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裸足の人魚  作者: やわら碧水
第六部
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第八章・移ろいゆく秋(その6)

 文化祭が一段落して十一月になると、日暮れがいっそう早まるとともに街路樹や公園の木々の葉も色づき始めて、季節が進むのがより速まるように感じられる。そのような中で、潮音たち三年生はいよいよ大学受験も追い込みとなって、日曜日も模試を受けるなどして慌ただしい日々を送っていた。


 しかしその中で、潮音は産休に入った美咲のことが気になっていた。美咲のことは時折クラスの間でも話題にのぼることがあったが、潮音は入学以来美咲は自分のことを認めてくれて、いろいろなところで世話になってくれただけに、美咲がなんとかして元気な赤ちゃんを産んでほしいと心の中で願うしかなかった。


 それと同時に、潮音はこの季節が近づくたびに、自分の運命を変えた「あの日」は、ちょうど今ごろの季節だったということにあらためて気づいていた。とはいえ潮音は自分が女になってからすでに三年もの歳月が流れていることにあらためて感慨を抱くとともに、自分が男だった頃の感覚がほぼ薄れようとしていることを感じて、戸惑いの念を抱かずにはいられなかった。


 そこで潮音は晩秋の穏やかな日差しが教室の中まで差し込むある昼休み、暁子と優菜に思いきって話しかけてみた。


「今となっては、むしろこっちの方が信じられないような気がするよ。自分が三年くらい前まで男だったなんて」


 そこで暁子は、感慨にふけっている潮音にそっと言葉をかけた。


「そんなの気にすることないじゃん。あんたはこの三年間、ほんとにいろんなことをよく頑張ったと思うよ。物事を頑張ることに男も女もないでしょ」


「うん…そうだよね」


 潮音が返事をすると、優菜も潮音に対して口を開いた。


「アッコの言う通りやで。それにあたしもアッコも、男の子だった頃の潮音も、女の子になった今の潮音も、どっちも潮音やということ、ちゃんとわかっとるよ」


「…どうもありがとう」


 潮音は暁子と優菜の心づかいに感謝したい気持ちになったが、内心ではもし自分が東京の大学に進学するとしたら、その自分のことを理解し受け入れてくれて、困ったときには力になってくれた親友たちとも別れることになるのかと思うと、少し切ない気持ちになった。もっとも潮音は、そのためには自分が東京の大学の入試に合格しなければ何もならないということは十分承知だったが。


 そのとき教室に、潮音たちと同じクラスの天野美鈴が勢いよく駆け込んできた。潮音がどうしたのかと思っていると、美鈴は潮音たちの顔を見るなり威勢よく声をかけた。


「ニュースや。美咲先生、体調の経過も順調で今月の終りにも赤ちゃん生れそうなんやって。どうやら男の子になりそうやけど」


 その話には、潮音だけでなく暁子や優菜、さらに教室の中にいた生徒たちが皆顔をほころばせた。そこで美鈴は、さっそく潮音たちに話しかけた。


「先生に赤ちゃん生れたら、うちらのクラスでも何かやった方がええかな。たとえば寄せ書きとか」


 そこで潮音も答えた。


「先生たちの中には、受験も追い込みなんだからこんなことに気を取られている間に勉強しろとか言う人もいそうだけど、みんなで寄せ書きを贈るくらいならいいんじゃない」


 そのことはその日の放課後のホームルームでも話題になったが、ともかく無事に出産が済むまで待とうという結論になった。


 しかし潮音は美咲の出産という現実を前にして、自分自身の「女」という性別をあらためて認識せずにはいられなかった。やがて自分も妊娠して出産する日が来るのか、しかしそのためにはそれ以前に、この人ならば自分の体を任せてもいいと思うような男が果たして現れるのか…。考えれば考えるほど、潮音はわからなくなっていった。


