前に置いた。

「ありがとう……」

 そう言って優人はコーヒーを一口飲んだ。砂糖の甘さが心に染みた。

「どう? 少しは落ち着いた?」

「うん。ありがとう」

「それは良かった。それでなにがあったの?」

 優人は人間関係に疲れて、病んで引きこもりになったこと。だから、自分の存在が誰からも視認されなければ良いと思っていたこと。そして今日、その思いが現実となって誰からも見えなくなったこと。そして、綾佳が見つけてくれたこと。これらを、1時間程かけて話した。綾佳は何も言わずに真剣に聞いてくれた。

 話し終えた優人は、また涙がこぼれてきた。その優人を綾佳は何も言わずに抱きしめた。

「辛かったよね」

そう一言だけかけた。また綾佳は優人が泣き止むのを待った。


「ごめんね、泣いてばっかりで」

 優人は綾佳に申し訳なくなって謝った。

「ううん、こんな状況誰でも怖いよ。これからどうするの?」

「正直、今は二宮さんが僕を見つけてくれて安心してほっとしてる。けれど、僕がここにいたら二宮さんの迷惑になっちゃうからさ。自分の家に帰るよ」

 優人がそう言うと綾佳は驚いた。

「帰ってどうするの?お母さんやお父さんに見えていない状態でどう生きてくの?」

 心配な顔をして綾佳は優人に訊いた。

「分かんない。今は死ぬのが怖いけど怖くなくなって死を選ぶかもしれない。けどさ、一番は二宮さんに迷惑かけたくないと思ってる」

「だったらここにいて欲しい。迷惑なんかじゃない。水瀬くんに死んで欲しくない」

 綾佳がだんだん感情が高ぶって涙がこぼれそうになった。

「分かった……ひとまず今日は終電なくなっちゃったから……泊まってもいい?」

「い……いよ」

 緊張気味に綾佳は言った。

「今日だけじゃなくて、ずっと一緒にいたいのに」 

 そう優人に聞こえないような声で言った。

「何か言った?」

 綾佳が何か言ったように聞こえたので、問いかけてみた。

「ううん、何にも言ってないよ」

 笑顔で嬉しそうに綾佳は言った。

「ってか水瀬くん、夕食は食べたの?」

 話を逸らすかのように優人に訊いた。

「食べてないけど別に気にしないで」

「大丈夫? お腹すいてない? 何か食べたかったら遠慮せず言ってね」

「うん、大丈夫だよ。ありがとう」


そこからは、高校時代の思い出話や綾佳の最近のことについて話していた。


「あ、もうこんな時間だ。」

 時計を見ると1時を回っていた。

「眠たくなってきちゃった」

 そう言って綾佳はベッドに移動した。

「そうだね。僕、床で寝るから。おやすみ」

 優人は床に横になろうとした。

「あのさ……一緒に寝てくれない……?」

 綾佳が言うと、優人は驚いた。

「なんで? 僕、床でも寝れるから気にしなくていいよ」

「違うの。その……雷が怖くて。だから、水瀬くんに近くにいて欲しいの」

 夕方から降り始めた雨は、時間が経つにつれて雷雨へと激しくなっていった。

「ふふっ」

 優人は綾佳を見ながら笑った。

「何?」

「意外だなと思って。二宮さんが雷を怖がるなんて」

「怖いものは怖いの」

 すると空が光って3秒後に雷鳴が轟いた。

「きゃっ!」

 少しわざとらしいように反応した綾佳。

「ねっ、一緒に寝て。お願い」

 綾佳にそう言われた優人。

「分かったよ……ベッドで寝るよ」

 優人は気まずそうな顔をしていたが、内心少し緊張と興奮していた。

 女性と一緒に寝るなんて初めてのことだった。優人は、ベッドに移動して綾佳と同じ布団に入った。室内はエアコンが効いていて、少し肌寒く感じた。

「この部屋、寒くない? 寒かったら調節するけど?」

 綾佳が優人に訊いた。

「寒いぐらいにして、布団をかぶるのが好きだからちょうどいい」

「私も同じ。一緒だね」

 そう言って綾佳は笑った。

「じゃあ、あのまま床で寝てたら風邪引いてたかもね」

 続けて綾佳がそう言った。

「風邪引いたら誰にも見えないから、病院にも行けないじゃん」

 優人がネガティブな発言をする。

「その時は私が看病して治してあげるね」

 綾佳は本心からそう言った。

「そうしてくれたら嬉しい。おやすみ」

 冗談交じりの発言だろうと思い聞き流した。

「おやすみ」

 綾佳が返した。


 そういやいつぶりだろう。おやすみって言うのもおやすみって返ってくるのも。おやすみってなんか良いな。そう思いながら優人は目を瞑った。

 お互い少し距離をとり、背を向け合って眠りについた。


 小一時間経ったとき、綾佳が口を開いた。

「まだ起きてる?」

「起きてるよ」

 優人は睡眠障害を患っていたため寝られるはずがなかった。色々な不安が頭をよぎっていた。もし、朝起きたら綾佳からも見えない状態になっていたらと考えていた。

「水瀬くんは今、シュレディンガーの猫状態だね」

 急に綾佳が言った。

「シュレディンガーの猫って?」

 優人が聞いた。

「シュレディンガーの猫は簡単に言うと、中にいると1時間に50%の確率で死んでしまう箱に猫を入れて、その猫が1時間後どうなっているかっていう思考実験のお話のこと」

 そう説明すると、優人はこう言った。

「50%の確率でその猫は生きてるってこと?」

 綾佳は首を横に振った。

「ううん、箱の中身を見るまでは生きている猫と死んでる猫の両方が存在しているの。そして、中身を見て初めて猫の状態が確定するっていう話」

 さらに優人に話した。

「つまり、水瀬くんは見えていないから、生きてる状態と死んでる状態の両方が存在しているってこと」

 綾佳は優人に言った。


「僕は……僕は自分が生きているのか、死んでいるのかという疑問を解決するために色んな場所に行って色々試した……でも誰も見えていなかった……疑問が深まるようなこと…………言わないで欲しかったよ……」

 優人は綾佳の言葉を聞き、落胆した。

「その疑問なら解決してるよ」

 綾佳は優しさと気持ちのこもった声で言った。そして続けてこう言った。

「だって私には水瀬くんが見えてるから。絶対、絶対に水瀬くんは生きてるよ。だから死ぬっていう選択肢を選ばないで。私が水瀬くんと一緒に行きていく」

 綾佳は涙ながらに訴えた。


 そして一言。

「好き。水瀬くんが大好き!」

 

 優人は驚いた。綾佳が泣いたことでもなく、告白されたことに。

 人生で初めてされた告白は校舎裏でもなく、綺麗な夜景が見える丘でもなく、テーマパークでもなく、花火大会やイルミネーションの前でもなく、未明の真っ暗な高校の同級生のアパートの103号室だった。


