第四章・人魚姫(その5)
翌日の日曜日、潮音は自室の中で流風から借りた「人間失格」の文庫本を広げていた。
潮音にとって「人間失格」は、そのタイトルから潮音が予想した通り、読んでいてあまり愉快な気分になれるような本ではなかった。主人公の内向的でうじうじした態度には読んでいていら立ちを覚えざるを得なかったし、そもそも中学生の潮音にとって難解な語句も少なくなく、同書の背景にある昭和初年ごろの社会のあり方も潮音は理解しているとは言えなかった。
しかしそれでも、今の潮音には「人間失格」の主人公が決して他人のようには思えなかった。特に潮音は、主人公が幼少の頃から自分を取り巻く環境や他人に対して接点を見出すことができず、「道化」を演じることによって周囲の笑いを取るしかなかったという点が、心の中に重くのしかかるように感じていた。
潮音はいたたまれなくなって、「人間失格」の文庫本を途中で閉じてしまった。そして潮音は、壁にかかった黒い詰襟の学生服と、自らの盛り上がった胸とを交互に見比べた。
――今のオレもやはり、自分を偽って周りに対して「道化」を演じているだけにすぎないのだろうか。
潮音はあの日以来、学校でクラスメイトと一緒にいても、あるいは街の群衆の中にいても、自分一人がそこから浮き上がったような孤独感を覚えずにはいられなかった。「人間失格」の主人公もこのような孤独感にずっとさいなまれてきたのかと考えると、潮音はますます心に重荷を背負わされたような気分になった。
するとそこで、ドアの向こうから綾乃の声がした。
「潮音、昼ご飯できてるよ」
潮音が生返事をすると、綾乃はさらに言葉を継いだ。
「あと潮音、昼ご飯食べたらブラを買いにいくよ。ご飯済んだら準備しな」
潮音は綾乃の言葉を聞いて、ますますぎくりとした。
昼食が済むと、綾乃はさっそく潮音に身支度をするように言った。潮音は今から自分がどこに行くのかと思うと、気が重くならずにはいられなかった。
潮音はどのような服を着ればいいのか迷っていると、綾乃がさっそく自分の持っていた服をすすめてくれた。その服は春らしい柔らかな色合いのブラウスとカーディガン、そしてカラフルな柄のスカートだった。潮音は自分がこのような服で、浩三あたりに出会ったらどうしようと少し気になった。
「どう潮音、準備はかどってる?」
綾乃にせかされると、潮音はウィッグをかぶり身支度を整えて部屋を後にした。
綾乃と潮音が家を出て向かった先は、駅前にあるショッピングモールだった。天気のいい日曜日ということもあって、ショッピングモールは買物客でにぎわっており、それがますます潮音の気持ちを重くさせた。
綾乃が潮音を連れて行った先…それは下着売場だった。潮音はどちらを向いても、色とりどりの下着が売場いっぱいに陳列された、男性だったら足を踏み入れることすら憚られるような空間を前にすると、気恥ずかしさのあまり身を引きそうにならずにはいられなかった。
それでも綾乃がぽんと肩を叩くと、潮音は今の自分がここにいたって何も恥ずかしいことはない、そのためにわざわざ女の子らしい服を着てきたんだからと覚悟を決めて、ぐっと息を飲んで下着売り場に足を踏み入れた。潮音たちを出迎えた女性の店員も、潮音の表情や身振り、そのそばにいる綾乃の様子から、だいたいの事情を察したようだった。
潮音はまず、綾乃に試着室に入るように言われた。上半身の服を脱いでスポーツブラ一枚になり、メジャーを手にした店員にバストのサイズをはかられる間は、潮音は気恥ずかしさのあまり顔をしかめずにはいられなかった。店員から何度も、緊張せずにリラックスするようにと言われても、それは無理な相談だった。
その間にも綾乃は、店員から潮音のバストサイズを聞いていた。
「B…いやCでもいいくらいね。中三にしたらけっこうサイズ大きい方じゃん」
潮音は綾乃がそう言うのを聞いて、自分は毎日その胸をナベシャツで潰しながら学校に行っていたのかと思うと、あらためてため息をついてしまった。
そして店員は、潮音のサイズに合うようなブラと、それとペアになったショーツを何点か持ってきた。潮音はこれまでスポーツブラをつけることに慣れていたとはいえ、店員の示したレースの飾りのついた、淡いブルーのブラを手にすると、心臓の鼓動がひときわ高まるのを感じずにはいられなかった。
綾乃からそのブラを試着するように言われても、潮音はそれをどのようにして身に着ければいいのかわからないまま立ちすくんでいた。綾乃はじれったそうな表情をして、まずストラップに両腕を通し、前かがみになってワイヤーを胸の下に合わせるように言った。潮音がそうすると、次に綾乃は背後でホックの留め方を教えたものの、潮音はなかなかホックが留められずに何回かやり直さなければならなかった。潮音は女の子は毎日、ずっとこんなことをしているのかいうことにあらためて気づかされて、不思議な気分になった。
それでもなんとかして潮音が背後でホックを留めると、さらに綾乃はカップの中に手を入れて、胸を手繰り寄せてカップの中に納める方法を教えた。潮音はその間、心の奥までもがくすぐったくなるような思いがして、ただ唇を噛みしめるしかなかった。
なんとかして綾乃にストラップの長さを調整してもらい、一通りブラをつけ終ると、潮音は気恥ずかしさのあまり身がすくみそうになりながらも、思い切って目を上げてみた。目の前の大きな鏡の中に映った自分と向き合ってみると、デリケートな生地でできた淡いブルーのブラをつけた姿に、胸の高まりを抑えることができなかった。
しかししばらくたってようやく気分が落ち着くと、潮音は自分が今つけているブラは今までつけていたスポーツブラと比べても、案外体にフィットしていることに気がついた。体を少し動かしてみても、さほどの違和感はなかった。
「ちゃんと自分の体に合ったブラをつけていると、姿勢だって良くなるしね。そうなると自信もついてくるよ」
綾乃の言葉には、潮音も納得せざるを得なかった。
潮音はパンツまでブラに合わせなければならないのかと内心で思いながらも、色や柄もおとなしめなブラとショーツのペアを何点か選んだ。綾乃がレジで精算を済ませて、下着売り場を後にしたときには、潮音はやっと気まずい雰囲気から逃れられたような気がしてほっと息をついた。綾乃は潮音に、フードコートで少し休んでいこうかと言った。
フードコートで飲み物と軽食を買って椅子に腰を下ろすと、潮音はいささか疲れ気味だった。そのような潮音に対して、綾乃はそっと声をかけてやった。
「気にすることないよ。女の子は誰だって最初は戸惑うものなのだから」
「でも下着なんてどうせ見えないのに…何でそんなものに気を遣うの」
戸惑いの表情を見せている潮音に、綾乃は笑顔で答えた。
「見えないところにこそ気を遣うのが、おしゃれというものなの」
綾乃に言われても、潮音はわかったようなわからないような、怪訝そうな表情をしていた。
今学校の入学を九月に変更するかが議論の的になっていますが、もしこうなったらこの話の前提そのものが成り立たなくなりますね。
「家にいよう」というわけで小説を書く余裕もできたわけですが、一日も早くコロナウイルスの流行が終息することを願うばかりです。