 そこで潮音は帰宅してから、綾乃に思いきってそのことを尋ねてみたが、綾乃はそれにそっと答えた。


「そんなこと、女の子だったら誰だってみんな思ってることよ。でもあんたは昔男の子だったからこそ、そのことが余計に気になるわけ?」


 綾乃は潮音の考えなど、とっくに見透かしているかのようだった。


「ああ、自分がもし女になってなかったら、そんなことなんか全然思わなかっただろうから…」


 ぐずぐずしている潮音に、綾乃はきっぱりと言い放った。


「今からそんなことでクヨクヨしたって何にもならないね。自分の毎日の生活をちゃんと送る方が大切よ。いい男と出会えて結婚するかしないか、赤ちゃんができるかできないかなんてものは運や成り行きにもよるところが大きいけれども、頑張って自分のやるべきことをちゃんとやったら、どんな進路を選んでも関係なく、自分の納得いくような人生を送れると思うから。でも変な話よね。あんたくらいの男の子で、『自分がパパになったら』とか思ってる子なんてあまりいないんだから。こっちだって同じくらい責任重いのに」


 潮音はそこで綾乃の「いい男」という言葉を聞いて、心の中で浩三や昇のことを思い浮べていた。潮音はその二人の目標を目指してストイックに努力する姿勢や、特に昇の優しいところには敬意を抱いていたが、それが世間で言うところの「恋」になるのだろうかと問われると、潮音も自信がなかった。潮音はそのようなことばかりを考えていてもきりがない、今は受験の方が大事だと強引にでも思うことにして、雑念を振り切って問題集に向かおうとした。



 それから数日間は、潮音の所属する三年梅組もそわそわと落ち着かない日が続いた。クラスのだれもが、美咲が無事に出産を済ませてほしいと願っているかのようだった。


 そしてとうとうその日は来た。十一月も末になって、色づいた木の葉が舞う空が青くすっきりと晴れ渡った日に、昼休みに天野美鈴が息を切らせながら教室に駆け込んできた。


「美咲先生、今朝無事に赤ちゃん生れたみたいやで。男の子やってさ」


 その瞬間、梅組の教室全体が祝福ムードに包まれた。潮音も美咲のことをずっと気にもんでいただけに、このニュースにはほっと胸をなで下さずにはいられなかった。暁子や優菜も、このニュースには顔色を明るくした。


 さっそくこの日のホームルームで、美咲にクラスの生徒たちからも何かお祝いをしようということが議題になった。結局は無難にクラス全員の寄せ書きをした色紙を贈ることになり、その翌日には正方形の色紙が用意されていた。そして色紙の真ん中に「吉野先生おめでとうございます 三年梅組生徒一同」と書き込まれると、それに続いてクラスの生徒みんながカラフルなペンを使って、真ん中の文字を取り囲むようにお祝いの言葉を書き込んでいった。美術部の国岡真桜は、言葉と一緒に簡単なイラストを色紙に書き込んでいた。潮音も照れくさそうに、「吉野先生おめでとうございます。これからも頑張ってください」とだけ文字を書き込んだ。


 その日潮音が帰宅の途につこうとすると、紫に光瑠、琴絵に愛里紗といった特進コースの生徒たちから声をかけられた。話の口火を切ったのは紫だった。


「美咲先生、ちゃんと赤ちゃん生れたんだって? 良かったじゃない」


 紫たちも皆一様に嬉しそうな顔をしていた。特進コースの生徒たちの間でも、美咲の出産のことは気になっていたようだった。


「だから梅組ではクラスのみんなで寄せ書きをしたんだ」


 潮音が紫の言葉に答えると、紫も満足そうな顔をした。


「いいんじゃない? そうやってささやかでもみんなの気持ちを伝えたら、美咲先生だってきっと喜ぶと思うよ」


 紫にまで褒められて、潮音は照れくさい気分になった。そこで潮音は紫に尋ねてみた。


「美咲先生、いつになったら先生の仕事に復帰できるのかな…。そのころには私たちは卒業してるけど」


 そこに学年主任の牧園久恵が通りかかった。久恵もたまたま耳に入った潮音たちの話の内容に興味を示したようだった。


「みんな美咲先生のことが気になるのね」


 潮音たちがうなづくと、久恵は説明を始めた。


「うちの学校では育児休暇は最低でも子どもが一歳になるまで、最長だと三年は取れるのよ。でも保育園はなかなか空きがないし、私だって小さな子どもを育てながら先生の仕事をやるのは本当に大変だったんだから」