2日目


「ん、眩しい」

 優斗は部屋に差し込む朝日で目が覚めた。時計を見ると7:30と表示されていた。

「ちょっとは寝れたのか」

 この頃眠れない日が続いていたため、少しだけでも眠れたことに優斗はほっとした。そして、眠ってしまう前に綾佳に言われた告白を思い出して体が熱くなった。

 ベッドの隣りを見ると誰もいなかった。部屋中を探しても綾佳がいなかった。

「二宮さん、二宮さん。どこにいるの。聞こえてたら返事して」

 優斗は不安と恐怖に心を支配された。

「もしかして僕、二宮さんからも見えなくなって。それで……それで探しに行ったのかも」

「はぁはぁはぁはぁ」

 どんどん呼吸が早く浅くなっていく。不安からか冷や汗も出てきて少し寒くなってきた。

 すると、玄関からガチャっと音が鳴った。ドアが開くとそこには綾佳の姿があった。そして綾佳は、呼吸が浅く、汗をかいている優人に気づいた。

「大丈夫? 体調崩しちゃったの?」

綾佳はすぐそばに寄ってきた。

「ごめん……ちょっと1人でネガティブな妄想をしちゃって。二宮さんこそ、朝からどこ行ってたの?」

「私はちょっと寝れなかったから。それで散歩に行ってたの」

「そうだったんだ。僕がいたから寝れなかったの?」

「違うよ。ちょっと緊張して。その……水瀬くんがさ、あの後すぐに寝ちゃったから」

 綾佳はそう言った。

「水瀬くんの可愛い寝顔が見れたからいいけど」と綾佳は優人に聞こえないぐらいの声で続けて言った。

「あっ、そうだね。あの後僕、すぐに寝ちゃったもんね。ごめんね」

「いいよ、気にしないで。私の感情のままに声に出しちゃっただけだから」

 綾佳がそう言い終えると、優人は何も言わずに綾佳を抱きしめた。そして優人は決心した。

「僕も……僕も二宮さんが好き。ずっとずっと忘れられなかった。高校を卒業してからも。告白しなかったこと、ずっと後悔してた」

 優人は心の内を明かした。

「本当に嬉しい。私の片思いだったと思ってた」

 綾佳は嬉しさと安心感で涙が溢れた。

「僕から告白しようと思ってたのに、二宮さんに先に言われちゃった」

 優人は嬉しそうに照れながらそう言った

「先に言っちゃった」

 そう言って、綾佳は泣きながら笑った。


「朝ご飯食べよ、お腹すいたでしょ」

「うん」

 2人は高校時代の話をしながら朝食を食べた。


「二宮さんはいつから僕のこと好きだったの?」

 優人は気になってたことを率直に訊いた。

「うーん、いつからだろ。気づいたら……優人……くんのこと目で追ってたかも。だから、いつからってはっきりは言えないかも。逆に……優人……くんは?」

 優人は綾佳が急に下の名前で呼んでくることが気になった。

「答える前にさ、あの……1つ聞きたいんだけどいい?」

「いいよ」

 綾佳は何を訊かれるのかドキドキしていた。

「なんで、その……急に下の名前で呼ぶのかなって思って……」

「ずっと下の名前で呼びたかったけどその、恥ずかしかったから。だから、慣れるために優人くんって呼ぼうと思って。優人くんって呼ばれるの嫌だった?」

 綾佳は顔を赤くして照れながら訊いた。

「嫌じゃないよ。嬉しい。けど、その……僕も女の子から下の名前で呼ばれるなんて……初めてで。だからちょっとだけ戸惑っちゃって」

 照れている綾佳を見て、優人も照れて恥ずかしそうにそう答えた。

「じゃあ私のことも綾佳って呼んで」

 綾佳はずっと言いたかった願望を口にした。

「分かったよ……あ、綾佳……ちゃん」

 そう呼ぶと、綾佳は顔が赤くなって、近くにあったクッションをぎゅーっと抱きしめた。

「ちゃん付けだけど嬉しいーっ」

 そうクッションに向かって叫んだ。そして何事もなかったかのように優人に訊いた。

「それで……いつから……私のこと好きなの?」

綾佳の顔はまだ少し赤かった。

「二宮さんの、あっ、綾佳ちゃん……のことは1年の時に同じクラスになったときから、かわいいな……って思ってた。それで、体育祭の時に一緒に写真撮ったときにはもう綾佳ちゃんのこと……好きになってた」

 すると綾佳は笑った。

「なんだ。私達最初から両思いだったんだね。優人くん全然そんなそぶり見せなかったから分かんなかった」

「僕も綾佳ちゃん…が、僕のことなんか好きになるはずないと思ってたから」

 優人がそう言うと、綾佳が少し拗ねたように口を開いた。

「私結構アピールしてたよ。優人くんがさっき言ってた体育祭の時もそうだし、文化祭の時も一緒に回ろうって誘ったけど断られたし。あと、卒業式の終わってから私の教室の前で二人で写真撮ったじゃん。一緒にハート作って。でも優人くん素っ気なかったから」

「あれはその……周りに友達もいて恥ずかしかったから。あと今だから言えるけど、僕も綾佳ちゃんと一緒に写真撮りたかったから卒業式の後、綾佳ちゃんのクラスの教室の前で待ってたんだよ?」

 優人は言いながら、当時の記憶を思い出して恥ずかしくなった。

「あぁーー、だから教室の前に優人くんいたんだね。友達待ってるのかと思った。なんだ、2人とも鈍感だったんだね」

 綾佳は優人の話を聞いて納得した。

「そうみたいだね」

 朝の食卓が2人の笑い声と笑顔で包まれていた。


「そういえば、今日二宮さん……じゃなかった。綾佳ちゃん、今日どこか行くの? 授業とかある?」

 綾佳はこのアパートの近くにある3年制の短大に通っている。今は3年生で午前中だけ授業を受ける日が多かった。

「うん。今日は2限から授業だけあるから。それが終わったらデートしよ」

 綾佳の急な提案に優人は驚いた。

「デ、デートするの」

「何? 水瀬くんはデートしたくないの?」

 綾佳は拗ねたふりをして優人の反応を伺った。

「もちろんしたいよ。でもさ僕、他の人からは見えないからさ……。綾佳ちゃんが1人で喋ってる変な人に見えちゃうかもなって思って」

 優人は綾佳に迷惑をかけたくなかった。

「別にいいよ。むしろ2人だけの世界みたいで嬉しいよ。ってかもう準備しないと」

 綾佳は時計を見てそう言った。

「そっか、多分僕がいたら準備できないだろうから散歩にでも行くよ」

「気遣ってくれてありがとう。あっ、そうだこれ渡しとくね」

 綾佳はそう言って、スマホと合鍵と千円札を1枚、部屋を出ようとしている優人に手渡した。

「優人くん何も持ってないでしょ?だから、何かあったら電話して。あっ、それ2台目のスマホだから心配しなくていいよ」

「分かった。ありがとう。じゃあ、行ってきます」

「行ってらっしゃい。授業終わったら連絡するね」

「うん」

 そう言って優人はアパートを後にした。


***


「はぁー。緊張した」

 優人は行く当てもなく、ただボーッとのんびり散歩しながら、昨日の急展開過ぎる出来事を脳内で振り返っていた。

 色々ありすぎて、僕にはちょっと刺激の多い一日だったなぁと思っていると、あることに気づいた。それは綾佳の体操服を着たまま出てきたことだった。

「あっ、やばい。変な目で見られてるかも」と一瞬そう思ったが「そうだった……二宮さん、じゃなくて綾佳ちゃん以外には見えてないんだった」と冷静になると同時に、意識しないとすぐに名字呼びしてしまう自分に自己嫌悪していた。

