1話 ああ、なんて生きづらい世界なんだろう
先天性失聴。
生まれつき耳が不自由で、音の電波信号を脳に到達させることができない状態。
残暑に抗う蝉の鳴き声。談笑する生徒の笑い声。大通りを駆ける車の音。
それらすべてが、聞こえない。聴こえない。
太陽に手を伸ばし、指の隙間から溢れる光に目を細めてつぶやいた。
「ああ、なんて生きづらい世界なんだろう」
◆
私立若宮坂高校には屋上があるが、しかしながら生徒の立ち入りを禁じている。
禁じられたら抗いたくなるのが人間、とどこかの小説で読んだ気がする。それに倣い、私……国星詩穂は屋上出入り口の横に設置されていたベンチに座って小説を読んでいた。
気分:居心地がいい
感想:強風の中、紙媒体の本は読みにくい。勝手にページがめくれて煩わしい。
2分でそれに気がついたが、居心地の良さを優先して私は屋上に居座った。
小説はいい。耳が聴こえなくてもエンタメを楽しめるから。
いっそのこと自分でも書いてみようか。いやでも音を経験していない私が小説だなんて、描写力に欠けるに決まっている。やめよう。
……なんて逡巡は、手足の指を合算しても足りないくらい経験したことだ。
率直に言って、私は『自分が生きていた』という証をこの世に残したいのだ。
耳が聴こえない私は、社会において基本腫れ物扱いで、まるでその場にいないように扱われる。だから教室を飛び出してここにいるわけで、そんな私がこの世界に対して「こなくそ」と思う気持ちが無いわけがない。
とはいえ具体的な行動を取っているかと言われたら、それは首を横に振らざるを得ない。毎日ダラダラと生きて、小説をエンタメとして消費して、生産的なことはせずに時間を溶かして夜になる。
「気がついたらお婆ちゃんになっているんだろうなあ。そんな気がする」
呟いた瞬間。屋上のドアが思い切りよく開いた。開閉音は聞こえなくとも、その勢いの良さは察しがついた。
やばっ、先生!? まさかバレて怒られる?
なんて思ったのは杞憂。屋上の敷居を跨いだのは、青リボンが胸元に添えられたカッターシャツの少女。すなわち私と同じ1年生だ。
ほっと胸を撫で下ろし、ふと彼女の顔を覗いてみた瞬間。
私の心臓が、確かにドクンと跳ねた。
切れ長の目に、夏の空のように蒼い瞳。着崩されたカッターシャツと、しどけなく羽織られた指定外の黒カーディガン。
そして極め付けは、猛々しい金髪のウルフカットと、耳たぶで燦然と光輝くパールのピアス。
ひと目で私とは生きる世界が違う人だと確信した。でもなぜだろう。なぜかこの人から目が離せない。
それはこの人が瀟洒なカッコいい女性であるから、というのも理由の一つだと思うけど、何か別の理由もある気がする。直感的なことだから、よくわからないけど……。
金髪ウルフカットの女子生徒は私には目もくれず、その足を動かした。
そして屋上の端に立ち、ゆっくり口角を上げたのが後ろからでも確認できた。
ハッと、嫌な予感が込み上げてきた。
こんな見た目の少女が屋上に来て、端っこまで迷いなく歩いて、笑う。
それってまさか、まさかまさかまさか!
