㉕ アーネスト皇子
「遅くなってしまい申し訳ありません。レオとは随分と仲良くなったようですね」
「は、はい……」
向かい側のカウチに座ったジークに、アーネスト皇子はまたガチガチになってしまった。
現在座っているのは、ジーク、アーネスト皇子、私だけ。
それ以外は全員それぞれが仕える主の後ろに立った状態だ。
そして、私が座っているのはアーネスト皇子の隣。
本来ならジークの隣が自然なのだけど、まだ若いアーネスト皇子を勇気づけるためにこの位置になった。
「大丈夫だよ。ジークも細かいことは気にしないから。私と話してたのと同じようにしていいからね」
そう言って手を握ってあげると、アーネスト皇子の顔色が少し戻った。
「帝都に来るのは初めてですか?」
「はい。ずっと、西方で暮らしていましたので」
「今のキルシュの状況はご存じですね?」
「はい。ちゃんと理解できている、と思います」
緊張した面持ちながら、アーネスト皇子の受け答えはしっかりしている。
「よろしい。では、単刀直入に訊きます。アーネスト皇子はキルシュの皇帝になりたいと思っていますか?」
アーネスト皇子は膝の上でぎゅっと拳を握りしめ、値踏みするようなジークの空色の瞳を真っすぐに見返した。
これが一番大事な質問だとよくわかっているのだ。
「思っていません」
アーネスト皇子ははっきりと言い切った。
「僕が皇帝になるなんて無理です。僕は、少し前まで田舎の貧乏貴族でした。教育も最低限くらいしか受けていません。それなのに、血をひいてるってだけで皇帝だなんて……務まるわけがありません」
「しかし、現在キルシュの皇族はアーネスト皇子だけしか残っていない。それなのに、帝位を投げ出すのは無責任では?」
「僕が皇帝になる方が無責任ですよ。今、キルシュは酷い状況なのでしょう?それなら、血筋に関係なく、僕よりもっと有能な人が皇帝になった方がいいはずです。僕なんかが皇帝になったら、もっと酷いことになってしまうかもしれません」
「確かに、皇帝は有能である方がいいでしょう。ですが、本当にいいのですか?皇帝になれば、とても贅沢な暮らしができるのですよ?」
「僕にとっては、西の砦での生活も十分に贅沢でした。西方将軍には、とてもよくしていただきました。将軍が僕を保護してくださったのは、ぼくが皇子だからだというのはわかっています。これで僕が皇帝にならないというのは、恩を仇で返すことなのかもしれませんが……それでも、キルシュの将来を考えれば、僕が皇帝になってしまうよりはマシだと思います。皇帝には、だれか別の人を選んでください。僕より相応しい人がいるはずです」
アーネスト皇子の琥珀色の瞳に迷いはない。
そこからも決意の固さが見て取れる。
アーネスト皇子は、自分で思っているよりきっと優秀だ。
きちんとした教育を受け、信頼できる家臣が支えてくれたら、いい皇帝になれそうだと思うけど。
「よくわかりました。物心ついた時から王太子だった僕と、アーネスト皇子では状況が違う。受け入れられないのも無理はないでしょう。では、もう一つ。キルシュがアレグリンドに併合されるとしたら、どう思いますか?」
「それも仕方ないのではないでしょうか。帝都の優秀な人たちがたくさん亡くなったと聞いています。アレグリンドに助けてもらわなければ、国として機能できないくらいなのでしょう?だったら、もういっそアレグリンドの一部になった方がすっきりすると思います」
「キルシュという国がなくなっても構わないと?」
「その方が幸せになる人が多いなら、それでいいと思います。僕は平民すれすれの、継ぐ家も爵位もない貧乏貴族でした。僕の育った町の人たちは、国の名前がキルシュでもアレグリンドでも、平和に生活できさえすればあまり気にしないでしょう。僕も、その考えに近いです。僕が皇帝になっても、誰か別の人が皇帝になっても、キルシュがアレグリンドの一部になっても、必ず不満に思う人がいるでしょう。だったら、一番多くの人が幸せになれるような選択をすればいいと思います」
戦乱の時代では、国境近くの町や村は頻繁に所属する国が変わるので、どこに税を納めるかで揉めたということを学園の授業で習った。
アーネスト皇子の言う通り、多くの人たちは平和でさえあれば国の上部がすげ変わってもすんなり受け入れるだろう。
平民だった前世の記憶がある私には、その気持ちはよくわかる。
「アーネスト皇子の考えはよくわかりました。では、キルシュの皇帝にならないとして。アーネスト皇子は今後どうしたいですか?」
「今後ですか?」
「身の振り方、ということです。西方に帰りますか?それとも、帝都に残って軍人になりますか?」
アーネスト皇子は、少し逡巡する様子を見せ、それから口を開いた。
「もし、できるなら……僕はアレグリンドの王立学園に留学したいです」
マックスみたいになるってこと?