「別にお腹もすいてないし、できることもないし、この千円札は後で返そう」

 優人は、近くにあったベンチに座り、のんびりと周りの景色と僕が見えていない人々を眺めていた。

「こうやって見てると、当たり前だけど、僕がいなくても社会は回っているし、みんな毎日必死に生きてるんだな。僕なんて……別に見えなくなってもよかったんだ……」

 そんな負の感情が沸いてきたが、両親の泣いている姿が思い浮かんできた。もちろん綾佳のことも。

「とにかく何とか、両親の前にもう一度姿を見せて……生きてるって証明する。そして……」

 優人はそう決心した。


***


 景色を眺めたり、その辺をウロウロしたりしているうちに、時刻は1時になろうとしていた。するとスマホが振動した。スマホを見ると綾佳からの電話だった。

「いつぶりだろ。電話に出るの。相手が綾佳ちゃんって分かってても緊張するな」

 優人はふぅーっと一息ついて電話に出た。

「もしもし」

 少し緊張の混じった声でそう言った。

「もしもし、優人くん。出るの遅いから、出てくれないと思った」

「ごめんね……ちょっと電話に出るのが苦手だから」

 綾佳は、昨日優人が話してくれたことを思い出した。

「あっそっか。ごめんね」

「うんん、気にしないで。それで授業は終わったの?」

 すると綾佳は声色を変えた。

「うん。授業は終わったんだけど、提出期限が今日までの課題を家においてきちゃってさ。優人くん、今どこにいる?」

 綾佳は少し焦って優人に訊いた。

「綾佳ちゃんのアパートから10分ぐらいの所にいるよ。大学まで持って行こうか?」

「ごめん。お願いしてもいい。多分机の上に置きっぱなしだと思うの」

 綾佳は申し訳なさそうに言った。

「全然気にしないで。綾佳ちゃんには迷惑かけっぱなしだったし。その恩返しだと思って」

「分かった。優人くんは本当に優しいね。じゃあ私、大学の前で待ってるね」

 電話が終わると、優人はすぐに走り出してアパートに向かった。


 103号室に着いた優人は鍵を開け、部屋に入って、机の上にあった綾佳の課題を持って、またすぐに鍵を閉めて大学へ向かった。


***


 優人が大学の前に着くと綾佳の姿が見えた。

「綾佳ちゃん、持ってきたよ」

 優人は息を切らしながら、普段より少し大きな声で綾佳を呼んだ。

「走って持ってきてくれたの? ありがとう。でも、そんなに急がなくてもよかったのに」

「だって……早くデートしたかった……から」

 優人は顔を赤くしてそう言うと、綾佳も予想外の返答に顔を赤らめた。

「そんなに早く……私とデートしたかったんだ」

 照れながら綾佳は小さい声でそう言った。


 そんな2人のやり取りはもちろん、優人の存在は周囲には見えていなかった。だから1人で喋って顔を赤らめているように見える綾佳は、頭のおかしい女性のように見えていた。

 しかし2人は、周囲の目が気にならない程に2人の世界に入り込んでいた。


「じゃあ私、課題出してくるからちょっと待ってて」

そう言って綾佳は大学の構内へと走って行った。


 10分程すると綾佳が向こうから走ってきた。

「ごめんね。お待たせ。じゃあ行こっか」

 そう言って綾佳は優人の手を引いた。

「どこ行くのかもう決めてるの?」

 急に綾佳に手を握られて緊張しながらそう言った。

「着くまでのお楽しみ」

 綾佳はそう言いながら、優人と一緒に駅の方へと歩いた。


***


 2人は駅に着いた。

「切符買お」

 綾佳は、優人とのデートが楽しみでいつもより楽しそうだった。ニコニコしていた。

「僕、切符なくても改札通れるから」

「あっ……そっか。じゃあ買ってくるね」

 綾佳は、優人に嫌な記憶を思い出させてしまったのではないかと思った。

 2人は改札を通ってホームで電車を待った。すると綾佳が口を開いた。

「ごめんね。さっきは」

 優人は何のことか分からなかった。

「何? 課題のこと?」

「違う、さっき……切符を買うときに。優人くんに嫌な記憶を思い出させてしまったんじゃないかと思って」

 優人はそれを聞いて少し自己嫌悪した。好きな人に気を遣わせてることに。

「ごめんを言うのは僕のほうだよ。綾佳ちゃんが僕を見つけてくれたのに……ずっと気を遣わせてて。本当にごめんね」

 2人の間には、これから初デートする空気は無く、どんよりとした重い空気が流れていた。すると、この駅を通過する電車が、重い空気を吹き飛ばすかのように通り過ぎていった。

 優人は吹っ切れた顔をした。

「綾佳との初デート楽しみだーーーー」

 空に向かって優人は大声で叫んだ。もちろん周りには聞こえていない。綾佳だけのために叫んだ。

 すると待っていた電車がやってきた。優人が手を出した。綾佳はその手を取って、2人は恋人つなぎをしながら電車に乗り込んだ。

 電車内で2人は一言も話さなかったが、お互い考えていることは一緒だった。

『この人が好きだ。大好きだ。出会えて良かった』


 次に口を開いたのは綾佳だった。

「降りよ」

 そう言って2人は電車を降りて改札を出た。


 駅から少し歩くと目の前に遊園地が見えた。

「着いた。私、優人くんと遊園地に来たかったの」

 綾佳は笑顔でそう言った。

「僕もさ、綾佳ちゃんとずっと2人で一緒に来たかったんだ。ここの遊園地」

 優人が少し恥ずかしそうに言った。

「なんでさっきは『綾佳』って呼び捨てにしたのに今はちゃんって付けたの?」

 そう言いながら、綾佳はイタズラっぽく笑った。

「別に……。特に意味とか……無いから。それより早く行こ」

 優人は、ごまかすように綾佳の手を引いて遊園地へ向かった。


 2人は遊園地に着いた。

「チケット買わなきゃ」

 優人がそう言うと綾佳が笑った。そしてバッグからあるものを取り出した。

「じゃーーん。実は……チケット先に買ってたんだよね。はいこれ」

 嬉しそうにそう言いながら、優人にチケットを渡した。

「僕たち、同じこと考えてるかも」

「いいよ。言ってみて」

 優人のその言葉を聞いて、綾佳は本当に同じことを考えているのか気になって訊いた。

「チケットを2人の初デートの思い出にしたいってこと。合ってる?」

 その言葉を聞いて、綾佳は嬉しかったがはっきりとは答えなかった。

「優人くん、そんなこと考えてたんだね。早く中入ろ」

 優人は綾佳の答えを聞いて釈然としていたが、綾佳の顔が答えをはっきりと示していた。私も同じこと考えてたと。


 遊園地で2人は色々なアトラクションに乗ったり、被り物を被ったり、チュロスやアイスクリームなどの食べ歩きフードを食べたりして遊園地を満喫していた。遊園地というか2人の空間を。2人だけの空間を。


 そして楽しい時間はあっという間に過ぎた。日は沈み、遊園地の街灯が人々を照らしている。

「そろそろ帰ろっか」

 優人がそう言った。

「待って。最後に1つだけ乗りたいアトラクションがあって……」

 綾佳が少し緊張気味に言った。

「いいよ。何に乗りたいの」

「観覧車……」

 そう聞いた優人も緊張してきた。


 2人でそんなことを話していると、前から歩いてきた男2人組が綾佳に声をかけてきた。

「お姉さん、かわいいね。今、1人? よかったらこの後、俺たちと一緒に遊ばない?」

 ナンパされている綾佳を見て、優人は怒りを抑えられなかった。

「僕の彼女だぞ。なんで人の彼女に声かけてんの。ナンパしてんの。くそっ、こんなに叫んでるのに何で聞こえないんだよ」

 優人の声は、2人組にはもちろん聞こえていなかった。優人は、自分が近くにいるのに彼女を守れない自分がふがいないと感じた。

「ごめんなさい。彼氏ときてるんで」

 綾佳は、優人が必死で自分のことを守ろうとしてくれているの見て嬉しくなった。この人が彼氏で良かったと思った。

 だが、2人組は諦めが悪かった。

「どう見ても1人じゃん。彼氏どこにいるの? 俺たちと楽しいことしようよ」

 そう言われた綾佳はめんどくさくなってきた。

「彼氏今、私の隣にいるんですけど見えないですか?」

 少し怒り気味で言った。それを見た優人は嬉しくなった。そして綾佳のことを惚れ直すと同時に、この子が彼女で良かったと思った。

「おい、関わらない方がやつじゃね?」

「そうだな、行こうぜ」

 そう言って2人組はその場を去った。


「はぁーっ。緊張した」

 綾佳が疲れたように言った。

「かっこよかったよ、綾佳ちゃん。僕が見えてたら声なんてかけられなかったのに。ごめんね」

 優人が悔しそうな顔で言った。

「ううん、優人くんが、あの2人組から私を守ろうとしてくれてるの見て、すごく嬉しかったよ」

 綾佳にそう言われて、優人の悔しそうな表情は笑顔に変わった。


 そんなことを話していると2人は観覧者の前に着いた。

「行こ」

「うん」

 2人は嬉しそうな緊張してそうな表情で観覧車に乗った。最初は向かい合って乗っていた。

「隣……座らないの?」

 綾佳に催促された優人は、無言で綾佳の隣に移動した。


 2人の乗っていたゴンドラが、ちょうど1番上になったタイミングで綾佳は、優人の頬にそっと口づけをした。優人はビックリして綾佳の方を見ると、綾佳が自分の頬を指さしていた。ここにキスをして欲しいということなのだろう。

 優人は綾佳に近づいた。綾佳の白くて綺麗な肌に見とれそうになったが、そこに優しく口づけをした。優人が綾佳の顔を見ると、さっきまで雪のような白さだった肌が、桜色のの肌へと変わっていた。

 そして、2人は向かい合い、ゴンドラが下に着くまで唇と唇を重ねた。


***


 観覧車を降りた2人は、お互い恥ずかしくて目も合わせられず、遊園地を後にして、恋人つなぎをしながら駅へと歩いた。

 そして、綾佳のアパートに着くまで、2人の間には沈黙が続いた。心地よい沈黙が。


 2人は部屋に入ると、優人が鍵を閉めた。綾佳はベッドに座っている。そして優人は綾佳の隣に座った。観覧車のときと同じようにお互い見つめ合った。そして、2人はお互いの愛を確かめ合った。


