第一章・鏡(その1)
十月も末になって文化祭も終り、秋の色が深まってくると、いよいよ高校受験、そして卒業も目前というわけで、夕凪中学の三年生の教室の空気はより張りつめたものとなってくる。生徒たちは休み時間も、参考書や高校の入学案内を広げたり、進路について話し合ったりすることが多くなっていた。
ある昼休み、藤坂潮音も穏やかな秋の日ざしが深く射し込む教室の片隅で、椎名浩三と進路について話し合っていた。
「椎名、やっぱりお前はスポーツ推薦で南稜に行くのか。なんてったってあそこの水泳部はインターハイや選手権大会に毎年選手出してるもんな。オリンピック候補の大島選手だってあそこのOBだし」
「ああ、さっき先生とも話したんやけど、なんとか推薦もらえそうや」
「ほんとにいいよな。オレも南稜に行きたいけど、推薦なんかもらえそうにないし。だから一般で進学コースに行こうと思ってるんだけど、オレの偏差値ではちょっと厳しいかもしれない」
潮音が表情を曇らせると、浩三は心配するなとでも言わんばかりの明るい表情で、なだめるように潮音に声をかけた。
「大したことあらへんよ。オレなんか勉強さっぱりやから、スポーツ推薦なかったらよほど低いところしか行けへんからな」
ちなみに、二人の話の中に出てくる南稜高校は、進学コースとスポーツ専門のコースの両方を擁し、水泳以外でも国体や高校総体で活躍し、国際的な大会にも出場しているスポーツ選手を輩出している強豪校であるだけでなく、進学コースでも大学受験で実績を伸ばして注目されている学校である。その反面、自由な校風を売り物にしていて、制服もなく私服登校が認められている。
ちょうどそのとき、尾上玲花が二人の前を通りかかった。
「椎名君、スポーツ推薦で南稜に行けそうなんやて? すごいやん」
「でも尾上さんも南稜の進学コースに行くんやろ? 南稜の進学コースからは東大や京大に行った人もおるしな」
しばらく浩三と玲花は、入試や進路のことについていろいろ話し合っていた。潮音はただ、その二人の話に相づちを打つことしかできなかった。
潮音はすでに気づいていた。何か月か前の夏の水泳の大会で、自由形の決勝まで進出した浩三を水泳部員たちで一丸となって応援したとき、力強く泳ぎ切って見事に優勝をおさめた浩三に声援を送る彼女の視線が、明らかに違っていたことに。それ以前の問題として、学年のアイドル的存在である彼女は常に男子たちの注目の的になっており、潮音が不意に近づいたらみんなにどんな扱いをされるかわかったものではない。
潮音は何かきっかけだけでもつかめないものかと思いながらも、彼女に何か話しかけようとするたびに何も声が出なかった。その上自分の成績では、彼女が志望している南稜の進学コースも高嶺の花かもしれない。玲花と別の学校に行くことになれば、彼女は本当に自分の手の届かないところに行ってしまう…せめて卒業までの数か月間にはなんとかしたいのに。――そう考えると、潮音の心の中には焦りばかりが募っていった。
そこで潮音は、もう一人の少女のことを思い出していた。――その少女は、潮音が小学生のときに一緒にバレエ教室に通っていて、峰山紫という名前だった。彼女は潮音とは別の学区の小学校に通っていたので、潮音と顔を合わせるのはバレエ教室の場だけだったが、彼女のバレエの実力は教室の中でも抜きんでていて、発表会では一番の注目を集めていた。潮音は幼心に彼女に憧れをいだいていたものの、潮音が小学校を卒業する直前になってバレエの教室を辞めたために、紫との関係もそこで途絶えてしまった。
――あの子は中学に入ってからも、バレエを続けているのだろうか。
潮音が紫のことを思い出していると、しばらくして玲花が浩三のそばから離れて友達の女子生徒たちの方に向かった。そこで潮音は浩三に声をかけた。
「椎名…さっきから見てると尾上さんとずいぶん仲がいいんだな」
「もしかして妬いとんか? お前には石川さんがおるやろ」
浩三が冷やかすような口調で話すのを、潮音はいやそうな表情で眺めた。
「あいつは家も隣同士で小学校上がる前からずっと一緒で、言ってみれば腐れ縁みたいなもんだからな」
「そんなこと言うたらあいつにひっぱたかれるで」
「でも尾上さんはしょうがないよ。オレなんかお前に比べたら水泳の腕はさっぱりだし、お前みたいに背が高いわけでもたくましいわけでもないし…前もそうだった。オレは小学校のときにバレエ教室に通ってたけど、その中にバレエのすごくうまい子がいたんだ。あのときはバレエをやっている男子が珍しかったせいか、あの子は何回かオレにも声をかけてくれたけど、結局オレがバレエを辞めたので、関係もそれっきりになってしまったんだ」
潮音の言葉を、浩三は興味深そうに聞いていた。
「で、そのバレエをやってた子はそんなにかわいかったん?」
「ああ。今になってみりゃ、もっと話しとけば良かったと思うけどな」
「藤坂ってけっこう惚れっぽいんやな。でも尾上さんが自分の方を向いてくれへんとしても、そう自分のことを悪く思わん方がええで。水泳やるのはタイムを出すためとか大会に出るためとか、まして女にもてるためとか、そんなんやないやろ。練習はきつかったかもしれへんけど、みんなと一緒に水泳やってて楽しかったやろ。それにお前…中学で水泳部に入ってからだいぶ変ったよ。入部したころは全然目立たへんかったのに」
浩三になだめられて、潮音はようやく気を取り直した。
「うん…そうだな」
「なあ藤坂、がんばって南稜に入らへんか。コースはちゃうかもしれへんけど、そうなったらまた水泳部に入れよ」
「でも南稜の水泳部って、半端じゃないほど練習きついみたいだからな。休みなんて盆正月以外ないようなものだし」
ため息をついた潮音に、浩三はなだめるように声をかけた。
「それはスポーツ推薦で入って、強化選手として大会を目指す人の話やろ。気にすることないって。それにお前には素質があるんや。このオレが言うんやから間違いあらへんで。南稜はプールやジムなどの設備かて充実しおるし、ええコーチかておるみたいやし」
「そのときはお前もコーチよろしくな」
「任せときや。でもその前には、ちゃんと勉強せえへんとな」
「お前が言うかよ。でもオレ、今度の日曜におじいちゃんの家で法事があって、それに行かなきゃいけないんだ」
「藤坂の家は、この街で昔から続いてきたけっこう古い家やもんな。藤坂のおじいちゃんは、でかい家に住んどるし」
「でもそういう古い家だからこそ、いろいろ付き合いがあってね。オレは受験だからと言ったけど、勉強だったらほかのときにでもやって、顔だけでも出せってさ」
そこまで話したとき、昼休みの終りを告げるチャイムが鳴った。潮音と浩三は軽く「じゃあな」とあいさつをすると、それぞれの席に戻った。
(2020/7/13追記)
潮音のセリフの中に「高校総体やインターハイに毎年選手出してるもんな」というくだりがありましたが、「高校総体」と「インターハイ」は同じものだというので、セリフを変更しました。