 紫たちも教師の仕事と育児の両立を実際に行った経験者として、久恵の話をよく聞いていた。そこで潮音は感慨深そうに言葉を漏らした。


「…女の人って大変なんですね」


「まあ、最近では男性も育児休暇を取得することを認める会社も増えてきているし、女性が出産で仕事を辞めなきゃいけないなんてことも昔よりは少なくなっているけどね。それでも旦那さんがちゃんと育児に協力してくれたらいいんだけど」


 久恵の話を聞きながら、潮音は自分がかつて男の子だった頃は、母親の苦労なんか考えたこともなかったなと思って、少し気恥ずかしく感じた。そこで潮音は久恵に尋ねた。


「あの、私たち梅組は生徒みんなで先生のために寄せ書きをしたのですけど、それを先生に渡すにはどうすればいいでしょうか」


「自然分娩(ぶんべん)だとだいたい産後五日から七日くらいで退院できるから、その後に学校の方で美咲先生に渡しておくわ。それにあなたたちこそ期末テストがもうすぐなんでしょ? いくらいいニュースだからといってそれに浮かれてばかりいないで、みんなちゃんと勉強することね」


 最後に勉強するようにという説教が入る辺りはやはり久恵だなと思いながらも、潮音は紫たちや久恵と別れて学校を後にすることにした。しかし街を歩きながらも、潮音の心の中からは先ほど口からぽつりと漏らした「女の人って大変なんですね」という思いがなかなか抜けなかった。潮音は特に医学部を目指している愛里紗あたりは、もし医師になれたとしてもそれと育児の仕事をどうやって両立させるのだろうと考えずにはいられなかった。



 十二月に入って期末テストが一段落すると、街路樹や校内の木もすっかり葉を落して朝晩はめっきり寒さを感じるようになり、街にはクリスマスイルミネーションがまたたくようになっていた。


 三年梅組の教室では期末テスト後のホームルームで、美咲の手紙が読み上げられた。その美咲の手紙には、出産から一週間後に病院を退院できたとはいえ、今は自宅で赤ちゃんの世話に追われる日々だと書かれていた。それでも美咲は、生徒たちみんなの寄せ書きを受け取ったときには胸が熱くなったという感謝の意を示すことを忘れなかった。それだけで潮音は、美咲に寄せ書きを贈って良かったと感じていた。


 続いて美咲の赤ちゃんの名前も知らされるとともに、下ろされたスクリーンに美咲の赤ちゃんの写真が写された。それと同時にクラス中の生徒たちから「かわいい」という歓声や、「やっぱりちょっと美咲先生に似てるよね」という声が上がった。しかし潮音は、たしかに赤ちゃんをかわいいとは思ったものの、自分ももしかしたらこのように自分の体に新たな命を宿す日が来るかもしれないと思うと、少し気が重くなった。


 学校を後にしてからも、暁子と優菜は赤ちゃんがかわいいという話で持ちきりだった。潮音はそれを耳にしながら、自分は美咲の赤ちゃんのことも大切だけども、まずはいよいよ目前に迫った受験に全力を注がなければと意を新たにしていた。

いつの間にか百万文字を超す長編となったこの「裸足の人魚」も、ようやく完結への道筋が見えてきました。このペースで行くと、「裸足の人魚」は夏ごろには完結すると思います。その前には潮音の大学受験や高校卒業という大きなエポックが待っていますが、なんとかして有終の美を飾れるようにしなければと思います。

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