3日目


「優人くん、朝だよ。起きて」

 綾佳は寝ていた優人をゆすり起こした。

「んん、おはよう。綾佳ちゃん」

 優人は寝ぼけながら体を起こした。時計には8:00と表示されていた。久々にぐっすりと眠ることができた。

「綾佳ちゃんと一緒に寝たからかな?」

 綾佳に見つけてもらえて本当によかったと優人は思った。

「綾佳ちゃん……本当にこの二日間ありがとう」

 優人は続けて綾佳にそう言った。

「どうしたの? どこかに行っちゃうの?」

 綾佳は不安そうな声で優人に訊いた。

「違うよ。綾佳ちゃんに見つけてもらえてなかったら……今頃どうなってたか分かんなかったから。だからその……これからもよろしくってこと」

 優人は笑いながらそう言った。

「こっちこそ。これからもよろしくね。優人くん」

 綾佳も笑いながらそう言った。


「あっ、そうだ。綾佳ちゃんの今日の予定は?」

 優人は思い出したように口に出した。

「今日は夜からバイトがあるけど。それまでは何もないよ」

 綾佳は優人からのデートの誘いを待つような目で言った。

「じゃあ、どこか行く?」

「そんな誘い方じゃやだ。ちゃんと誘って。あと、優人くんの行きたい場所に行きたいな」

 綾佳は優人の誘いに少し拗ねたふりをした。

「ちゃんとって言われても……。綾佳ちゃん、僕と一緒に抹茶スイーツ巡りデートしてくれませんか」

 綾佳の目を真っ直ぐ見て言った。

「仕方ないなぁー。優人くんとデートしてあげる」

 優人の真っ直ぐな目と、抹茶という意外なチョイスにキュンキュンした。

「朝ご飯ないから、コンビニに買いに行こ」

「分かった」

 そう言って2人はコンビニへ買い物に行った。


***


 10分後、2人はコンビニから帰ってきた。

「優人くん、今日これから抹茶いっぱい食べるのに、今も抹茶プリン食べるの?」

 綾佳は優人の抹茶好きに少し引いていた。

「いつ抹茶が食べられなくなるか分からないから。綾佳ちゃんも好きなものは、食べられるときに食べた方がいいよ」

 優人は普段より少しだけ饒舌になった。綾佳は、好きなものについて話す優人もいいなと思った。

 朝食を食べ終え、出掛ける準備を始めた。準備といっても、優人は1日目の服に着替えるだけだった。しかし綾佳は、ヘアセットや洋服選びとやることが多かった。

「僕、外で待ってようか」

 優人は気を遣ってそう言った。

「別に、全然中で待っててもいいよ。それとも、私の着替えてるとこ見たら興奮しちゃう?」

 綾佳はからかうように言った。

「別に……興奮なんかしないよ」

「うそだ。昨日はあんなに興奮してたのに」

 綾佳は笑いながら、さらに優人をからかった。

「は、早く準備してよ。僕が待ってるんだから。行きたいお店いっぱいあるんだから」

 優人は照れ隠しで少し強い口調で言った。

「分かったよー。ちょっと待っててね。ゆ・う・と・く・ん」

 綾佳は、朝から優人の照れたかわいい顔を見ることができ、上機嫌で準備していた。


 10分後、綾佳の準備が終わり、京都へ電車で向かった。電車内で優人は、さっき綾佳にからかわれた仕返しをしたいと、必死でなにかないかと綾佳のほうを見て考えていた。そして優人は閃いた。

「昨日のパンツスタイルも似合ってたけど、今日のスカートもかわいいね」

 優人は服装を褒めると、綾佳がどんな反応をするのか楽しみだった。

「あり……がとう」

 綾佳の照れている反応に対して、優人は思わずキュンとしてしまった。そして優人はさらに追い打ちをかけた。

「そういえば、綾佳ちゃんのすっぴん姿見たことないかも。いっつも僕が起きる前にメイクしてるから。1回でいいから綾佳ちゃんのかわいいすっぴん姿見て見たいな」

 言っている内に優人自身が恥ずかしくなったが、何とか最後まで平静を装って言うことができた。

「そんなに私のすっぴんみたいなら……」

 そう言いながら優人の耳元に近づいた。

「今日の夜……優人くんに見せてあげるね」

 言い終えた綾佳の顔は赤くなっていた。優人は仕返ししようと思っていたにもかかわらず、逆に綾佳にまたからかわれた。


 優人が綾佳をからかおうとして、逆にやり返されるような攻防をしながら、何度か電車を乗り継ぎ、1時間ほどで京都に着いた。時刻は10時になろうとしていた。残された時間は、帰る時間も含めて7時間を切っていた。


「京都に着いてから聞くのもなんだけど、綾佳ちゃんは抹茶好きなの?」

 優人は、すっかり自分のことだけを考えて抹茶スイーツ巡りを提案したが、綾佳が抹茶が好きかどうかを聞き忘れていた。

「実は……」

 綾佳がうつむきながら気まずそうに言った。それを見た優人は、デートプランのチョイスを失敗したと思った。

「優人くんと同じぐらい好き。だからすごい楽しみ」

 綾佳は笑ってそう言った。

「それならよかった」

 優人はそれを聞いて胸をなで下ろした。


 1店舗目は抹茶ジェラートのお店にやってきた。

「このお店、ずっと前から来たかったんだ」

 優人は早く食べたいとわくわくしていた。

「私もこのお店知ってる。有名だよね。優人くん何味にする? 私買ってくるからあそこで座って待ってて」

 綾佳は近くのベンチを指差して笑顔で言った。

「分かったよ。じゃあ僕はシンプルな抹茶味で」

 優人はなぜ待ってるように指示されたのか分からなかったが、綾佳の言うとおりにした。

「了解。ちょっと待っててね」

 そう言って綾佳は、僕の分も一緒に買いに行ってくれた。


 数分経って綾佳が戻ってきた。

「お待たせ。はい、これ」

 綾佳は僕の分を手渡した。

「ありがとう。綾佳ちゃんは何味買ったの?」

「私は桜もち味にした。」

 そう言って綾佳は優人に見せた。

「あれ、抹茶味にしなかったの」

 優人は、やっぱり綾佳が抹茶を好きではないのでは、と少し疑った。

「1人で来てたら抹茶にしたけど、優人くんが抹茶にするならシェアしてもらおうと思って。だから気になった桜もち味にしたの」

 そう言って優人の持っていたジェラートを、スプーンですくって食べた。

「んーっ。すごく美味しいよ。その抹茶」

 やられたと思った優人は、すかさず綾佳のジェラートをすくって食べた。

「そのジェラートも美味しいよ」

 やり返された綾佳は、また優人のジェラートをすくって食べた。そしてまた優人もやり返した。やられたらやり返してを繰り返している内に、お互いのジェラートは半分になっていた。

「そろそろ自分の、食べよっか」

 綾佳は自分のした行為に少し呆れながら優人に言った。

「そうだね。お互い、相手のジェラートには満足したし」

 優人も綾佳の提案に賛成して、自分の少し溶けた抹茶ジェラートを食べた。


「あそこのお店、評判通りすごい美味しかったね」

 綾佳が満足そうな顔で言った。

「そうだね。でも今日は、他にも美味しいお店いっぱい行こうね」

 優人の楽しそうな顔が見られて、綾佳は嬉しかった。

「ちょっと早いけど、お昼にする?」

 綾佳はお腹がすいてきたが、直接言うのは恥ずかしかったため、優人に質問形式で訊いた。

「そうしよっか。僕行きたいお店あるんだけど、そこにしてもいい?」

「もちろん。今日は優人くんが行きたい場所に行く日なんだから」

 綾佳はよかったと思いながら、優人について行った。


 10分程度歩いて、洋食店に着いた。

「ここだよ」

「オシャレだけど、京都らしい和みたいな感じのする外観だね」

 綾佳のテンションが上がっているところを見て、優人も嬉しくなった。そして2人は店内に入った。

「いらっしゃいませ。お1人様ですか?」

 女性店員が、綾佳を見て話しかけてきた。そう言われた綾佳は優人のほうを見た。優人は無言で頷いた。

「はい」

 少し寂しそうに綾佳は答えた。

「お好きな席へどうぞ」

 そう言って女性店員は店の奥へと去って行った。

「ここでいい?」

「うん」

 2人は店内の奥の方のダイニングテーブルに腰掛けた。

「はぁ」

 綾佳が席に着くと同時にため息をついた。

「どうしたの? 何かあった?」

「あのね、私1人だけが優人くんのこと見えてる、いや、私が優人くんのこと偶然見つけることができて、今こうしてデートできてるのはすっごく嬉しいの」

「うん」

「でもね、他の人にはさ、優人くんが見えてないから、さっきみたいに『お1人様ですか?』って訊かれると嫌なんだよね。2人で来てるのに」

 綾佳は複雑な心情を優人に話した。

「もうなんか慣れちゃったな。見えてないこと。でも、綾佳ちゃんには確実に見えてるからいいかなって。綾佳ちゃんとデートしてからそう思ってる」

 優人は綾佳とは逆に、見えていないことをなんとも思わなくなったことを綾佳に話した。

「ダメ。こんな状況に慣れちゃ絶対にダメ」

 綾佳は急に立ち上がって大きな声で僕にそう言った。すると当然、綾佳に店内の視線が集まった。それに気づき、すみませんとお辞儀をして綾佳はイスに座った。

「失礼いたします。お水をお持ちしました。ご注文はお決まりでしょうか?」

 男性店員がコップ1杯の水を持ってきて、綾佳の前に置いた。

「すみません。もう1杯、お水もらえますか」

 普段より少し強い口調で綾佳は男性店員に言った。男性店員は綾佳の態度と言動に少し困惑した。

「お客様。何かご不満がございましたでしょうか?」

 男性店員のその一言は、少しずつ膨らんでいったストレスの風船を割るには十分すぎる針の鋭さだった。

「もういいです」

 綾佳は泣きながら、風船が飛んでいくかのようにお店を飛び出していった。急に飛び出した綾佳にビックリしたが、すぐに後を追いかけた。店内には、誰も座っていなかったはずのイスがカタンと倒れる音だけが残った。