だからさっき学園のことを訊いてきたのかな?
「僕がキルシュに残っていたら、僕を利用しようとする人が現れるかもしれません。僕の中に流れる血を憎む人もいるかもしれません。でも、僕は自分で自分を守ることができません。ずっと将軍のお世話になるわけにもいきませんから、どうにかしてキルシュから離れた方がいいと思うのです。西の砦で、将軍は僕に教師をつけて勉強をさせてくださいました。僕は、もっと勉強したいです。アレグリンドの王立学園に留学できたらどちらも叶うと思ったのです。その、僕が皇帝にならなくてもいいなら、という話ではありますけど」
「なるほどね。アーネスト皇子の懸念は尤もです。皇帝にならないなら、アーネスト皇子はキルシュを離れた方がいいでしょう」
ジークは頷いた。
確かに、キルシュにいてはアーネスト皇子は危険かもしれない。
王立学園に留学できるならその方が本人のためにもなるだろう。
「発言をお許し願えますでしょうか」
ここで口を開いたのは、今まで黙ってアーネスト皇子の後ろに立っていたセールズ義兄様だった。
「聞きましょう」
「ありがとうございます、王太子殿下。もしアーネスト皇子が皇帝にならないなら、我がハインツ伯爵家の養子として引き取ることをお許しください」
ジークは方眉を上げ、アーネスト皇子は驚愕の表情でセールズ義兄様を振り返った。
アーネスト皇子も初耳だったようだ。
「それは、総将軍もご存じのことですか?」
「もちろんです。父も賛成しています。私はまだ独身ではありますが、私の養子になってもいいですし、アーネスト皇子が望むなら姓をキルシュからドーソンに戻して、私が後見人になってもいいかと思います」
ドーソンというのは、アーネスト皇子の父親の姓だそうだ。皇子となって保護された時、身分をはっきりさせるためにキルシュという姓にしたと聞いている。
「その上で、許されるならアレグリンド王立学園に留学させたいと思っています。アーネスト皇子は優秀です。留学はきっといい経験になるでしょう。私の末弟がそうだったように」
セールズ義兄様が言った通り、留学したことでマックスの人生は大きく変わった。
アーネスト皇子もそうなればいい、ということなのだろう。
「もし留学ができないにしても、ハインツ家ならアーネスト皇子を守ることができます。政治的に利用することもないと誓います。そもそも、父は総将軍にまでなっておりますので、これ以上出世しようがありません。次の総将軍も、どう考えても私しか適任がおりません。私も父も、皇子としてではなく一人の少年としてのアーネスト皇子の未来を守りたいと考えております。どうか、ご一考くださいますようお願い申し上げます」
セールズ義兄様もアーネスト皇子を可愛がっているようだし、いい提案だと思う。
でも、一人だけ険しい顔をしているのは。
「マックス。きみの実家のことだ。意見を聞かせてほしい」
ジークがマックスに促すと、マックスはジークに一礼してからセールズ義兄様を睨んだ。
「兄上。また俺の時のようなことになりはしないか」
そうだ、マックスはハインツ家でとても苦労をしたと言っていた。
そこに養子として引き取られるとなれば、アーネスト皇子も同じ目にあうかもしれない、と懸念するのは当然のことだろう。
「大丈夫だ。おまえの時とは状況が違う。それに、アーネスト皇子はもう十三歳だ。五歳で家に来たおまえと同じにはならないよ」
セールズ義兄様の声には苦い響きが滲んでいた。
マックスに辛い思いをさせてしまったことを後悔しているのだろうと私でもわかる。
「確かに、俺の時とは状況が違う。それでも、本当に大丈夫なのですか」
「心配いらない。俺もあの当時ほど無力ではない。ちゃんと守れると思うからこそ、引き取ろうと考えているんだ」
マックスが五歳の時なら、セールズ義兄様はちょうど今のアーネスト皇子と同じ十三歳だったはずだ。
アーネスト皇子は大人びているけど、それでもやっぱり子どもに見える。
子どもにできることなんて限られている。
今のセールズ義兄様は筋骨隆々で無力の対極を体現しているようだけど、無力だったころのことを悔いているのだろう。
「それなら……もう家を出ている俺が口を挟むことではありません」
マックスがそう言うと、アーネスト皇子は少し悲し気な顔になった。
今の言い方だと、マックスが歓迎していないように聞こえるじゃない!
「大丈夫だよ。マックスは、ただアーネスト皇子が心配なだけなんだから」
私はまたアーネスト皇子の手を握ってあげた。
後で話ができる機会があったら、誤解を解いてあげなくてはいけない。
「お二人の希望はよくわかりました。なにをどうするのが最善か、ということはまだ結論はでていませんが、どうなったとしてもアーネスト皇子を悪いようにはしないと約束します」
こうして会談はお開きとなり、アーネスト皇子とセールズ義兄様は退室して、残ったのはかつてのお忍び街歩きのメンバーだけとなった。