考えるより先に体が動いた。
やがて金髪ウルフカットの女子生徒は予想通り体重を前方にかけ、そしてその場から飛び降りようと足を浮かせた。
「ダメえええええ!!!!!!」
そんな華奢な体に、私は突っ込んだ。
推進力を得た身体は金髪ウルフカットの少女と密着しながら、1メートルくらい横に吹き飛んでいった。
猛々しい見た目に反して、少女からは甘い香りがした。バニラみたいな、脳を溶かしてくる匂いだ。
でもそんな甘い時間はすぐに終わりを迎える。自分の黒いサイドテールに結った毛先が、口の中に入って不快な食感を脳に伝えてきたのだ。
「ぺっ、ぺっ!」
口の中に入った異物をぺっぺっと吹き飛ばし、なんとか不快さは取り除くことができた。
が、次の瞬間。私の肩が思いっきり引っ張られた。反転する体。目の前に、金髪ウルフカット女子生徒の蒼い瞳が迫っている。
『急に何するんだ!』
「と、飛びついたのは謝ります。でも自殺なんてダメです、考え直してください!」
『自殺ぅ?』
眼前の少女の顔には困惑が張り付いていた。
そして何かに気がついたように、少女は私を指さした。
『ってかアンタ、国星詩穂?』
「は、はい。そうですけど」
自分で言うのもアレだけど、私はそれなりに有名人だ。
そりゃ、耳が聴こえない人間が学校にいたら、良くも悪くも噂は立つ。
『会話できんじゃん。なんで?』
「あー、読唇術ってわかりますか?」
『口の動きで何言ってるかわかるやつ?』
「はい、それです」
『うっそ。それで会話してんのか。はーなるほどね』
金髪ウルフカットの少女は納得したように首を小さく縦に振った。そして仕切り直すように咳払いの仕草をする。実際に咳をしたのかは、私には分かり得ない。
『で、アタシが自殺ってどういうこと?』
「だって今飛び降りそうになって……」
私がしどろもどろに言葉を紡ぐと、金髪ウルフカットの少女はため息を吐いたようだった。
次いで親指を立て、彼女が飛び込もうとしていた方向へ私の視線を促すように向けた。
「あ……」
呆然とした。
なんと飛び降り現場と思い込んでいた屋上の端から見えたのは、たった30センチほどしか高低差のない屋上の続き。すなわち……
『この学校の屋上は二層構造なんだよ。アンタが先客でいたから、アタシはあっちに行こうとしただけ』
私は赤面した。
◆
『アタシは金城狼奈。名字で呼ばれるのは好きじゃないから狼奈って呼べ』
「あ、はい」
なんやかんやあって、昼休みを一緒に過ごすことになってしまった。
狼奈さんは私に気を使ってか、できるだけ体をこちらに向けて唇の動きをわかりやすくしてくれている。ありがたいことだ。
『まさか自殺を疑われるとはね』
「す、すみません」
『いいよ別に。あながち間違いでもないし』
「へ?」
『なんでもない。ってか読唇術ってすごくね? 普通なんだっけ、手で会話するやつ』
「手話、ですか?」
『そうそれ。それじゃないの?』
ほとんどの聴覚障がい者は、手話にてコミュニケーションを取る。それはステレオタイプなイメージではなく、ただの事実だ。
「私はそうではないですね」
『なんで?』
デリケートな話だけどグイグイ来る。やっぱり住む世界が違う気がする。
「……私も幼い頃は手話を使っていました。でも手話って普通の人からしたら面倒じゃないですか。ある日気がついたんです。周りの人が、私を面倒な存在として扱っていることに。そんな視線に、そんな顔色に。だから必死になって、少しでもみんなの負担にならないような方法を模索した結果、読唇術を身につけることにしたんです」
ああ、なんて生きづらい世界なんだろう。
『人の顔色窺って生きるの、しんどいよな』
「は、はい。狼奈さん?」
その時の狼奈さんの顔は、悲しそうで、辛そうで、苦しそうで。でも新しい光明を見つけたかのような、そんな表情でもあって。
そして狼奈さんは言った。おもむろに。立ち上がって、でも顔だけはこっちに向けて、去るような仕草もしながら。
『今日の放課後、体育館に来いよ』
「えっ?」
『アタシの感じる生きづらさ、どこかで共感できるところもあるかもしれないから』
「え、ちょっと意味がわからないんですけど」
そう言い残し、狼奈さんは去ってしまった。
追いかける元気もないし、いま気がついたけどさっきの飛びつきで膝から血出てるし。あんな不良みたいな人に体育館来いよとか、カツアゲの想像しかつかないし。
でも、不思議と心は興味を抱いていた。
この世界で生きることの辛さ。すなわち、生きづらさ。
もし彼女がそれを吐き出しているのなら、その唇を読みたい。
だってこの世界は本当に、生きづらいのだから。
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