 優人は綾佳の走って行った方向へと全力で走った。綾佳ちゃんは高校時代、運動神経が良くて足も速いから追いつけなかった、なんて言うとさらに綾佳を怒らせると思い、優人はさらに足を速めた。


 走り続けると公園が見えた。体力が限界に近づいていた優人は公園で一休みして、綾佳に連絡しようとした。するとベンチで泣きじゃくっている綾佳の姿が見えた。優人はなんて声をかければいいか分からなかった。すると優人は、綾佳に見つけてもらった日のことを思い出した。そして綾佳にしてもらったように、優人は綾佳の隣に黙って座り、泣き止むまで何も喋らなかった。


「なんか……優人くんが横にいてくれると安心する……」

 泣き止んだ綾佳はそう言った。

「落ち着いた?」

 そう言って、綾佳の頭を撫でた。

「さっきは……ごめんね。急にお店から飛び出したりして」

「うんん、僕が綾佳ちゃんに迷惑かけてるから。僕のことを想ってくれてるからこそ、我慢できなかったんでしょ。ごめんね」

「本当に……ごめんね。デート台無しに……しちゃって」

 また綾佳の目には涙が溢れてきた。優人は綾佳を優しく抱きしめた。

「大丈夫だよ。綾佳ちゃんと一緒にいるだけで幸せだよ」

 それを聞いて綾佳は、優人の胸の中で声を上げて数分の間泣き続けた。


 泣き止んだ綾佳のお腹からぐぅぅーっと音が鳴った。

「聞こえた……よね」

「うん。ちゃんと」

 2人は一緒に笑った。

「私が訊くのも……あれなんだけど、お昼どうする?」

 綾佳が申し訳なさそうに訊いた。

「本当はあのお店のオムライス食べたかったんだよなー」

 優人は綾佳の罪悪感を煽るように言った。

「本当に……ごめんね」

 綾佳は本当に申し訳なさそうに謝った。それを見て優人は、少しやり過ぎたなと思った。

「ウソウソ。そんなに気にしないで。でも、オムライス食べたいから、綾佳ちゃん家で一緒に作らない?」

 優人は、多分自分が他の人から見えるようにならない限り、外食はしないようにしないと、また綾佳が嫌な思いをすると思ったためそう提案した。

「ありがとう。じゃあ、帰る途中でオムライスの材料買って帰ろ」

 2人は駅に向かう道中で抹茶ソフトを買い、食べながら歩いた。帰りの電車ではたわいもない話で盛り上がった。

 駅に着いた2人はスーパーで買い物をして、仲良く綾佳のアパートへと向かった。


 103号室についた2人は、買ったものを冷蔵庫に入れて、調理の準備をしていた。

「綾佳ちゃんってよく料理とかするの?」

「たまにするけど、得意って程じゃないと思うな」

 綾佳はそう言いながら、黒髪のロングヘアーをポニーテールにして、エプロンを着た。優人はその姿を見て、オムライスを一緒に作る提案をしてよかったと思った。

 そして2人にとって、初めての共同作業が始まった。

「初めに玉ねぎと鶏肉、切らないとね」

 そう言って綾佳は玉ねぎのみじん切りを始めた。

「涙目になってるよ」

 横で見ていた優人が笑顔で言った。

「切ってない優人くんもなってるよ」

 綾佳も笑顔で言い返した。

「ってゆうか、綾佳ちゃんみじん切り上手だね」

 綾佳の包丁さばきを見てそう言った。

「みじん切りぐらいできないと、将来の夫に笑われちゃうかもしれないからね」

「別にできなかったとしても、かわいいなって思うかも」

 優人は自分に対して言われたと思い、そう答えた。

「私は将来の夫のことを言っただけなのに。どうして優人くんが答えるのかな?」

 綾佳は笑顔でいたずらっぽく言った。そして玉ねぎを切り終えて、鶏肉を切っていた。

「別に……。じゃあ僕の将来の奥さんは、寝ている僕を起こすときにすぐに起こすんじゃなくて、寝顔に見とれて起こし忘れる人がいいな」

 優人は綾佳にやり返した。

「私も見とれてないわけじゃなくって……今日はちょっとでも優人くんと、少しでも長くデートしたかったから起こしただけなのに……」

「あれ? 将来の奥さんの理想を語ってただけなのに、どうして綾佳ちゃんが答えるのかな?」

 優人はやり返しに成功して嬉しかった。

「もう」

 綾佳は頬をプクッと膨らませた。

「玉ねぎと鶏肉、切り終わったから炒めるね」

「僕は何をすれば……」

 優人は少しでも手伝いたいと思いつつも、何を手伝えばいいのか分からず戸惑った。

「じゃあ、私の分の卵焼いて。私も優人くんの分焼くから。あっ、あとちゃんとケチャップで文字書いてね」

 綾佳はチキンライスを作りながら言った。

「分かった。じゃあちょっとトイレ行ってくるね」

「うん」

 優人はそう言ってすぐにトイレに駆け込んだ。綾佳は優人がずっと我慢していたと思った。


 優人はトイレで、簡単にできるふわとろ卵のレシピを検索した。できるだけ簡単かつ早く作れるレシピを見つけて、小さくガッツポーズをした。そしてトイレから出た。


 綾佳のところへ戻ると、綾佳は卵を焼いていた。

「もうすぐで優人くんの分、完成するから」

「分かった。じゃあ、あっち座ってるね」

 優人は机の前に座り、見つけたレシピを予習していた。

「よし、できた。次、優人くんの番だよ」

 そう言って完成したオムライスを持ってきた。

「じゃあ、作ってくるね」

 優人は自信に満ちあふれていた。そして、レシピ通りに作り始めた。


 4分ほどして、作る前とはうってかわって、優人が落ち込んでオムライスを持ってきた。綾佳はすぐに落ち込んでいる理由を察した。チキンライスにのっている卵が所々破れていた。

「ごめんね」

 優人が申し訳なさそうに言った。

「全然いいよ。優人くんが私のために作ってくれたってだけで、どんなオムライスよりも嬉しいよ。さっ、ケチャップでお互い書き合おう」

 そう言って綾佳は、優人のオムライスに文字を書き始めた。優人は見ないでいた。

「はい、優人くんも書いて」

 優人も、綾佳のオムライスに文字を書いた。そして、お互いの文字を見合った。優人のオムライスには、これからもよろしくねと書かれていた。綾佳のオムライスには、ごめんねと書いていた。

「ふふっ」

 綾佳は文字を見て思わず笑った。

「本当に優人くんって誠実だね」

「誠実とかじゃないよ……多分。でも綾佳ちゃんには僕のこと、ずっと好きでいて欲しいと思ったから」

「私の気持ちは、オムライスに書いた通りだよ。冷めちゃうから早く食べよ」

 綾佳は手を合わせた。優人もそれを見て手を合わせた。

『いただきます』

 2人はオムライスを食べ始めた。

「美味しいね」

「うん、このチキンライスすごく美味しい」

 綾佳は優人に褒められて嬉しかった。

「この卵も、優人くんの愛情がいっぱいで美味しいよ」

「本当に優しいね。綾佳ちゃんは」

 2人は、お互いを褒め合いながらオムライスを食べた。


 食べ終えた2人は、綾佳のバイトの時間までのんびり過ごした。そして、時間になって綾佳がバイトに行った。

 優人は、何もしないのは申し訳ないと思い、食器やフライパンを洗った。そしてその後は、テレビを見て過ごしていたが、心にぽっかりと穴が開いているような感じがした。優人は、綾佳の存在が自分にとってどれほど大切なのかを改めて認識した。


 そして、綾佳のバイトが終わる1時間前の21時になった。

 優人は腕まくりをして、夕食を作り始めた。材料は昼にスーパーに行ったときに買っていた。作る料理も決まっていた。

「えっと、まずは玉ねぎをみじん切りにして……」

 レシピを見ながら慎重に作り始めた。1つ1つの工程を丁寧に愛情を込めて行った。


 22時過ぎに綾佳がバイトから帰ってきた。

「ただいまー。遅くなってごめんね。今から夕食作るね。って何この匂い」

 そう言って玄関からすぐ優人のほうに駆け寄った。

「おかえり。さっ、食べよ」

 机の上にはハンバーグと添え物のブロッコリー、白米が並んでいた。

「優人くんが作ってくれたの?」

「うん。でも、レシピに書いてた2倍も時間がかかっちゃった」

 優人は照れくさそうに笑った。

「すっごく嬉しいよ。食べていい?」

「もちろん。綾佳ちゃんに食べて欲しくて作ったから」

 綾佳は食べようとしたが異変に気づいた。

「優人くんの分は?」

「綾佳ちゃんが食べてる顔をじっくり見たくて。だから先に食べちゃった」

 優人はそう言って笑った。

「そうだったんだ。じゃあちゃんと見ててね。いただきます」

 綾佳が食べ始めると、優人は机に肘をのせて両手で頬杖をついた。

「そんなにじっくり見られると、緊張して味しなくなっちゃうよ」

「だって、どんな顔で食べてくれるのか楽しみで仕方なかったから」

 綾佳は目の前のハンバーグを1口食べた。

「すっごく美味しいよ。このハンバーグ」

「よかった。僕、味音痴だからあんまり自信なくて」

 綾佳は2口、3口と食べては美味しいと繰り返した。


「ごちそうさまでした」

「綾佳ちゃん、お風呂沸いてるから入ってきなよ」

「でも……食器ぐらいは自分で洗わないと」

 綾佳は申し訳なさそうに言った。

「いいよ。洗うまでが料理だから」

 優人の言葉が綾佳の胸に刺さった。

「分かったよ。じゃあお言葉に甘えてお風呂入るね」

 綾佳はさっさと浴室へと行った。そして優人は洗い物を始めた。


 25分ほどして、綾佳は浴室から出てきた。

「優人くんはもう入ったの?」

「まだだよ、今から入ろうと思ってた」

「分かった。じゃあ……ベッドで待ってるね」

「うん……」

 綾佳はすっぴんだったにもかかわらず、優人が気づかなかったことに少し拗ねた。


 10分後、優人が浴室から出てきて、ベッドに来た。

「あれ?ちょっと雰囲気違う?」

 優人は綾佳の顔を見てそう言った。

「えっ、覚えてないの? 今日、電車の中で優人くんが言ったんじゃん」

 綾佳は拗ね気味で言った。しかし、優人は何のことか思い出せなかった。

「私のすっぴんが見たいって」

 忘れていた優人に対して、綾佳は少し怒ったように言った。

「あっ、そうだった」

 優人は綾佳に言われてはっきりと思い出した。

「もう寝る」

 綾佳は拗ねて優人に背を向けて寝た。

「ごめん。完全に忘れてた。本当にごめん」

 優人は焦って、口からは謝罪の言葉しか出てこなかった。

「感想は?」

「肌が綺麗だな……って思った」

 優人は思ったことを言った。

「はぁーー」

 優人は言っちゃいけないことを言ったと思った

「好き」

 そう言って抱きしめられ、優人はホッとした。

「僕も好きだよ。綾佳」

 そう言ったが、綾佳はもう夢の中だった。しかし、優人の言葉を聞いて少しだけ笑ったように見えた。

「今日もお疲れ様」

 綾佳の寝顔を見て、優人はかわいいと思いながら重くなってきたまぶたを閉じた。


4日目


 先に目が覚めたのは優人だった。

「やっぱり、綾佳ちゃんと一緒に寝ると安心感からか、ちゃんと眠れるんだよな」

 そう言いながら、綾佳の寝顔を今日もかわいいと思って見ていた。

「あれ、昨日私が寝たふりしたときは呼び捨てだったのに。今日はちゃん付けなんだね。呼び捨ては2回目だね」

 優人は呼び捨てを聞かれていたことをごまかす。

「おはよう。今日の予定は?」

 早口で綾佳に訊いた。

「『綾佳、おはよう』って言ってくれたら教えてあげる」

「……綾佳、おはよう」

 少し棒読みで優人は言った。

「うーん。まぁ合格」

 綾佳は少し納得いかなかったが、朝からキュンとしたため、よしとした。

「今日は朝から授業があって、その後そのまま、夕方までバイトなの。だから、夜は家で優人と一緒にお酒飲みたいな……って思ってるんだけど」

 優人は呼び捨てにドキッとしたが平静を装った。

「わ、分かった。何か買っておいて欲しいものとか、作っておいて欲しい料理とかある?あっ、あと家事とか」

 しかし、呼び捨てされたことに動揺している優人のことを、綾佳はかわいいと思った。

「じゃあ3つ、お願い聞いてもらおうかな?」

「何でも言って」

 優人は綾佳に頼られることが、何より嬉しかった。

「1つ目はちゃんとお昼ご飯を食べること。2つ目は夜飲むお酒と、そのおつまみも一緒に買ってきてほしいってこと。3つ目は私が帰ってきたときに、『おかえり』って言うこと」

 綾佳はこの3つを優人にお願いした。

「分かった。約束するよ」

 優人はまっすぐ綾佳の目を見て言った。

「うん。じゃあ朝ごはん食べよ」

 そう言って2人は朝食を食べた。


「そういえば、家事とかってしてほしいことないの?」

 優人は朝食を食べ終えた綾佳に訊いた。

「洗濯とかお願いしたら……私の下着……見られて恥ずかしいから」

 綾佳は準備をしながら、恥ずかしそうに頬を赤らめた。

「そう……だね。じゃあ、自分で使ったものはちゃんと自分で洗っておくね」

「ありがとう。優人が一緒にいてくれるだけで嬉しいよ」

 そういって、洗面台へと行った。優人は、絶対に綾佳と結婚すると心に決めた。


「じゃあ行ってきます」

「行ってらっしゃい」

 そう言って綾佳は大学へと向かった。それを見送った後、優人も出掛ける準備をしようと思ったが、あることに気がついた。

「あれ、待てよ。僕1人で買い物なんて、できる訳ないじゃん」

 そう思いながら、綾佳が「自由に使って」と、大学へ行く間際に置いていったクレジットカードを眺めていた。

「そうだ。ネットスーパーで買い物して、置き配にしておけばいいんだ」

 思いついた瞬間に、ネットスーパーでお昼に食べるうどんと、夜に綾佳と一緒に飲むお酒とおつまみを、12時過ぎに届くように注文した。ひとまず、頼まれてた3つの内の2つを終わらせた優人は、飛び込むようにベッドに寝転んだ。ベッドには、ほんのり綾佳の匂いが残っていた。優人はもう綾佳に会いたくなっていた。

「本当に綾佳に見つけてもらえてからの3日間、色々あったけど幸せだったなぁ。本当に……本当に綾佳ちゃんに見つけてもらえていなかったらどうなってたか。よかった……本当に……」

 少し涙を浮かべた優人は、ベッドに顔をうずめた。優人は綾佳の匂いに安心したのか、そのまま眠りについてしまった。




「ん…………綾佳……好き…………はっ、寝てたのか。って今、何時だ」

 優人はスマホを見ると12時前だった。そして綾佳から何度か不在着信が入っていた。

「授業中だったらあれだろうし、次かかってきたら出よ」

 背伸びをして、机の上にあった朝食の後片付けを始めた。


 流し台で洗い物をしていると、部屋の外からガタッという音がした。優人は、おそらく荷物が届いたのだろうと思った。そして玄関を開けると、優人の予想通り荷物があった。その荷物を持って中に入った。すると、綾佳から電話がきた。

「もしもし」

「あっ、優人。よかった。何回か電話かけたけど、出てくれなかったから。それで、買い物できたかなと思って?」

 優人が困っていないかどうか気になって、綾佳は電話をかけていた。

「ごめんね。ちょっと寝ちゃってて。買い物はネットで注文して今届いたよ」

 優人は、綾佳を安心させるような優しい声で言った。

「それならよかった。これからお昼食べて、バイト行くね」

「うん。バイト頑張ってね」

 そう言って通話を切った。そして優人は買ったうどんを食べ始めた。


 うどんを食べ終えた優人は、ゴミを捨てた。そして18時頃まで、ゆっくりとテレビを見て過ごしていた。そして綾佳が帰ってきてすぐにお風呂に入られるように、お風呂を沸かした。

「あとは、綾佳が帰ってくるのを待つだけだ」

 優人は、綾佳に会えると思うと心が躍っていた。




「はぁはぁ、ただいま」

 綾佳は19時過ぎに、息を切らして走って帰ってきた。優人は綾佳にビックリして玄関へ来た。

「どうしたの? そんなに走って。大丈夫?」

 優人は心配そうに言った。

「優人に一秒でも早く会いたかったから。走って帰ってきちゃった」

 綾佳はそう言って無邪気に笑った。優人は綾佳を抱きしめた。

「おかえり。綾佳」

 緊張気味に優人が、綾佳の耳元で囁いた。

「私、汗かいてるけど、匂い大丈夫?」

「全然大丈夫だよ」

 そう言って2人は部屋の中へ入った。

「お風呂沸かしてあるから、綾佳入ってきたら? 汗かいただろうし」

 優人にそう言われて、綾佳は少し照れた。優人はそれを見て不思議に思った。

「その……一緒に入る?」

「本当に……いいの?綾佳がいいなら……その……いいけど」

 優人は緊張しながら本当にいいのか確かめた。

「私は……いいよ」

 そう言って2人は緊張しながら、浴室へと向かった。そして2人で40分ほど、仲良くお風呂に入った。


「はぁーっ。すっきりした」

 綾佳はまるで緊張していないかのように振る舞っていた。

「お酒、飲もっか」

 そう言って優人は冷蔵庫で冷やしていたお酒を出した。

「はい、綾佳の分のチューハイ。これ好きでしょ」

 綾佳は自分の好きなチューハイを知っている優人に驚いた。

「ありがとう。でもなんで知ってるの?」

 優人は自慢げに笑った。

「綾佳のことぐらい、顔を見たらなんでも分かるよ」

「冷蔵庫にあったとか?」

 綾佳には何でもお見通しだった。

「正解。本当に僕のこと理解してるよね」

「当たり前でしょ……好きなんだから。さっ、早く乾杯しよ」

 2人は缶を開けた。プシュっと良い音が部屋に響いた。

『乾杯』

 カンッと音が部屋に響いた。2人は同時に1口目を飲んだ。

「優人もこのチューハイ、好きなの?」

 綾佳は同じものを飲んでいた優人に訊いた。

「そう。僕も好きなの。このチューハイ」

 そう言っておつまみのミックスナッツを一口食べた。

「私も食べたいな。あーんしてほしいな」

 綾佳は口を開いて、優人が食べさせてくれるのを待った。

「もう酔っちゃったの? おつまみも自分で食べられないなら、もう寝たほうがいいんじゃない?」

 優人はいたずらっぽく言った。

「自分で食べれますーだっ。どれ食べよっかな」

 拗ね気味に、机の上にあるたくさんのおつまみを選んでいる綾佳を見て、優人は食べようと手に持っていたレーズンを綾佳の口のほうに持っていった。

 綾佳は恥ずかしさ半分、嬉しさ半分で口を開けた。その口に優人はレーズンを入れた。

「美味しい……」

 優人にあーんをしてもらった後、すぐにチューハイをゴクリと飲んだ。こうして、2人だけの飲み会は進み、徐々にお酒もおつまみもなくなっていった。


 夜も更け、2人も酔いが回った。

「ほんとーーにゆうとくんがーーすき」

「ぼくのーーほうがーーすきだからーー」

 何度も何度も、同じやり取りを繰り返してはキスをしていた。

 そして2人はベッドに移動した。




 酔ってイチャイチャしている2人には、想像もつかないほどの、辛く忘れられない5日目の足音が、すぐそこまで迫っていることを知る由もなかった。


5日目


「ん……痛たた。ん、あぁ朝か」

 優人は二日酔いで頭痛と胸やけがひどかった。ふと横を見ると、綾佳が気持ち良さそうに寝ていた。優人はそれをみて、少し二日酔いの症状が和らいだ気がした。

「シャワーでも浴びるか」

 そう言って優人は浴室へと向かった。

「今日は綾佳とどんなことしようかな? 水族館とか動物園とか、綾佳と一緒ならどこでもいいな」

 優人は本来の目的である、自分が生きているのか死んでいるのかという疑問の解決など頭の片隅にもなく、綾佳と過ごす日々にすごく満足していた。


 浴室から出ると綾佳がお粥を作っていた。

「あっ、おはよう優人。今お粥作ってるけど食べる?」

 綾佳がそう言ってきた。

「食べる! ってか綾佳は二日酔いじゃないの?」

 優人は、昨日自分と同じぐらいの量のお酒を飲んだ綾佳の心配をした。

「ちょっとだけ頭痛がするぐらいかな」

「お粥作るの変わるから、綾佳もシャワー浴びてきたら」

 そう言って優人は綾佳と変わった。

「ありがとう。じゃあシャワー浴びてくるね」

 綾佳は浴室へ行った。


 10分後、綾佳がシャワーを浴び終えてこっちにきた。

「今ちょうどお粥できたよ。食べよ」

「先に優人に……髪乾かしてほしいな」

 ドライヤーを持って、恥ずかしそうにそう言った。

「分かった……じゃあ、あっちいこ」

 そういって2人は机のほうに行って、綾佳は机の前に座り、その後ろに優人が座ってドライヤーのスイッチを入れた。髪を乾かしている間はお互いの声は聞こえなかった。

「綾佳の髪、すごい綺麗だな」

 綾佳の黒髪に見とれながら髪を乾かしていた。

「彼氏に髪を乾かしてもらうの、憧れてたんだよね。しかも初恋相手の優人に乾かしてもらえて嬉しいな」

 綾佳はすごく嬉しそうに、髪に当たる風を感じてた。


「はい、終わったよ」

「ありがとう。これ憧れてたの。だから嬉しい」

 2人は少し恥ずかしそうに会話した。

「お粥食べよっか」

「じゃあ、取ってくるね」

 そう言って優人はお粥を取りに行った。そして、お粥を机の上に置いた。

『いただきます』

 そう言って、ほんのり温かいお粥を食べ始めた。

「今日の綾佳の予定は?」

「何もないの。だから、少し私の話を聞いてほしいの」

 さっきまでとは一変して、部屋中に緊張感が走った。

「うん。聞くよ」

 優人はこれから綾佳に何を話されるのか、皆目見当もつかなかった。心臓がバクバクと音が鳴っている。

「あのね……優人の…………両親に……会いに行かない?」

 それを聞いて優人は核心を突かれた気がした。


 もう一度両親の前に姿を見せる。そのために、生きているのか死んでいるのかという疑問を解決するために色んな所へ行って、もがいてもがいて綾佳に見つけてもらえた。それで綾佳に見つけてもらえて、一緒に過ごして、知らないうちにこのままでいいという思考が、本来の目的を見失わせていたんだ。


 優人は覚悟を決めて綾佳に言った。

「行こう。僕の両親に会いに。じゃないと何も変わらない」

 綾佳は優人からそう言われてホッとした。

「ありがとう。そう言ってくれて。でも嫌だったらちゃんと嫌って言ってね。優人の気持ちを優先するから」

 綾佳は優人に嫌な思いをさせたくないと思った。

「綾佳と過ごす時間が楽しかったんだ。だから見えないっていう現実から逃げちゃってた。けど、今綾佳の言葉を聞いて向き合わないと何も始まらないと思ったんだ」

 優人は嫌で逃げたくなるような現実と向き合うことを決めた。

「本当に優人は強いね。私も見習わなきゃ」

 こうして2人は優人の実家へ、両親に会いに行くことにした。


「綾佳、準備できた?」

「できたよ。それじゃあ行こっか」

 そうして2人は103号室を出た。


「優人、あの……彼氏の実家に手ぶらで行くのは嫌だから、ちょっとだけ寄り道して、手土産買っていい?」

 綾佳は優人の両親に対して、失礼なことをしたくないと思った。

「うん、いいよ。綾佳に任せるよ。多分2人共、見えるのは綾佳だけだから」

 優人は両親と向き合うという緊張で、あまり会話が耳に入ってこなかった。


 そして手土産を買って電車に乗った。電車内は平日の昼前と言うこともあって、それほど混雑はしていなかった。

「あのさ綾佳、話しておきたいことがあるんだ」

 優人が重い口を開いて、綾佳に話しかけた。

「うん。聞くよ」

 綾佳も優人の雰囲気を感じ取り、真剣な表情になった。

「おそらく僕はまだ両親には見えないと思う。だから綾佳1人で会うことになる。そのときに綾佳が、高校の同級生ですって言うか、彼女ですって言うか綾佳に決めておいてほしいんだ。多分両親に、僕のこと見えるって言っても証明できないから」

「分かった。けど私はたとえ証明できなかったとしても……優人の……彼女ですって言う。絶対に……絶対に言うよ……」

 綾佳は泣きながら優人に言った。

「ありがとう。綾佳が彼女でよかった」

 もらい泣きしそうになりながら、優人は綾佳を抱きしめた。

「あと、もし両親が僕のこと見えてたら、そのときは僕の彼女ですって、胸を張って紹介するね」

 優人は雰囲気を明るくしようと思い、笑顔でそう口にした。すると綾佳もつられて笑った。

「そうだね。そうなるって信じる」


 そして2人は優人の実家の最寄り駅で降りた。

「ここが優人の地元かー。初めてきたけど海も山も近くていいね」

 初めての土地、彼氏の地元に来て、綾佳はテンションが上がっていた。

「全然よくないよ。海とか山はあっても」

 優人は綾佳とは逆に少しテンションが下がっていた。

「じゃあ、優人は私の家に来たとき嬉しくなかったの?」

「それは嬉しかったけどさ……今は状況が違うじゃん」

 そう言われて綾佳はハッとした。

「そうだね。ごめんね」

「けど、綾佳が嬉しくなってるのを見て、僕も少しだけ嬉しかったし、勇気ももらえた。じゃあ、行こっか」

 そう言って、優人は左手を差し出した。それに応じるように綾佳は右手を出そうとした瞬間、優人が信号のほうへと駆け出した。綾佳は少し遅れて優人を追いかけた。

「待って、優人。どこに行……」

 そう言おうとした瞬間に、優人はトラックに轢かれた。


 優人は綾佳と手をつなごうとした瞬間に、風船を追いかけて赤信号の道路へ飛び出そうとしている小さな少女の姿が見えた。助けないと。と思った瞬間に体が動いていた。そして少女とトラックがぶつかる寸前で、優人が少女を押して助けた。少女は何とか優人のおかげで助かった。


 遠くから追いかけてくる綾佳の声がかすかに聞こえる。優人は一命は取り留めたものの、体は血だらけで意識はあったが力が全く入らなかったため、このまま死ぬのかなと思うと同時に、疑問が解決した。生きていたことを確認できた。

 死ぬというのは生きていた何よりの証明だったから。

「優人、優人ねぇ。しっかりしてよ。ねえ……死なないでよ…………」

 綾佳は泣きながら優人に呼びかけた。優人は遠のいていく意識の中で、綾佳の声だけがはっきり聞こえた。

「そうだ……救急車呼ばなきゃ」

 そう言ってスマホを取り出す綾佳の手を、何とか力を振り絞り止めた。綾佳は優人に止められて、トラックの運転手のほうを見た。

 トラックの運転手は、少女のほうへ行って少女を心配していた。そこで分かった。こんな状態でも優人の姿は見えていなかったと。

「あ……や……か、いま……まで…………あり……が……と」

 優人はそう言い残して、綾佳を1人残して先に空へと旅だった。

「優人ー優人ー」

 綾佳が冷たくなっていく優人の手を握っていると、トラックの運転手がこっちに向かってきた。

「お姉さん、そんなに号泣して叫んでどうかしたのかい」

「あなたの……あなたのせいで、あなたが私の……彼氏を轢いて…………優人が……彼氏が死んだんです……」

 トラックの運転手は、綾佳の言っている意味を理解できなかった。

「確かに、何かがトラックに当たった感触はあったんだけど、あの女の子も擦り傷ぐらいだったし。誰も轢いてないよ?」

「そうですね。もういいです」

 そう言って綾佳は、周りの目も気にせず泣いて泣いて泣き疲れるまで泣いた。通り過ぎていく人は全員、綾佳を見ていた。


 泣きすぎて涙も出なくなった綾佳は、優人の遺体のほうに目をやったが、そこには何もなかった。

「優人は生きてたよ。私がそれを証明できる唯一の存在だから……。そして今も……これからも……私の記憶の中で優人は生き続けてるよ」

 空に向かって叫んだ。空にいる優人に届くように。


 少し落ち着いた綾佳は、優人と一緒に行くはずだった優人の実家に、まるで手をつないでいるかのように右手を広げて向かった。


「確かここだよね」

 優人の実家についた綾佳はインターフォンを鳴らした。少しすると、優人の母らしき人が出てきた。

「あのー、どちら様ですか」

「私、二宮綾佳って言います。優人の高校の同級生で、彼女です」

 綾佳は優人に電車で言った通り、彼女だと言った。

「優人に彼女なんていたかしら? まぁ立ち話も何だし上がって」

 息子である優人の行方が分かってないにもかかわらず、普通に話す母親に綾佳は違和感を抱いていた。


 家に入ると、母親以外に誰もいなかった。

「これ、お口に合うとよいのですが……」

 そう言って、母親に手土産を渡した。

「まぁ、そんなに気を遣わなくっていいのに。では、遠慮なく頂戴します」

 やはり母親の態度が普通であることに違和感を持った綾佳は、優人のことを尋ねようとした。

「あの、優人のこ」

「あぁ、そうそう。優人は来てないの?」

 話を遮りそう言った母親に、綾佳はビックリした。優人からは、両親も自分のことが見えなくなったと聞いていたからだ。

「優人からは両親に自分の存在が見えなくなって、見える人を探して色々な場所に行ったって聞いたんですが」

 綾佳は優人から聞いたことを話した。

「そうよ」

 そう言われて綾佳は訳が分からなくなった。

「『そうよ』ってどういう意味ですか」

「そのままの意味よ。実際に優人は誰からも、存在を視認されることはなかった。もちろん”夫も“」

 綾佳はすぐに理解した。母親には優人が見えていたことを。

「どうして優人を……家を出て行く優人を止めなかったんですか?」

 綾佳は優人のことを考えると涙が出そうになった。

「もうあの子の面倒を見れないと思ってたの。ずっと。そしたら、日曜日に夫が『優人がいなくなった』って朝から大騒ぎしてて。だからちょうどいいと思ったの。だから私も見えないふりをしたの」

 綾佳は心の底から湧き出てくる怒りの感情を抑えた。

「じゃあ、優人が……優人がいなくなって泣いていたのも演技だったんですか?」

「えぇそうよ。演技するのも大変だったんだから。悲しんでいないとおかしいでしょ。”母親として”」

 母親は笑って綾佳に言った。綾佳はさすがに優人が亡くなったことを知れば、こんな母親でも悲しむだろうと思った。

「優人が出て行ったあの日の夜、私が優人を見つけました。それで……私の家でずっと優人と一緒に暮らしてました。そして今日、家の……最寄り駅の…………信号で……少女の身代わりになって…………トラックに轢かれて…………優人が……亡くなり……ました……」

 綾佳はさっきのことを思い出して、また涙が出てきた。すると母親が両手で顔を隠した。綾佳は亡くなったことを知り、泣いたのだろうと思った。

「……ふふっ。そうなの。優人死んじゃったの? 良かった」

 泣いていたわけではなく笑いを隠していた母親に、綾佳は我慢の限界だった。そして綾佳は、母親に向かって叫んだ。

「なんで……なんで笑えるんですか……実の息子が…………死んだというのに」

「あの子のことを聞かれると、返事に困ってたの。引きこもりです、なんて言えるわけないし。でも死んじゃったんならこれからは、亡くなりましたって言えるわね。ちゃんと悲しい表情を作れるようにしないと」

 母親とは思えない言動に綾佳は、怒りを通り越して悲しくなった。

「優人は……優人は、もう一回両親の前に姿を見せるって……言って……たのに」

「そんなことされたらこっちが困っちゃうわ。あっそうだ、優人の死体はどうなったの? 死体でも他の人には見えていないの? 騒ぎになってない?」

 これ以上話しても無駄だと思った綾佳は、母親の親とは思えない質問を無視して、逆に母親に質問した。

「あのー、台所って……どこですか?」

 母親は、なぜそんな質問をされたのか分からなかったが、綾佳を台所へと案内した。

「ここが台所だ」

 母親が台所まで案内して、後ろにいた綾佳のほうを振り返ると、綾佳は言い終える前に母親の心臓を包丁で刺していた。そして包丁を引き抜いた。

「あの世で優人に謝って下さい。絶対に。じゃないと優人が……報われないです」

 刺された母親は死に際に綾佳に向かってこう言った。

「こんなことして……ただで済まないわよ――」

 そう言われた綾佳はニッコリと笑った。

「大丈夫ですよ。――――」

 母親は「大丈夫ですよ」までしか綾佳の言葉を聞き取れず、優人のもとへと旅立った。奇しくも優人の母親を殺したのは、優人の彼女である綾佳だった。


「もうあれ以上、あの人の話は聞いてられなかった。仕方ないよね。刺されたって」

 母親を刺した綾佳は、血のついたナイフを丁寧に洗った。綾佳は母親の亡骸に向かってこう言った。

「もう一回言いますね。ちゃんと優人に謝って下さい……。謝るところ、私も見に行きますから。もし謝らなかったらその時は、これ以上言わなくても分かってますよね」

 綾佳は優人の家をあとにした。綾佳はあの場所へと向かった。そう、優人が轢かれたあの場所へ。


 綾佳は優人が轢かれた信号の前に着いた。

「本当に優人を見つけてからの5日間、色んなことがあったよね。けど私が1番驚いたのは、高校生のときから両思いだったってことかな。あのときから付き合ってたら……こんな結末になんて……ならなかったのかな……。でも、この5日間本当に楽しかったし、疑似新婚生活みたいなことできて嬉しかったな」

 綾佳は優人との思い出を1人振り返っていた。

「あっ、1番楽しかったのは。これはそっちに行ってから話してあげるね。見つけてもらえないかもって。大丈夫だよ。あの日みたいにまた見つけて呼んであげるよ。『水瀬優人くん』って」


 歩行者信号は赤。横からトラックが走ってきた。

「今度は5日間なんかじゃなくて、ずっと一緒にいようね」

 綾佳も、優人のもとへと旅だった。


 見えない優人を見つけた綾佳との5日間は他人には見えなかった。でも確かにそこに存在した。

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